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第2話 静かな火種

 親方の言葉が途切れ、囲炉裏の空気がようやく落ち着こうとしていた、そのときだった。


 ──コン、コン。

 控えめに戸を叩く音が、室内の沈黙を破る。


「……どなた様で?」


 しのぶがやや身を乗り出して声をかける。障子越しに返ってきたのは、春の陽だまりを思わせる、やわらかく張りのある女の声だった。


「失礼いたします。瀬川屋の、おりょうと申します」


 その名が落ちると同時に、囲炉裏のまわりの空気がふわりと波打った。伊助が湯呑みを持ち上げたまま動きを止め、親方が眉根を寄せて顔を上げる。


 障子が静かに開かれ、白地に淡い藤の文様をあしらった小袖に身を包んだ娘が、両腕に風呂敷を抱えて姿を現した。まっすぐに伸びた背筋と、指先のそろった所作。

 背筋はまっすぐで、どこか緊張した空気までも引き連れているようだった。


「あら? おりょうさんと言えば……」


 しのぶの表情は変わらず穏やかだったが、その瞳の奥に潜む静かな圧に、伊助は背筋を正さずにいられなかった。先ほどの、自分のうっかりした一言が脳裏にちらつき、どうにか場を取り繕おうと立ちかけて――


「わっ、あぶっ……!」


「まあ! 大丈夫ですか、伊助さん?」


 おりょうが、すかさず声をかける。驚いたようでいて、どこか包むような優しさが滲んでいた。

 小首を傾げ、風呂敷を抱えたまま一歩踏み出しかける仕草さえ、柔らかだった。


「へっ、大丈夫です! 平気っす!」


 耳まで真っ赤にして、伊助は慌てて太ももを叩く。笑顔はどこか引きつっていた。

 親方が小さく咳払いして、場を整える。


「わざわざのお礼とは……まことに丁寧な。ですが、お嬢さん、あんなことがありましたからな。一人歩きはお控えください」


 おりょうはにこりと笑い、風呂敷を解き始めた。指先の動きは静かで、でも自信に満ちている。


「いえ、父がどうしてもと申しましたもので。私も……お顔を見てお礼を、と」


 そのまなざしが、自然と源太郎のほうへ向けられる。源太郎はわずかに視線を逸らし、手元の提灯に目を落とす。鼻先がほんの少し動いた。


 解かれた風呂敷から姿を現したのは、金箔のあしらいが施された見目麗しい菓子折り。


「父から、皆様へのお礼でございます。つまらないものですが……どうぞお納めくださいませ」


「おお……」


 伊助が声を漏らす。親方も「こりゃまた……」と感嘆の息をもらす。

 源太郎はわずかに目を伏せ、提灯へと視線を落とす。その動きが、どこかぎこちない。


「……気持ちはありがたいが……」


 口を開きかけたところで、伊助が慌てて口を挟んだ。


「いやいやいや、源太兄! ここは素直にありがたく、でしょ!」


「……まあ、そうか」


 それでも、どこかぎこちない声。その曖昧な様子に、おりょうが怪訝そうに眉を動かしかけたとき、しのぶが前へ出た。手にしていた布巾を机に置き、腰に手を当てる。


「まったくもう。源太郎ってば、昔から甘いものには見向きもしなかったわよね。饅頭より塩煎餅、それも辛口ばっかり」


 しのぶの口調は明るかったが、その言葉の端々には棘が潜んでいた。視線はまっすぐ、源太郎の背を射抜いている。

 伊助が気まずそうに目をそらす中、おりょうは微笑みを崩さず、ふわりとやさしく口元に手を添えた。


「まぁ……それでしたら、次は塩煎餅をお持ちしますわ」


 声色は変わらず穏やか。けれどその切り返しには、静かな強さと、機転の冴えが滲んでいた。

 そして間髪を入れず、表情を変えぬまま続けた。


「父も、一度ご挨拶をと申しておりまして。よろしければ、今度、うちへもお立ち寄りくださいませ」


 視線はやさしく、けれど逃がさぬように、源太郎を捉えていた。


「ええっ、おりょうさんのお屋敷にですか」


 伊助が浮かれたように声を上げる。しのぶの火箸が、わずかに音を立てて動く。

 源太郎は曖昧に笑みを浮かべるが、その目元にはやや困惑の色がにじんでいた。


「……ああ。お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」


 そのやわらかな言い回しには、どこか一線を引く含みがあった。

 手にした菓子折りの包みを見下ろし、しばし持て余すように視線を泳がせる。膝に置こうとしてやめ、囲炉裏の端に寄せかけかけて、また止める。


 そのとき、音もなく戸の隙間から影がすべり込んだ。

 三毛の猫が、煤けた毛を揺らしながら囲炉裏を一巡し、迷いなく熊吉の膝へと跳び乗る。


「ぉ〜……」


 熊吉があくび混じりに目をこすり、上体を起こした。

 それを見て、ホッとした様子で源太郎は立ち上がり、熊吉に菓子折りを見せながら言った。


「……昨夜の礼にもらった。食うか? たぶん、甘ぇぞ」


 熊吉はちらと見上げ、……無言のまま箱を受け取り、しばし中身を見つめた後、ひとつ摘んで口に運ぶ。


「……悪かねぇな」


 短くそう呟いてから、膝の猫を撫でる。猫はごろごろと喉を鳴らし、それが囲炉裏の静けさに溶けていった。


 おりょうは一部始終を眺めてから、うれしそうに微笑んだ。それから、スッと姿勢を正して深く一礼する。


「本日は、失礼いたしました。どうか皆さま、お身体をお大事に」

「おりょうさんもお気をつけて。表まで、お送りします」


 源太郎が自然な声音でそういうと、囲炉裏端から立ち上がった。

 立ち上がるその所作には、どこか気恥ずかしさを隠すような迷いがあった。


「ありがとうございます」


 ふたりの姿が外へ消え、戸が閉まる。


「……なによ、わざわざ見送りだなんて」


 ぽつりとこぼすしのぶの声には、隠しきれない拗ねと、少しの苛立ちがにじんでいた。

 火箸を手に取り、炭をつついて火を起こす。赤々とした火がぐんと勢いを増し、火の粉がぱちりと宙に跳ねた。

 囲炉裏には、妙に張り詰めた静けさが漂っていた。


「源太郎ってば……ああいう時だけ妙に気が利くんだから……塩煎餅? 次はお屋敷に招かれる? なによそれ!」


 炭を押し込む手が、少しだけ強くなる。しのぶの頬はわずかに赤く、眉間には小さな皺が寄っていた。


「こっちは日々、炊事洗濯、薪の番。煙くさくなっても文句ひとつ言わず働いてるのに、何でああいうのが……!」


「……しの姉、俺、水くみに行ってきます……!」


 伊助がそそくさと腰を上げ、親方も「おう、そうだ、裏の畑が……」と立ち上がる。気まずさを払いのけるように、少しぎこちない動きで。


「……逃げたわね、あのふたり」


 しのぶが背を向けた先で、熊吉は猫を膝に乗せたまま、静かにその背を撫でていた。


「ねえ、逃げたわよね?」


 応えはない。

 ただ、猫のごろごろという喉の音だけが、囲炉裏の静寂に溶け込んでいた。

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