午前の陽が、石畳に柔らかい影を落としていた。
染物の旗がゆらゆらと揺れ、店先には丁稚たちが忙しなく反物を運び出している。
その賑わいの一角を、ひときわ目を引く男がひとり、ゆったりとした歩調で現れた。
白地に黒紋の羽織に、深い藍染の着流し。
艶のある島田結いを横目に流しつつ、顎を軽く上げ、目は細め――どこからどう見ても、通人の若旦那然とした風情だった。
その男の数歩後ろ。
手ぬぐいを首に巻いた、いかにも江戸育ちの職人姿のいかつい大男が歩いていた。
――熊吉だった。
だが、その歩調には、どこかぎこちなさがある。
「……どうにも落ち着かん」
ぽつりと漏らした熊吉の声は、すぐ前の若旦那風の男に届いていた。
「何がだい?」
その声は、紛れもなく源太郎のものだった。後ろは振り返らずに、口の端だけをくいと上げる。
「お前さんがそうやって、旦那衆に化けるときってのは……妙になじみすぎてる。正直、別人みてぇで気味悪ぃ」
「そりゃ光栄だな。望んだ通りの“化け方”ってわけだ」
そう言って、源太郎はくっと笑った。
その笑みには、仮面のような冷静さと、ほんのひとさじの悪戯っぽさが滲んでいる。
「潜るには、“素に戻らない自分”を用意するのが一番だ。……熊兄は、表に出るなよ。背中だけ見せてくれりゃいい」
「……ああ。旦那様のお供は性に合わねぇが、見張りくらいはしてやらぁ」
熊吉は手ぬぐいをひとつ結び直し、葛西屋の暖簾の向こうを睨むように見やった。
──葛西屋は、江戸でも名の知れた反物と米の問屋だ。
瓦葺きの二階建て、軒には季節ごとの花をあしらった看板がかかり、出入りする客も商人や女中から町娘、時には武家らしき者まで様々。
暖簾をくぐれば、よく磨かれた床と、香のほのかな匂いが鼻をかすめる。
「いらっしゃいませぇ」
女中が丁寧に頭を下げると、源太郎は手を軽く振って応じた。
鷹揚な物腰で視線を滑らせながら、奥へと進む。
帳場には、小太りで人の良さそうな笑みを浮かべた男が控えていた。
葛西屋の亭主・権蔵である。
「おや、お見かけしないお顔……若旦那、どちらのご贔屓で?」
「深川の方さね。いや何、近ごろの米相場を睨みつつ、反物の扱いにも手を出そうかと思ってね。ひとつ目利きの店でも見ておこうってとこさね」
「それはそれは……ようこそ、葛西屋へ」
にこやかに手をすり合わせながら、権蔵は目を細めた。
その目の奥に、微かに探るような隙のない色が浮かんでいるのを、源太郎は見逃さなかった。
「こちらが今朝入ったばかりの品でして。京からの染め、色味も良うございますよ」
反物を広げる権蔵の動作は実に滑らかで、丁寧だった。だが、源太郎はその手元を見ずに、空間の隅々へ視線を走らせていた。
――帳場の奥。
ふすまの向こうに、品名の書かれていない木箱が積まれている。
ふと鼻先をかすめたのは、女物にしてはやけに濃い香――。
「この、何とも言えない香りは?」
「さすが、お目が高い。今、町娘たちの間で流行っておりましてな。名を“
「ほう、それは初めて聞くね」
「南蛮渡来の香木を削って炊くものでございます。……ふふ、女というのは香りひとつで機嫌が変わるものでして」
権蔵はどこか含みのある笑みでそう言うと、木箱から一つ香木を取り出して見せた。
「確かに……妙に、鼻に残る香だね」
「ええ、それが“好い”と言われる所以でございます。旦那様も、女中へひとつ贈ってみては?」
にこにこと笑う権蔵。
源太郎は、反物をたたむ手を止めずに言った。
「覚えておこう。……また改めて寄らせてもらうよ」
「ぜひとも」
店を出て、通りに出たとき――
熊吉が壁にもたれて、目だけで出迎えた。
「どうだった」
「綺麗な帳面と、妙に残る香り。……何か裏はありそうだ」
「いつもの通り、だな」
源太郎は笑わなかった。
手の中には、いくつかの反物とともに手渡された小袋――“蓮煙”の名を記した香木の見本。
それを懐にしまおうとしたとき――
「……源太郎さん、ですよね?」
どこかで聞いたような声がした。
源太郎の足が思わず止まる。
視線を向ければ、通りの端に立つ白小袖の娘――おりょうの姿があった。