夕暮れが江戸の町をしっとりと包みはじめた頃、詰所には、
源太郎は、羽織の紐を整えながら、提灯の芯を指先で確かめる。
ふと横を見ると、伊助の声が湯気の向こうからふわりと立ち上ってきた。
熊吉は壁際で大の字になって、気持ちよさそうにいびきをかいている。まあ、相変わらずの大物ぶりだ。
「――ってわけでさ。夜の江戸ってやつァ、気が抜けねぇんだよ」
伊助が手振りを交えつつ、数日前の出来事を熱心に語っていた。どうせ、だいぶ盛っているのだろう。
「だから、おとっつぁんがあんたたちに夜廻り頼んでんでしょ」
湯気を裂くように飛んできたのは、しのぶの鋭い声だった。詰所の端で湯飲みを拭きながらも、話の中身はしっかり聞いていたらしい。
彼女は火消し頭の娘で、男衆に混じっても一歩も引かない。源太郎の目から見ても、少々口は悪いが、手際の良さや目の鋭さは町内でも抜きん出ている。
「そうだけどよ。でも言いたかったのは、俺が機転利かせて立ち回ったからこそ、って話でさ」
伊助が胸を張るのを見て、源太郎は内心で小さく息をついた。やはり、かなり盛ってる――毎度のことだが、伊助の話は妙に自己評価が高い。
詰所の端で湯飲みを拭いていたしのぶの手が、そのときぴたりと止まった。
湯気越しでも、眉間の皺がひとつ深くなるのが見える。
次の瞬間、しのぶの視線が伊助に鋭く向けられた。
「機転? どこが?」
声はいつもより半音低い。
伊助の顔が、間の抜けたように固まった。
「どうせ、腰抜かして地べたに這いつくばってたんでしょ。結局助けたのは源太郎じゃない」
名指しされて、源太郎は肩をすくめる。別に助けるほどの何かをしたわけではないし、威張るつもりもない。その場でやるべきことをしただけだ。
「いや、でもよ! 最初に俺が割って入ったからこそ――!」
「はいはい、その心意気だけは褒めてあげる。……もうちょい様になれば言うことないんだけど」
しのぶの言葉にとげがあったが、その目にはやや悪戯な色が滲んでいた。何だかんだ、この弟分を
「……また俺だけ
伊助がむくれると、しのぶはふいっと視線をそらし、唇の端をちょっとだけ上げた。
その一瞬の表情の緩みを見て、源太郎も提灯を手にしながら、ふと目元をゆるませる。
三人のやり取りは、いつもこんな感じだった。無理に言葉を繋がなくても、呼吸のように自然に続いていく。
しかし、今日は僅かばかり流れが違った。
「それにしても、美人だったよなぁ。あの
伊助がぽつりと呟く。
「誰の話?」
しのぶの声がまた少し低くなった。手にした湯飲みの動きがぴたりと止まる。
「え? だから、その二日前に助けた瀬川屋のおりょうさんだよ。姉ちゃんとは違って……」
「……ふぅん?」
湯飲みが机に置かれる音が、やけに響いた。
失言に気づいた伊助の顔が一気に引きつるのが見える。
「ち、違う! 違うって! しの姉だって、あれだ、その、元気だし、愛嬌っての? 笑ってる顔とかは癒されるし……な?」
あたふたと弁解する伊助を見て、源太郎は思わず肩を震わせる。
「……伊助、口は災いの元って知ってるか」
「も〜源太兄まで! 笑ってる場合じゃないってば!」
伊助が必死に肩をすくめるのを見て、源太郎はふっと笑った。
「……しのは怒ると、夜盗より怖ぇからな。ほどほどにしとけ」
そう言葉を投げると、やはりというべきか、詰所の空気がぴしりと引き締まる。
「は? 誰が何より怖いって?」
じとっとした視線が突き刺さる。しのぶが伊助ではなく、自分を真っ直ぐ睨んでいる。
その反応を確かめるように、源太郎は口元をわずかにゆるめた。
「そうやって怒ってると、ほんと昔っから変わらねぇな」
しのぶの手が止まり、少し目を泳がせる。気まずそうに顔をそらす仕草には、鋭さよりも年相応の照れが混じっていた。
源太郎は提灯の芯をいじりながら、その様子をそっと見届ける。
火の揺らぎと一緒に、詰所の空気も少しだけ和らいでいた。
――そのとき。
戸口が、きぃっと音を立てて開いた。
夕靄をまとった外気が、詰所の中へふわりと流れ込んでくる。現れたのは、火消し頭にして伊助の師匠でもある大工の親方だった。
法被の肩は日焼けで色褪せ、顔には煤が一筋。
現場仕事で鍛えられた体はまだ張りがあるが、瞳の奥には、日々の気苦労がにじんでいた。
「よう、お前さんたち。夜廻りの支度はできてるか? ……まあ、まだ宵にはちと早ぇがな」
声の調子はいつも通り。だが、詰所の端にいる娘――しのぶの姿を見つけたとき、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。
しのぶはすぐに手拭いをたたんで、箪笥の端にぽんと置いた。表情は変わらないが、どこか“見られている”ことを意識しているようにも見える。
親方は何も言わない。だが、その沈黙の裏にあるものを、源太郎は薄々感じ取っていた。
(……本当は、気にかけてるんだろうな)
親方は、囲炉裏を挟んで源太郎の方へと視線を戻した。
そして、ふと口を開く。
「……さっきの話、儂の耳にも入った。その酔っ払い――逆恨みなんかしなきゃいいがな」
炭が、ぱち、と音を立てる。場の空気がわずかに静まり返った。
「町衆の前で恥をかかされたら、侍ってのは根に持つ。たとえ竹光でも、どこで牙を剥くかわからねぇ。……気をつけろよ」
親方の言葉に、伊助の肩がわずかにすくむのが見えた。熊吉は相変わらず眠っているように見えるが、ぴくりと瞼が震えたのがわかった。
しのぶは何も言わない。けれど、その横顔に漂う緊張の色を、源太郎は確かに感じた。
親方の視線が、源太郎へと戻る。
「……それにしても、珍しいな。お前さんが前に出て啖呵切るなんてよ。……そりゃあまあ、清三郎様のことが――」
一瞬、空気が止まった。
親方の言葉が宙で途切れる。
(……しまった、って顔だな)
源太郎はそう思いながら、表情を変えずに親方を見返した。
「……いや、余計なこと言った。すまねぇな」
「いえ、別に」
源太郎は淡々と答えた。
声には波を立てず、ただ静かに、短く。
でも――父の名を聞いた時。
提灯の芯を整えていた指先が、ほんの一瞬だけ止まったことに、自分でも気づいた。
心の奥の、触れてはいけない場所に指を差されたような感覚が、胸の奥でじわりと広がった。