月は雲に呑まれ、物干し場はしんと静まり返っていた。洗い張りの布が風に揺れ、軒下の影が細く長く地を這っている。
夜の気配は深く、音ひとつが際立つような沈黙が漂っていた。
源太郎は縁側を抜け、足音を忍ばせて裏手へと身を滑らせた。そこには、先に着いていた熊吉が、壁にもたれて立っていた。
先ほどの猫が、熊吉の肩に乗っている。瞼を半ば伏せ、まるで風そのものの気配で夜に紛れていた。
「……遅かったな」
熊吉の声は低く、響きが地に吸い込まれるようだった。
「しのぶがまだ囲炉裏にいた。気取られたくなくてな」
「ふん。女の勘は鋭ぇ。いずれ気づく」
「……だろうな」
言葉の先を必要以上に交わすことなく、互いの思考は、音のないところで絡まり合っていた。
源太郎は羽織の中から小さな包みを取り出し、手のひらに馴染むように麻布ごと差し出した。熊吉は受け取り、端をほどく。
薄紙の束が顔を覗かせ、月のかけらに照らされて墨の線が微かに浮かび上がる。
「北の旦那からの密書。"葛西屋"の裏を洗えとのことだ。夜霞という闇組織と接点があるらしい」
「……葛西屋? あそこは米と反物を扱う問屋のはずだがな」
「表向きはな。だが最近、長崎筋から妙な荷が運び込まれてる。封もされず、宛名も曖昧な箱が、夜更けに」
熊吉は紙束を手の中で裏返し、質感を確かめるように指を滑らせた。
猫がゆっくりと肩を離れ、しなやかな動きで屋根のほうへと跳び移る。瓦の上で、風が小さく音を立てた。
「先日、長崎から薬種を持ち帰った商人の駕籠が、昼間に壊される騒ぎがあったそうだ。そして夜は、その薬屋から薬を買って帰るおりょうが絡まれた。偶然にしては……」
「……妙だな」
「ああ。異国の草を使った粉も出回っているらしい。火薬も消えてる」
熊吉の息遣いが、わずかに重くなった。
「昔、聞いたことがある。長崎の薬に、阿片を混ぜて売りさばく連中がいるって話だ」
「阿片……」
「吸えば夢心地になるが、やめられなくなる。体を蝕み、金を毟り取る。そいつらは、町人に化けて江戸に入り込んできやがる」
熊吉の拳が、かたく握られた。
「おれの……昔の仲間にも、そいつらに魂を売った奴がいる」
その声には、珍しく感情が込もっていた。
源太郎は黙って、続きを待った。
「鳴海弥兵衛って野郎だ。頭は切れるが、仲間を平気で売る。最後に会ったとき、怪しげな商人とつるんでるって噂があった」
「……その男が、江戸に?」
「わからん。だが、もしそうなら……」
熊吉の目が、夜闇の中で光った。
「おれが片をつける」
その一言が、空気を震わせた。
源太郎は、熊吉の横顔を見つめる。普段は眠そうな目が、今は獲物を狙う狼のように鋭かった。
「……わかった。けど、まずは情報集めが先だな」
ふたりの視線が、闇の中で短く交錯した。
一方そのころ、物干し場から少し離れた土間の影――。
「な、なにしてんすか、しの姉……こんなとこで……!」
伊助は声を潜めながらも、どこか情けない響きで言った。目の前の女が、壁に張りつくようにじっと暗がりを見つめているのが、少し怖かった。
「シッ、声が大きいわよ。あんた耳、いいでしょ?」
「え、まあ……しの姉が怒鳴るときは、特に……」
「ちがう、そういう意味じゃなくて!」
苛立ち混じりに囁き返しながら、しのぶは伊助の頭を両手で掴み、ぐいと物干し場のほうへ向けさせた。
「ほら、あそこで何か話してるのよ」
月影の濃淡を縫うようにして、二つの人影が重なっていた。
「ひぃっ……あれ、源太兄と……クマ兄? な、なんであんなとこでこそこそと……?」
「だから、怪しいって言ってるの。あのお嬢さんのこともあったし、よけいに……腑に落ちないの」
しのぶの眉が寄り、目が細められる。
「でも、しの姉、盗み聞きってのはちょっと……」
「人聞き悪いこと言わないで。あんたも気になるでしょ? 」
まあ多少はと伊助が小さく肩をすくめた。
「ちょっと覗いてきなさいよ」
「えぇ!? いやいや、しの姉が言い出したんだから自分で……」
「あたしは足音でバレる。あんたは猫みたいに歩けるでしょ?」
「そんな都合よく……うう、分かった。……行きゃあいいんでしょ……」
しぶしぶ腰を上げた伊助は、猫背になって物干し場の裏手へと忍び込む。その背に、しのぶがぎりぎりの声で釘を刺した。
「耳、澄ませて! 内容、全部よ! いいわね!」
「えぇえぇえええ〜……」
◇
再び、物干し場では。
「まずは葛西屋と薬屋か。そういえば、おりょうの家も確か米問屋だ。葛西屋のことも何か聞けるかもしれないな」
「……ああ、そう言えば」
その言葉が途切れた瞬間――
ズサッ!!
夜気を裂くように誰かの転ぶ音が響いた。
――伊助である。
「わっ、うわあああ!!」
間の悪さは、もはや特技だった。
「伊助!?」
源太郎が駆け寄ろうとした、その腕を、熊吉が静かに制した。
「……足音。もうひとつ、そっちに」
布の影が揺れ、すぐに姿を見せたのは――しのぶだった。
にっこりと、何食わぬ顔で。
「まあまあ、夜風が気持ちよくてね。伊助ったら、あたしが心配だってついてきちゃって転んじゃったの。ね?」
「……そ、そうっす、しの姉がいきなり……あいや、何でもないっす!」
源太郎は深く息を吐いた。熊吉は目を閉じたまま、何も言わない。猫が屋根の上から「にゃあ」と鳴く。
「……ったく。行くぞ、熊吉。伊助も、そろそろ夜回りの時間だ」
「応」
熊吉はそれ以上何も言わず、さっさと歩いていった。源太郎も歩きながら、ちらりと伊助を振り返る。
「行かねえのか?」
「えっ、いや、あの」遠ざけかる源太郎の後ろ姿と残されたしのぶの方を交互に見てから「……じゃ、俺も」とそそくさと伊助も二人の後を追いかける。
しのぶは、去っていく背中を見つめながら、小さく呟いた。
「やっぱり……何か隠してる」
風が布を揺らし、雲の切れ間から月が顔を覗かせる。
その光のなかで浮かんだしのぶの横顔には、苛立ちでも怒りでもない――ふと滲んだ、寂しさの色があった。