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第7話 地を這う蛇

 源太郎とおりょうが水茶屋へと並んで歩いていくのを、熊吉は黙って見送った。夕暮れの柔らかな光が、二人の背を長く映している。


「……ついてくのも、野暮ってもんか」


 ぽつりと呟き、わずかに口元を歪めた。だがその表情は、呆れながらもどこか温かい。苦い薬のような心配と、かすかな信頼が混じったような、そんな顔だった。


 きびすを返し、葛西屋の裏手へと歩き出したところで、ばたばたと遠くから駆けてくる足音が耳に入った。


「熊兄!? あれっ、やっぱり熊兄だ!」


 肩越しに振り返ると、伊助が息を切らせてこちらへ走ってくる。走りながらも目を丸くして熊吉の装いを見ていた。


「……何すか、その格好。職人かと思ったじゃないっすか! え、ってか、源太兄はどこに?」


 熊吉は口を開かず、伊助をじっと見つめた。着物の下から覗くその目に、ただならぬ緊張がにじんでいるのを、伊助も察したのだろう。思わず言葉を止め、懐から一通の手紙を取り出した。


「……と、とにかくこれ! 源太兄と熊兄宛だって、北の旦那とかいう御仁の使いが! すげえ急ぎでって……!」


 その名を聞いた途端、熊吉の顔が一気に引き締まる。無言で手紙を受け取り、その場で封を切った。


 中には、わずか一文。


 《至急、屋敷へ来い。》


 筆跡は間違いない。北の旦那、あの人からの手になるものだった。文面は短いが、そこに込められた切迫感はただごとではない。


「……悪い、源太郎には俺から伝える。伊助、お前は――」


 言いかけたその瞬間だった。


 ぴり、と。


 背筋をかすめるような、薄い殺気が空気を裂いた。


 熊吉はわずかに体を傾け、視線を茶屋の方に流す。


「……すまん、俺は急用ができた。源太郎はこの先の水茶屋だ。すぐに行け」


 それだけを告げ、熊吉はもう伊助を見なかった。代わりに、そのまま通りを逸れ、裏路地の影へと身を滑り込ませていく。


 風が一筋、笠の端を揺らす。背中に浮かぶ影は、巨体ながらもひどく静かで――まるで、何かを討つ者のようだった。



 裏通りの奥――濡れた石畳に足音を忍ばせ、熊吉は人影のない袋小路に踏み入った。

 夕刻の光が届かぬその空間は、まるで街の“裏”を象徴するようにひっそりと沈んでいる。


「よう。やっぱり、てめぇだったか。熊」


 低く地を這うような声が背後から響いた。ゆっくりと振り返ると、石垣の陰から男が姿を現す。やや猫背で、痩せた体躯。けれど目つきだけは蛇のように鋭く、口元に浮かぶ笑みは、明らかな侮蔑を含んでいた。


 「こうして再会できるとは思わなかったな」


「……“地潜ぢせん”」


 熊吉が口にした名に、男は嬉しげに笑みを深めた。


「おいおい、懐かしいなあ。俺のこと、まだそう呼んでくれるとは」


「呼ぶのもつらを見るのも最後にしてぇくらいだ」


「そう怒るなって。あれから何年経ったと思ってる? 昔のことは水に流してさ――」


「水に流すような話じゃねぇ。仲間を売り、取り分を抱えて逃げた裏切り者が、どの面下げて出てきやがった」


 熊吉の声は静かだ。だが、石畳の上に立つその影がじわりと膨らむような気配を帯びていた。


「……怖ぇなあ。昔と変わらず、火の粉が立ち上る寸前の目をしてやがる」


 地潜は、ひゅっと口笛を吹いた。


「だがな、今の俺はもう野良犬じゃねぇ。夜霞――今の世を動かす風のひとつだ。お前の腕、そのまま腐らせるには惜しいと思って、わざわざ声をかけてやってんだよ。なあ、熊。もう一度一緒に地獄の風を吹かそうぜ」


 その瞬間、熊吉の足元から石が一つ、ぱたりと転がった。無意識に力が入った証だった。


 「……夜霞、だと? やっぱりお前も絡んでやがったか」


 一歩、地面を踏み締めた。その一歩だけで、路地の空気が震えたように感じられた。


「俺は、そいつらごと叩き潰す」


 地潜の顔から、初めて笑みが消えた。


「……まあ、そう言うとは思ってた。その“義”みたいなもんに縛られて、お前がどこまで持つか見ものだな」


「言ってろ」


 熊吉の目は、もう相手の懐しか見ていなかった。


「今度その面見せたら、次は容赦しねえ」

 風がひとすじ、路地を抜ける。

 地潜は、薄ら笑いを浮かべながらすっと身を引いた。


「……そういうところが、甘えんだよ。だが、お前は獲物としては最上だ。いずれまた会おう。――“鬼熊”」


 闇に溶けるようにして、地潜は姿を消した。残された熊吉はその場にしばし立ち尽くし、ふう、と重く息を吐いた。


「……北の旦那の手紙もあれば、地底から蛇も這い出してくるってか」


 もう一度、懐の文を確かめる。源太郎にはまだ知らせていない。“夜霞”の影がすでにここまで迫っていることを。


 目を伏せ、熊吉は静かに歩き出した。空はもう、夜の帳が落ちかけていた。

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