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第8話 香の行方

 水茶屋は通りを少し入った先、竹垣に囲まれた、ひっそりとした佇まいだった。白い暖簾のれんをくぐると、打ち水の香が涼やかに鼻をくすぐる。


「いらっしゃいませー!」


 明るい声とともに、ひらりと現れたのは、界隈で評判の看板娘。茶屋そのものより、彼女目当てに足を運ぶ男衆も多いという。


「こりゃまた、瀬川屋のお嬢さんじゃありませんか。今日はどなたかとご一緒で?」

「ええ、ちょっと。奥の座敷に通してくださるかしら」

「ありゃま、珍しい……。それは構いませんけど」


 おりょうの視線が、ちらりと源太郎に流れる。品定めするような目には、色香とともに、商い女らしい勘の鋭さも滲んでいた。


「どうぞ、お入りくださいまし。暑うございますし、冷やし白玉などお勧めですよ」

「まあ。それはとてもおいしそうだけど、少し甘すぎるかしら?」


 おりょうの横顔が、ほんの少し、くすぐるような笑みを含む。源太郎は肩をすくめ、湯呑の縁でもなぞるような手つきで軽く手を挙げた。


「茶だけでいい。甘ぇのはどうにも馴染めねぇ」

「……まあ、つれない」


 看板娘は唇を尖らせながらも、どこか楽しげな様子で奥座敷へ案内し、しずしずと立ち去った。


 簾越しの光が畳に柔らかく落ち、団扇の風が間をでる。静けさの中、源太郎とおりょうは、向かい合って湯呑を手にしていた。


「……源太郎さん、甘いもの、本当に召し上がらないのですね」


 おりょうが、少し笑みを含んだ声で言葉を落とす。


「口に合わねぇんだ。どうも、歯が浮く感じがしてな」


 源太郎は冗談めかして湯呑を置いたが、目だけが、おりょうの手元をそっと捉えていた。


「……そういえば、おりょうさん。あの夜、薬屋に寄った帰りだったな。お父上の咳止めをもらいに」


 おりょうの指先がわずかに止まり、瞳が源太郎を見返す。


「ええ。そうです」


「以前から贔屓ひいきにしてる店なのか?」


「はい。あの薬屋さん、昔から父が咳をこじらせるたびにお世話になってきたんです。店主も誠実な方で、昔は蘭学も学ばれていたとか」


「ほう」


 源太郎は興味深げにうなずく。その顔には、微かな警戒の色が浮かんでいた。


「隠居されてからも、あまり商売っ気はなくて……むしろ、身内のような気安さがありますわ。だから、あの夜も、何の疑いも持たずに足を運びましたの」


「……というと、何か引っかかることがあったのか?」


 源太郎の声が一段低くなる。おりょうは少し目を伏せ、茶を口に運んだ。


「ええ。帳場にいたのが、いつもの番頭さんではなかったんです。見知らぬ方で……どこか、そわそわと落ち着かない様子でした。声も小さくて、目を合わせようとせず……」


 源太郎は無言のまま、わずかに頷いた。


「もらった薬に、変なところはなかったか?」


「咳止め自体は普通でしたわ。でも――」


 おりょうはそっと茶碗を置き、その縁を人差し指でなぞった。


「……開けたとき、ふわりと香りがした気がして。ほんの少し、甘く、記憶に残るような香り……」


 源太郎は思い出したように、懐から小袋を取り出し、卓の上にそっと置く。薄紙越しに漂う甘く湿った香が、再び空気を染めた。


「この香木についても、調べるなら気をつけてと言ってたな。これと同じ香りだったか?」


「いえ、まったく同じではないと思います。でも……やけに記憶に引っかかるような癖のある香り。……そちらも、どうも普通の香木や薬草とは思えませんわね」


 その声音には、かすかな不安と拭いきれない違和感がにじんでいた。


 源太郎はしばし黙し、それからぽつりと口を開く。


「……あの夜。おりょうさんを襲った浪人崩れの男――俺はてっきり、若い女を狙った酔っ払いかと思って止めに入った。けどな」


 視線が静かに、おりょうの顔を見据える。


「今にして思えば、“おりょうさん自身”を狙っていたのかもしれねぇ」


 おりょうの指が止まり、茶碗の縁をそっと押さえるようにして言った。


「つまり……私が薬を受け取ったから? それとも、店で“何か”を見たから……?」


 その察しの良さに、源太郎は感心と一抹の危惧を覚えながら頷いた。


「あるいは、どちらとも言えるかもしれねぇ」


 湯呑を手に取り直すと、わずかに眉を寄せる。


「荷に紛れた“何か”を、あんたが持ち帰った可能性。あるいは薬屋で“誰か”を見たか――それに気づかれたって線もある」


 おりょうは静かに目を細めた。


「……そういえば。薬屋を出た直後、背中に誰かの視線を感じました。姿は見えませんでしたけど……空気が、少し張り詰めていたような……」


 その言葉に、源太郎の表情が一瞬だけ引き締まった。


「……そいつは、冗談にならねぇ」


 声は低く、わずかに鋭さを含む。しかしその奥には、確かな心配が滲んでいた。


「しばらくは昼間も独り歩きは控えてくれ。俺も見廻りを増やす」


 おりょうは少し目を伏せ、そして顔を上げる。その頬に、ふわりと薄紅が差した。


「……ええ。お気遣い、ありがとうございます」


 丁寧な口ぶりのまま、言葉の終わりに微かな間があった。それが答えのすべてを物語っていた。


「それにしても。こうして茶を飲みながら話していると……まるで事件のことじゃないみたいですね。町娘と町旦那の、ひとときの逢瀬おうせのようですわ」


 源太郎は、ふっと笑った。


「俺みてぇなもんと茶を飲んでも、面白ぇ話のひとつも出てこねぇよ。退屈させたんじゃねぇか」

「あら? 退屈どころの話じゃありませんわ。むしろ役得です。こんなお話ができる相手、そうそう他にいませんもの」


 源太郎は、年相応に少しはにかみ、目を細める。茶をすする音だけが、午後の陽射しに溶けていった。


 けれど、その静けさが続いたのは、ほんの束の間だった。


 ――ばたばたと、急ぎ足の気配が、玄関先から迫ってくる。


 すだれの向こうで風が止み、団扇うちわがわずかに揺れる。


 そのとき、まだ誰も、気づいてはいなかった。

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