親方の言葉が途切れ、囲炉裏の空気がようやく落ち着こうとしていた、そのときだった。
──コン、コン。
控えめに戸を叩く音が、室内の沈黙を破る。
「……どなた様で?」
しのぶがやや身を乗り出して声をかける。障子越しに返ってきたのは、春の陽だまりを思わせる、やわらかく張りのある女の声だった。
「失礼いたします。瀬川屋の、おりょうと申します」
その名が落ちると同時に、囲炉裏のまわりの空気がふわりと波打った。伊助が湯呑みを持ち上げたまま動きを止め、親方が眉根を寄せて顔を上げる。
障子が静かに開かれ、白地に淡い藤の文様をあしらった小袖に身を包んだ娘が、両腕に風呂敷を抱えて姿を現した。まっすぐに伸びた背筋と、指先のそろった所作。
背筋はまっすぐで、どこか緊張した空気までも引き連れているようだった。
「あら? おりょうさんと言えば……」
しのぶの表情は変わらず穏やかだったが、その瞳の奥に潜む静かな圧に、伊助は背筋を正さずにいられなかった。先ほどの、自分のうっかりした一言が脳裏にちらつき、どうにか場を取り繕おうと立ちかけて――
「わっ、あぶっ……!」
「まあ! 大丈夫ですか、伊助さん?」
おりょうが、すかさず声をかける。驚いたようでいて、どこか包むような優しさが滲んでいた。
小首を傾げ、風呂敷を抱えたまま一歩踏み出しかける仕草さえ、柔らかだった。
「へっ、大丈夫です! 平気っす!」
耳まで真っ赤にして、伊助は慌てて太ももを叩く。笑顔はどこか引きつっていた。
親方が小さく咳払いして、場を整える。
「わざわざのお礼とは……まことに丁寧な。ですが、お嬢さん、あんなことがありましたからな。一人歩きはお控えください」
おりょうはにこりと笑い、風呂敷を解き始めた。指先の動きは静かで、でも自信に満ちている。
「いえ、父がどうしてもと申しましたもので。私も……お顔を見てお礼を、と」
そのまなざしが、自然と源太郎のほうへ向けられる。源太郎はわずかに視線を逸らし、手元の提灯に目を落とす。鼻先がほんの少し動いた。
解かれた風呂敷から姿を現したのは、金箔のあしらいが施された見目麗しい菓子折り。
「父から、皆様へのお礼でございます。つまらないものですが……どうぞお納めくださいませ」
「おお……」
伊助が声を漏らす。親方も「こりゃまた……」と感嘆の息をもらす。
源太郎はわずかに目を伏せ、提灯へと視線を落とす。その動きが、どこかぎこちない。
「……気持ちはありがたいが……」
口を開きかけたところで、伊助が慌てて口を挟んだ。
「いやいやいや、源太兄! ここは素直にありがたく、でしょ!」
「……まあ、そうか」
それでも、どこかぎこちない声。その曖昧な様子に、おりょうが怪訝そうに眉を動かしかけたとき、しのぶが前へ出た。手にしていた布巾を机に置き、腰に手を当てる。
「まったくもう。源太郎ってば、昔から甘いものには見向きもしなかったわよね。饅頭より塩煎餅、それも辛口ばっかり」
しのぶの口調は明るかったが、その言葉の端々には棘が潜んでいた。視線はまっすぐ、源太郎の背を射抜いている。
伊助が気まずそうに目をそらす中、おりょうは微笑みを崩さず、ふわりとやさしく口元に手を添えた。
「まぁ……それでしたら、次は塩煎餅をお持ちしますわ」
声色は変わらず穏やか。けれどその切り返しには、静かな強さと、機転の冴えが滲んでいた。
そして間髪を入れず、表情を変えぬまま続けた。
「父も、一度ご挨拶をと申しておりまして。よろしければ、今度、うちへもお立ち寄りくださいませ」
視線はやさしく、けれど逃がさぬように、源太郎を捉えていた。
「ええっ、おりょうさんのお屋敷にですか」
伊助が浮かれたように声を上げる。しのぶの火箸が、わずかに音を立てて動く。
源太郎は曖昧に笑みを浮かべるが、その目元にはやや困惑の色がにじんでいた。
「……ああ。お気持ちだけ、ありがたく頂戴します」
そのやわらかな言い回しには、どこか一線を引く含みがあった。
手にした菓子折りの包みを見下ろし、しばし持て余すように視線を泳がせる。膝に置こうとしてやめ、囲炉裏の端に寄せかけかけて、また止める。
そのとき、音もなく戸の隙間から影がすべり込んだ。
三毛の猫が、煤けた毛を揺らしながら囲炉裏を一巡し、迷いなく熊吉の膝へと跳び乗る。
「ぉ〜……」
熊吉があくび混じりに目をこすり、上体を起こした。
それを見て、ホッとした様子で源太郎は立ち上がり、熊吉に菓子折りを見せながら言った。
「……昨夜の礼にもらった。食うか? たぶん、甘ぇぞ」
熊吉はちらと見上げ、……無言のまま箱を受け取り、しばし中身を見つめた後、ひとつ摘んで口に運ぶ。
「……悪かねぇな」
短くそう呟いてから、膝の猫を撫でる。猫はごろごろと喉を鳴らし、それが囲炉裏の静けさに溶けていった。
おりょうは一部始終を眺めてから、うれしそうに微笑んだ。それから、スッと姿勢を正して深く一礼する。
「本日は、失礼いたしました。どうか皆さま、お身体をお大事に」
「おりょうさんもお気をつけて。表まで、お送りします」
源太郎が自然な声音でそういうと、囲炉裏端から立ち上がった。
立ち上がるその所作には、どこか気恥ずかしさを隠すような迷いがあった。
「ありがとうございます」
ふたりの姿が外へ消え、戸が閉まる。
「……なによ、わざわざ見送りだなんて」
ぽつりとこぼすしのぶの声には、隠しきれない拗ねと、少しの苛立ちがにじんでいた。
火箸を手に取り、炭をつついて火を起こす。赤々とした火がぐんと勢いを増し、火の粉がぱちりと宙に跳ねた。
囲炉裏には、妙に張り詰めた静けさが漂っていた。
「源太郎ってば……ああいう時だけ妙に気が利くんだから……塩煎餅? 次はお屋敷に招かれる? なによそれ!」
炭を押し込む手が、少しだけ強くなる。しのぶの頬はわずかに赤く、眉間には小さな皺が寄っていた。
「こっちは日々、炊事洗濯、薪の番。煙くさくなっても文句ひとつ言わず働いてるのに、何でああいうのが……!」
「……しの姉、俺、水くみに行ってきます……!」
伊助がそそくさと腰を上げ、親方も「おう、そうだ、裏の畑が……」と立ち上がる。気まずさを払いのけるように、少しぎこちない動きで。
「……逃げたわね、あのふたり」
しのぶが背を向けた先で、熊吉は猫を膝に乗せたまま、静かにその背を撫でていた。
「ねえ、逃げたわよね?」
応えはない。
ただ、猫のごろごろという喉の音だけが、囲炉裏の静寂に溶け込んでいた。