いよいよ舞台稽古が始まった。
忍と凛も事務所から移動しホワイエで事務作業を行うことにする。ホワイエにはスピーカーから劇場内の音が聞こえてくるので、何か起こればすぐに様子を見に行くことができた。
藤吉は、つきっきりではないけれど、舞台稽古をよく覗いて、気づいたことは指摘していたらしい。さすがに忍や凛が口出しできることはないけれど、何かトラブルが起きてもすぐに対応できるように、せめて近くで見守ろうと忍が言ったのだ。
舞台稽古二日目。
ホワイエのグッズコーナーの準備を終えた凛は、忍と一緒に、受付で観劇客のリストを作っていた。一般客は茶屋などですでにチケットを手に入れているが、昔からの常連たちは劇場から直でチケットを購入していた。
すでに手元に届け済みのものもあれば、劇場で直接手渡すチケットもある。
誰がどの公演に来場し、どこの席に座るのか。逐一確認しながらチケットを用意していくのは、一際手間のかかる仕事だった。
当たり前だがリストは手書きなので、パソコンで検索すれば一発……というわけにはいかない。
場内に入って稽古の様子を確認したかったが、それも難しそうだ。
と、客席の扉が開いて、誰かが場内から出てきた。
休憩だろうか、とそちらに視線を遣ると、出てきたのは春と雨だった。二人は体格が似ていて、遠目だと見分けがつかないことがある。
二人は今回、礼央の親友役を演じている。春は中盤の決闘シーンで死んでしまう一方、雨は最後まで物語の狂言まわし的な役割を担っていた。それってマーキューシオとベンヴォーリオよね……と思うけれど、作中の名前はやっぱり違うらしい。
あまりに物語に聞き覚えがありすぎて、凛はこれが全部悪い夢なんじゃないかと思ってしまうほどだった。
「あーあ。俺、この後暇だわ」
春がそう言って、ホワイエのソファにどっかりと腰を下ろした。どうやら真ん中のシーンまで稽古は進んだようだ。
それで出番の終わった春はひと息入れにきたらしい。雨はそんな春を追って出てきたようだが、表情が曇っているのが気になった。
「そんなこと言うなよ。稽古見てるのも勉強になるだろ」
「ちょっと休憩したっていいじゃん。雨はさっさと戻れよ。俺と違ってこの後もずっと出番があるんだし」
「そうだけど……」
「ほら、出とちったら怒られるぞ」
しっしっと手で雨を追い払った春は、ごろんとソファに寝転がった。雨はため息を吐きながらも再び場内へ戻っていく。
「春さん」
「なに」
そっと近寄って凛が声をかけると、不機嫌そうな返事が返ってくる。
「寝るのはいいんですけど、靴は脱いでもらえますか」
そう言うと、勢いよく起き上がった春は、罰が悪そうに目を逸らした。
「ごめんなさい」
「こちらこそうるさくてすみません。でもお客様が座るので」
「そう……だよね。ごめんなさい」
いっそう小さくなる春に、凛は首を振る。
「衣装の靴だからそんなに汚いとは思ってないですよ」
「うん……」
そう頷きながらも、春は「はあ」と顔を手で覆った。まるで伏せてしまうような姿勢に、凛は「大丈夫ですか?」と声をかける。
「うん。平気。本当にごめん」
「いや本当にそんなに落ち込まないで……」
「そうじゃなくて」
春の声がくぐもっていてよく聞こえない。凛は膝をついて耳を寄せた。
「雨にすっごい八つ当たりしたから」
「……そうなんですか?」
予想外の言葉にきょとんと訊ね返すと、春はぼんやりと凛を見た。目元が赤く染まっている。
「八つ当たりでしょ。どう考えても。俺、今回どうしても配役に納得いってなくて」
あ、と凛は音になる前に慌てて口を押さえた。
藤吉がいういわゆる
これが実力なのか人気なのか年齢なのか、順番の理由を凛は知らなかったけれど、それにも意味があるらしい。
「俺、一応三番手なのに……今回の出番本当に少ない……」
春はそう言って、再び手で顔を覆った。
確かに、同じ礼央の親友であっても出番の長さも、台詞の量も、雨の方が断然多い。昴は敵対する相手役で、悪役……ではないものの、ライバルのような存在――それはつまりティボルトなのだが――で、これまた出番が多い。
