暮れゆく町に、瓦屋根を撫でる風が、音もなく吹いていた。
どこかの竈から立つ湯気に、味噌の匂いがまじり、人々の歩みは次第に家々の灯へ吸い込まれてゆく。
夜の帳が、静かにこの町を包みはじめていた。
おりょうを見送った源太郎は、詰所へ戻る道を辿っていた。
いつもと同じ、何も変わらぬ夕暮れ──そう思っていた。
ふと、胸元に冷たいものが差し込む。足が止まり、目が向いた。
夕焼けに溶けるようにして、ひとりの男が立っていた。黒羽織。
逆光に輪郭は霞んでいたが、その立ち姿に見覚えがあった。
──来い。
声はなかった。だが、わずかに曲げられた指先が、そう告げていた。
「……北の旦那……?」
つぶやいた瞬間、背筋が伸びる。
そのまま、人の気配が遠ざかる方角へと足を進めた。
「こんなところに、お出ましとは……」
そう言いかけて頭を下げると、男──北条英之介が静かに顎を引いた。
「声を落とせ。今宵は町人として振る舞ってくれ」
「……心得ております」
かつて父・清三郎と肩を並べ、この町の裏を歩いた男。
その眼差しは今も変わらず、鋭さの奥に懐かしさを宿していた。
ふたりは、並んで歩き出す。影と影が、ゆっくりと暮色に溶けていく。
「……昨日の酔漢の件を耳にした」
低く抑えた声が、闇を押し分けるように響いた。
源太郎の歩がわずかに緩む。うつむき気味に言葉を返す。
「昨夜の夜廻りで、米問屋の娘が絡まれているところに出くわしました」
「ふむ」
「浪人崩れのような男で、腰に竹光、裾ははだけ、泥酔していたようですが──火がつく前に、軽口で引かせました」
言いながら、自分の声に、どこか言い訳の色が混じっているのがわかった。
「……“鞘だけ立派でも、中身が空じゃあ、笑えねぇな”と。つい口が滑りました。親方にも釘を刺されまして。恨みを買っていなければいいのですが」
北条の肩がわずかに震えた。口元が笑っていた。
「して、お前はどう見た。その一件を」
「……もう少し、うまく立ち回れたはずだと思っています」
わずかな沈黙。
北条は首をわずかに振った。
「なにか違和感はなかったか。動き、目、言葉の端々にでも」
「目……ですね。妙に、こちらを見ていた気がしました。酔っているのに、視線だけが、妙に据わっていて」
「なるほど」
北条の目が細くなる。何かを測るようなまなざしだった。
「表向きは、ただの狼藉だ。だが、その男は日中にも駕籠を壊して騒ぎを起こしていた。その駕籠に乗っていたのが、長崎帰りの薬種問屋だったということを考えると──偶然にしては出来すぎている」
「……長崎帰りの薬種問屋、ですか」
「そうだ。誰かに頼まれていたのか、あるいは本人に目的があったのか……それは、まだわからん」
背筋に冷たいものが走った。
長崎、薬、駕籠の騒ぎ──その言葉が線のようにつながっていく。
おりょうが襲われたのも、薬屋からの帰りだった。
「……やはり、偶然じゃないと」
「私も、どうにもそうは思えなくてな」
風が抜ける。路地裏の空気が、肌にひやりと触れた。
「最近、町に妙な粉が入ってきている。異国の草が元らしい。火薬も、帳簿にない分が姿を消している。与力を動かしても空振り続き。帳面はきれいに整っていて、証は残らず、人は黙る。まるで、誰かが一手先を行っているようだ」
重たい言葉だった。源太郎は静かに、受け止めた。
「……だからこそ、お前に任せたい。表ではなく、裏を歩く者にしか見えぬ闇がある。清三郎が、そうであったようにな」
北条の声には、職責だけではないものがにじんでいた。
あの日々を共にした男の息子を、今は自分が支える番だと、そう言っているようだった。
源太郎は目を伏せたあと、しっかりと前を見た。
「宵守の火で照らせる闇なら、探ってみせやしょう」
北条の目元が、わずかにやわらぐ。
「さすがだな、あの清三郎の息子だ」
そのとき、どこかの屋根の上で夜烏がひと声、啼いた。
町はすっかり、夜の貌をまとっていた。
◇
詰所の戸を開けたとき、囲炉裏の空気は静まり返っていた。
「ただいま戻った」
努めて平静に言ったつもりだったが、すぐに返ったしのぶの声が鋭かった。
「あら。……思いのほか、時間かかったのね」
源太郎は一瞬、目をそらした。
「途中で、立ち話をしていてな」
「話、ね。ずいぶん親しくなったものね」
言葉は柔らかいが、その奥にある温度は冷たかった。
説明することはできない。“北の旦那”のことを知るのは、詰所でただひとり──熊吉だけだ。
囲炉裏の向こう、猫を膝に乗せた熊吉がこちらを見ていた。
言葉はなくとも、その目がすべてを察していた。
源太郎は自然を装い、そっとそばへ寄る。
「……“北の旦那”が来てた。例の件、動きがある」
熊吉の手がわずかに止まり、猫が少し身じろぎした。
「……物干しの裏で、詳しく話す」
猫が喉を鳴らす音が、囲炉裏の静けさに重なる。
「……遅いから、てっきり別のお嬢さんと話でもしてたのかと思ったわ」
しのぶが、笑ってそう言った。
その笑みに混じった棘が、妙に沁みた。
「……それは、ない」
囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。
誰もがその音に、言葉を止めた。
やがて、しのぶが無言で席を立ち、空になった湯飲みを盆に乗せて奥へと向かう。
源太郎は、囲炉裏のそばに残された湯飲みに手を伸ばす。中には、まだぬるんだ湯が少しだけ残っていた。
源太郎はそれを手に取り、無言でひと口。渋味が舌に沁みた。
──今夜は、まだ、終わらない。
囲炉裏の火は、静かに揺れていた。