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第6話 香に紛れた影

「……源太郎さん、でいらっしゃいますよね?」


 通りの向こうから、聞き覚えのある声がかかった。

 源太郎は足を止め、わずかに俯く。今の自分は、深川から米の相場を見に来た舂米つきごめ屋の若旦那――ということになっている。

 その変わり身ときたら、熊吉などは「まるで別人みてぇだ」と気味悪がる始末。今朝、伊助が目の前を通っても素通りしたのだから、化けの皮もなかなかのものだ。


 ――見破られるはずがねえ。


「……いいえ。どなたかとお間違いじゃあ……」


 声色を一段低く、いかにも他人のように答えると、おりょうはくすりと笑い、口元を袖で隠した。


「ふふ、そうおっしゃるかと存じました」


 そのまま、そっと源太郎の袖を引き、何気なく身をひるがえす。来い、という素振りには、源太郎の状況を考慮しているかのようでもあった。

 ここで無下に断って騒がれでもしたら、葛西屋に勘繰かんぐられる。仕方なく、おりょうのあとに続いた。


 人通りを避けるように進み、葛西屋の軒先のきさきが見えなくなったところで、源太郎は小さな声で問いかけた。


「……どうして気づいた?」


 答えを聞く前から、内心にかすかな焦りが立ち上っていた。完璧な変装だったはず。誰にも気づかれなかった。なのに――なぜ、おりょうだけが。


「歩き癖、でしょうか。無意識の仕草というのは、どうにも隠せませんのよ。お声を聞くまでは、半ば賭けでございましたけれど」


 その口調には、確信というよりも、少しの好奇心と淡い情がにじんでいた。源太郎は目を細め、ふっと笑みを漏らした。


 どこか悔しい。けれど、妙な嬉しさもあった。見破られたということは、彼女の目に、自分という存在がそれだけ深く刻まれていた証なのかもしれない。


「……降参だ。いかにも源太郎だが、何か御用でも?」


 軽口を装いながらも、その目は彼女の一挙手一投足を観察していた。何かを探るように。何かを見抜こうとするように。

 おりょうは控えめに微笑みを返す。


「いえ、特には。それにしても……今日はてっきり、うちへご用かと思っておりましたのに」

「瀬川屋に……?」

「ええ。けれど、今日は商売がたきの葛西屋さんへ。たまたま見かけてしまいましたので、つい気になってしまって」

「何てことのない見物さ。客のふりをして町の様子を。商いの勉強ってやつにもなるし」

「まあ。源太郎さんが“勉強”と仰ると、何だか裏がありそうですのね」


 からかうように笑ったおりょうの視線が、ふいに源太郎の懐へと移った。


「……あら、その香り……」

「これか?」


 源太郎は懐から小袋を取り出した。薄紙に包まれた中身から、甘く、それでいてどこか鼻腔びこうに引っかかる香が漂う。


 おりょうはそっと鼻を近づけた。


「“蓮煙れんえん”……今、女中たちのあいだで流行っているとか。けれど、少しばかり香りが立ちすぎて……どこか残る香りですわね」

「葛西屋もそんなことを言ってた。南蛮渡来の香木だそうだ」

「ええ。でも、強すぎる香りは、時に何かを隠すこともございます」


 言葉は穏やかでも、声の奥に微かな翳りが混じる。

 源太郎は袋をもう一度、鼻先に近づけた。


「まあ、好みの問題かもしれねぇが……確かに、一癖ありそうだ」

「ええ。もし、何かお調べになるなら……気をつけて」


 その言いまわしに、源太郎はふと目を細めた。香のことに詳しい素振り――それだけではない。彼女の声の奥に、わずかに揺れる気配を感じ取っていた。


「……やけに詳しそうだな」


 おりょうは驚いたように目を丸くし、それからまた柔らかく微笑んだ。


「薬草や香のことには、少しばかり興味がありまして」


 源太郎は、懐へと小袋を戻しながら頷いた。だが、そのまま話を終わらせるには、あまりに惜しかった。

 彼女の言葉の奥にあるのは、単なる香への興味だけではないかもしれない。ぼんやりと、何かが引っかかったような気がした。


 そんな様子を察したのか、おりょうがふと、横目で源太郎を見上げた。


「……よろしければ、この先の水茶屋で一服などいかがです? ちょうど、お話も途切れたところでございますし」


 言葉は軽やかだったが、決して馴れ馴れしくも押しつけがましくもない。むしろ、源太郎の心の隙を読んだ上で、そこにそっと寄り添ってくるような自然さがあった。


 誘いに即答できなかったのは、これ以上彼女を巻き込むことに躊躇ためらいがあったからだ。それでも、もっと知りたいという気持ちには抗いきれなかった。


「……まいったな。あんたには心の奥底までも見透かされてそうだ」


 おりょうは小さく首を傾げて、楽しげに笑った。


「気になることがあるときの源太郎さんは、目の動きでわかりますのよ」


 彼女の声は、まるで風に乗る鈴の音のようだった。


「じゃあ、せっかくだ。お言葉に甘えて、お供させてもらおう」


 二人は並んで歩き出した。のきの陰に伸びる二つの影が、ゆらり、寄り添うように揺れていた。

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