元の『ロミオとジュリエット』と同じなのであれば、愁演じるヒロインの兄であり、礼央との決闘シーンもある。
「なんでだろ……」
春はそう言って、がっくりと肩を落とした。
主役とその相手役は必ずトップと二番手が演じることになっているが、それ以外の配役は演出家が決めているはずだった。
もしかしたら藤吉も口を出していたのだろうか。またひとつ、知らないことが増えてしまった。
ちらりと凛が忍の方を見ると、忍はゆっくりと顔を横に振った。
春は三人の中でも一番身体が細く、背も低かった。だから女形を演じることも多い。もしヒロインの親友というポジションがあったら、真っ先に配役されるタイプだ。
ただ今回の作品には、ヒロインの相談役となるような人物は登場しない。
比較的体育会系な役を演じることの多い昴の役を狙っていたわけではないだろうから、もしかしたら、雨に役を取られた気でいるのだろうか。
前世で何度か観た『ロミオとジュリエット』を思い返す。
確かに雨はマーキューシオというより、比べると大人びていてロミオに年齢感の近い、狂言回し的な役割を担うベンヴォーリオの方が、イメージに合っていた。
だからつまり、春のせいではなく、他の二人の役が先に決まったのだろう。
――と思うものの、それを言ったところで、なんの意味があるのかわからなかった。
それで慰めになるようなら役者としてどうかと思うし、逆に落ち込ませる結果になるかもしれない。
「俺と雨は子役時代からずっと一緒だったんですよ。年も同じで、入った時期もほぼ同じだし」
「そうだったんですか」
「子役を卒業して劇団員として残れるかどうかの審査の時も、二人で一緒に励まし合って稽古したし。だからあいつがいい役についたら喜べると思ってたんだけど……」
無理だった、と続ける声はほとんど泣き声に近かった。
「あー、もういろんな意味で情けない」
そう言う春に、なんと声を掛ければいいのか、凛はわからなかった。
藤吉ならどうしただろうか。
すると忍が音もなく近寄ってきて、春に湯呑みを差し出した。
「飲んで、少し落ち着いてください」
短く、少し厳しく聞こえる声でそう言われ、春は黙って受け取ると、ひと口含んだ。
「あっま……」
「生姜湯です。泣くと喉を使いますから」
「そうですよね……」
春は頷くと、ごくごくと一気に湯呑みの中身を飲み干した。深く息を吐いたその時、勢いよく客席の扉が開いた。
「春! 何してるんだい、出番だよ」
愁が鋭い声で呼んでいる。
「えっ。はい!」
慌てて立ち上がった春から凛が湯呑みを受け取る。「ありがとうございます」と言葉を残して、春は再び場内へと消えていった。
「出番が終わったって言ってましたけど……」
「さあ。回想シーンのこと忘れてたんじゃないですか」
忍は肩をすくめると、受付へ戻っていく。
凛も慌てて後を追った。
「気にすることはないと思いますよ」
「え?」
「支配人も、特に声はかけなかったと思います。出番の多さで悩んでいるうちは、まだまだですから」
忍がそう言い放って、凛が春にかける言葉を持っていないことを悔やんでいたことを、気づいていたのだとわかった。
「そうなんでしょうか」
「気休めのような励ましを言っても、結局本人が乗り越えるしかありませんしね」
忍に頷きながらも、凛は劇団に所属する厳しさを改めて考えた。
序列がはっきり決まっている世界で、毎日を過ごすというのは、凛が想像する以上に辛いのかもしれない。
その点、颯太は劇団に所属していたわけではないから、その心配はなかっただろう。ただ、順調に大きな役を与えられるわけではないから、その度にどんな気持ちを抱いていたのか考えると胸が締め付けられる気がした。
もっとも常に主役で呼ばれる、というのも辛いだろうけれど。
私の推しに頂点を取らせたい――。そんな思いでいっぱいだったけれど、ハードルは予想以上に高く、そして自分の想像とは別の厳しさがあるのかもしれない、と凛は痛感していた。