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第1話 夕靄に灯る声

 夕暮れが江戸の町をしっとりと包みはじめた頃、詰所には、囲炉裏いろりの湯気と笑い声、そしてほんの少しの緊張感が漂っていた。


 源太郎は、羽織の紐を整えながら、提灯の芯を指先で確かめる。

 ふと横を見ると、伊助の声が湯気の向こうからふわりと立ち上ってきた。


 熊吉は壁際で大の字になって、気持ちよさそうにいびきをかいている。まあ、相変わらずの大物ぶりだ。


「――ってわけでさ。夜の江戸ってやつァ、気が抜けねぇんだよ」


 伊助が手振りを交えつつ、数日前の出来事を熱心に語っていた。どうせ、だいぶ盛っているのだろう。


「だから、おとっつぁんがあんたたちに夜廻り頼んでんでしょ」


 湯気を裂くように飛んできたのは、しのぶの鋭い声だった。詰所の端で湯飲みを拭きながらも、話の中身はしっかり聞いていたらしい。


 彼女は火消し頭の娘で、男衆に混じっても一歩も引かない。源太郎の目から見ても、少々口は悪いが、手際の良さや目の鋭さは町内でも抜きん出ている。


「そうだけどよ。でも言いたかったのは、俺が機転利かせて立ち回ったからこそ、って話でさ」


 伊助が胸を張るのを見て、源太郎は内心で小さく息をついた。やはり、かなり盛ってる――毎度のことだが、伊助の話は妙に自己評価が高い。

 詰所の端で湯飲みを拭いていたしのぶの手が、そのときぴたりと止まった。

 湯気越しでも、眉間の皺がひとつ深くなるのが見える。


 次の瞬間、しのぶの視線が伊助に鋭く向けられた。


「機転? どこが?」


 声はいつもより半音低い。

 伊助の顔が、間の抜けたように固まった。


「どうせ、腰抜かして地べたに這いつくばってたんでしょ。結局助けたのは源太郎じゃない」


 名指しされて、源太郎は肩をすくめる。別に助けるほどの何かをしたわけではないし、威張るつもりもない。その場でやるべきことをしただけだ。


「いや、でもよ! 最初に俺が割って入ったからこそ――!」


「はいはい、その心意気だけは褒めてあげる。……もうちょい様になれば言うことないんだけど」


 しのぶの言葉にとげがあったが、その目にはやや悪戯な色が滲んでいた。何だかんだ、この弟分を揶揄からかうのが楽しいのだ。


「……また俺だけ小僧ガキ扱いかよ、しの姉」


 伊助がむくれると、しのぶはふいっと視線をそらし、唇の端をちょっとだけ上げた。

 その一瞬の表情の緩みを見て、源太郎も提灯を手にしながら、ふと目元をゆるませる。


 三人のやり取りは、いつもこんな感じだった。無理に言葉を繋がなくても、呼吸のように自然に続いていく。

 しかし、今日は僅かばかり流れが違った。


「それにしても、美人だったよなぁ。あの。しとやかで、品もあってさ」


 伊助がぽつりと呟く。


「誰の話?」


 しのぶの声がまた少し低くなった。手にした湯飲みの動きがぴたりと止まる。


「え? だから、その二日前に助けた瀬川屋のおりょうさんだよ。姉ちゃんとは違って……」


「……ふぅん?」


 湯飲みが机に置かれる音が、やけに響いた。

 失言に気づいた伊助の顔が一気に引きつるのが見える。


「ち、違う! 違うって! しの姉だって、あれだ、その、元気だし、愛嬌っての? 笑ってる顔とかは癒されるし……な?」


 あたふたと弁解する伊助を見て、源太郎は思わず肩を震わせる。


「……伊助、口は災いの元って知ってるか」


「も〜源太兄まで! 笑ってる場合じゃないってば!」


 伊助が必死に肩をすくめるのを見て、源太郎はふっと笑った。


「……しのは怒ると、夜盗より怖ぇからな。ほどほどにしとけ」


 そう言葉を投げると、やはりというべきか、詰所の空気がぴしりと引き締まる。


「は? 誰が何より怖いって?」


 じとっとした視線が突き刺さる。しのぶが伊助ではなく、自分を真っ直ぐ睨んでいる。

 その反応を確かめるように、源太郎は口元をわずかにゆるめた。


「そうやって怒ってると、ほんと昔っから変わらねぇな」


 しのぶの手が止まり、少し目を泳がせる。気まずそうに顔をそらす仕草には、鋭さよりも年相応の照れが混じっていた。


 源太郎は提灯の芯をいじりながら、その様子をそっと見届ける。

 火の揺らぎと一緒に、詰所の空気も少しだけ和らいでいた。 


 ――そのとき。

 戸口が、きぃっと音を立てて開いた。


 夕靄をまとった外気が、詰所の中へふわりと流れ込んでくる。現れたのは、火消し頭にして伊助の師匠でもある大工の親方だった。


 法被の肩は日焼けで色褪せ、顔には煤が一筋。

 現場仕事で鍛えられた体はまだ張りがあるが、瞳の奥には、日々の気苦労がにじんでいた。


「よう、お前さんたち。夜廻りの支度はできてるか? ……まあ、まだ宵にはちと早ぇがな」


 声の調子はいつも通り。だが、詰所の端にいる娘――しのぶの姿を見つけたとき、ほんの一瞬だけ視線が揺れた。

 しのぶはすぐに手拭いをたたんで、箪笥の端にぽんと置いた。表情は変わらないが、どこか“見られている”ことを意識しているようにも見える。


 親方は何も言わない。だが、その沈黙の裏にあるものを、源太郎は薄々感じ取っていた。


(……本当は、気にかけてるんだろうな)


親方は、囲炉裏を挟んで源太郎の方へと視線を戻した。

そして、ふと口を開く。


「……さっきの話、儂の耳にも入った。その酔っ払い――逆恨みなんかしなきゃいいがな」


炭が、ぱち、と音を立てる。場の空気がわずかに静まり返った。


「町衆の前で恥をかかされたら、侍ってのは根に持つ。たとえ竹光でも、どこで牙を剥くかわからねぇ。……気をつけろよ」


 親方の言葉に、伊助の肩がわずかにすくむのが見えた。熊吉は相変わらず眠っているように見えるが、ぴくりと瞼が震えたのがわかった。


 しのぶは何も言わない。けれど、その横顔に漂う緊張の色を、源太郎は確かに感じた。


 親方の視線が、源太郎へと戻る。


「……それにしても、珍しいな。お前さんが前に出て啖呵切るなんてよ。……そりゃあまあ、清三郎様のことが――」


 一瞬、空気が止まった。

 親方の言葉が宙で途切れる。


(……しまった、って顔だな)


 源太郎はそう思いながら、表情を変えずに親方を見返した。


「……いや、余計なこと言った。すまねぇな」

「いえ、別に」


 源太郎は淡々と答えた。

 声には波を立てず、ただ静かに、短く。


 でも――父の名を聞いた時。

 提灯の芯を整えていた指先が、ほんの一瞬だけ止まったことに、自分でも気づいた。


 心の奥の、触れてはいけない場所に指を差されたような感覚が、胸の奥でじわりと広がった。


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