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第3話 街の闇に潜むもの

 暮れゆく町に、瓦屋根を撫でる風が、音もなく吹いていた。

 どこかの竈から立つ湯気に、味噌の匂いがまじり、人々の歩みは次第に家々の灯へ吸い込まれてゆく。

 夜の帳が、静かにこの町を包みはじめていた。


 おりょうを見送った源太郎は、詰所へ戻る道を辿っていた。

 いつもと同じ、何も変わらぬ夕暮れ──そう思っていた。


 ふと、胸元に冷たいものが差し込む。足が止まり、目が向いた。

 夕焼けに溶けるようにして、ひとりの男が立っていた。黒羽織。

 逆光に輪郭は霞んでいたが、その立ち姿に見覚えがあった。


 ──来い。

 声はなかった。だが、わずかに曲げられた指先が、そう告げていた。


「……北の旦那……?」


 つぶやいた瞬間、背筋が伸びる。

 そのまま、人の気配が遠ざかる方角へと足を進めた。


「こんなところに、お出ましとは……」


 そう言いかけて頭を下げると、男──北条英之介が静かに顎を引いた。


「声を落とせ。今宵は町人として振る舞ってくれ」

「……心得ております」


 かつて父・清三郎と肩を並べ、この町の裏を歩いた男。

 その眼差しは今も変わらず、鋭さの奥に懐かしさを宿していた。


 ふたりは、並んで歩き出す。影と影が、ゆっくりと暮色に溶けていく。


「……昨日の酔漢の件を耳にした」


 低く抑えた声が、闇を押し分けるように響いた。


 源太郎の歩がわずかに緩む。うつむき気味に言葉を返す。


「昨夜の夜廻りで、米問屋の娘が絡まれているところに出くわしました」


「ふむ」


「浪人崩れのような男で、腰に竹光、裾ははだけ、泥酔していたようですが──火がつく前に、軽口で引かせました」


 言いながら、自分の声に、どこか言い訳の色が混じっているのがわかった。


「……“鞘だけ立派でも、中身が空じゃあ、笑えねぇな”と。つい口が滑りました。親方にも釘を刺されまして。恨みを買っていなければいいのですが」


 北条の肩がわずかに震えた。口元が笑っていた。


「して、お前はどう見た。その一件を」

「……もう少し、うまく立ち回れたはずだと思っています」


わずかな沈黙。

北条は首をわずかに振った。


「なにか違和感はなかったか。動き、目、言葉の端々にでも」


「目……ですね。妙に、こちらを見ていた気がしました。酔っているのに、視線だけが、妙に据わっていて」

「なるほど」


北条の目が細くなる。何かを測るようなまなざしだった。


「表向きは、ただの狼藉だ。だが、その男は日中にも駕籠を壊して騒ぎを起こしていた。その駕籠に乗っていたのが、長崎帰りの薬種問屋だったということを考えると──偶然にしては出来すぎている」

「……長崎帰りの薬種問屋、ですか」

「そうだ。誰かに頼まれていたのか、あるいは本人に目的があったのか……それは、まだわからん」


 背筋に冷たいものが走った。

 長崎、薬、駕籠の騒ぎ──その言葉が線のようにつながっていく。

 おりょうが襲われたのも、薬屋からの帰りだった。


「……やはり、偶然じゃないと」

「私も、どうにもそうは思えなくてな」


 風が抜ける。路地裏の空気が、肌にひやりと触れた。


「最近、町に妙な粉が入ってきている。異国の草が元らしい。火薬も、帳簿にない分が姿を消している。与力を動かしても空振り続き。帳面はきれいに整っていて、証は残らず、人は黙る。まるで、誰かが一手先を行っているようだ」


 重たい言葉だった。源太郎は静かに、受け止めた。


「……だからこそ、お前に任せたい。表ではなく、裏を歩く者にしか見えぬ闇がある。清三郎が、そうであったようにな」


 北条の声には、職責だけではないものがにじんでいた。

 あの日々を共にした男の息子を、今は自分が支える番だと、そう言っているようだった。


 源太郎は目を伏せたあと、しっかりと前を見た。


「宵守の火で照らせる闇なら、探ってみせやしょう」


 北条の目元が、わずかにやわらぐ。


「さすがだな、あの清三郎の息子だ」


 そのとき、どこかの屋根の上で夜烏がひと声、啼いた。

 町はすっかり、夜の貌をまとっていた。


 ◇


 詰所の戸を開けたとき、囲炉裏の空気は静まり返っていた。


「ただいま戻った」


 努めて平静に言ったつもりだったが、すぐに返ったしのぶの声が鋭かった。


「あら。……思いのほか、時間かかったのね」


 源太郎は一瞬、目をそらした。


「途中で、立ち話をしていてな」


「話、ね。ずいぶん親しくなったものね」


 言葉は柔らかいが、その奥にある温度は冷たかった。

 説明することはできない。“北の旦那”のことを知るのは、詰所でただひとり──熊吉だけだ。


 囲炉裏の向こう、猫を膝に乗せた熊吉がこちらを見ていた。

 言葉はなくとも、その目がすべてを察していた。


 源太郎は自然を装い、そっとそばへ寄る。


「……“北の旦那”が来てた。例の件、動きがある」


 熊吉の手がわずかに止まり、猫が少し身じろぎした。


「……物干しの裏で、詳しく話す」


 猫が喉を鳴らす音が、囲炉裏の静けさに重なる。


「……遅いから、てっきり別のお嬢さんと話でもしてたのかと思ったわ」


 しのぶが、笑ってそう言った。

 その笑みに混じった棘が、妙に沁みた。


「……それは、ない」


 囲炉裏の火が、ぱちりと弾けた。

 誰もがその音に、言葉を止めた。


 やがて、しのぶが無言で席を立ち、空になった湯飲みを盆に乗せて奥へと向かう。


 源太郎は、囲炉裏のそばに残された湯飲みに手を伸ばす。中には、まだぬるんだ湯が少しだけ残っていた。

 源太郎はそれを手に取り、無言でひと口。渋味が舌に沁みた。


 ──今夜は、まだ、終わらない。

 囲炉裏の火は、静かに揺れていた。

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