水茶屋は通りを少し入った先、竹垣に囲まれた、ひっそりとした佇まいだった。白い
「いらっしゃいませー!」
明るい声とともに、ひらりと現れたのは、界隈で評判の看板娘。茶屋そのものより、彼女目当てに足を運ぶ男衆も多いという。
「こりゃまた、瀬川屋のお嬢さんじゃありませんか。今日はどなたかとご一緒で?」
「ええ、ちょっと。奥の座敷に通してくださるかしら」
「ありゃま、珍しい……。それは構いませんけど」
おりょうの視線が、ちらりと源太郎に流れる。品定めするような目には、色香とともに、商い女らしい勘の鋭さも滲んでいた。
「どうぞ、お入りくださいまし。暑うございますし、冷やし白玉などお勧めですよ」
「まあ。それはとてもおいしそうだけど、少し甘すぎるかしら?」
おりょうの横顔が、ほんの少し、くすぐるような笑みを含む。源太郎は肩をすくめ、湯呑の縁でもなぞるような手つきで軽く手を挙げた。
「茶だけでいい。甘ぇのはどうにも馴染めねぇ」
「……まあ、つれない」
看板娘は唇を尖らせながらも、どこか楽しげな様子で奥座敷へ案内し、しずしずと立ち去った。
簾越しの光が畳に柔らかく落ち、団扇の風が間を
「……源太郎さん、甘いもの、本当に召し上がらないのですね」
おりょうが、少し笑みを含んだ声で言葉を落とす。
「口に合わねぇんだ。どうも、歯が浮く感じがしてな」
源太郎は冗談めかして湯呑を置いたが、目だけが、おりょうの手元をそっと捉えていた。
「……そういえば、おりょうさん。あの夜、薬屋に寄った帰りだったな。お父上の咳止めをもらいに」
おりょうの指先がわずかに止まり、瞳が源太郎を見返す。
「ええ。そうです」
「以前から
「はい。あの薬屋さん、昔から父が咳をこじらせるたびにお世話になってきたんです。店主も誠実な方で、昔は蘭学も学ばれていたとか」
「ほう」
源太郎は興味深げにうなずく。その顔には、微かな警戒の色が浮かんでいた。
「隠居されてからも、あまり商売っ気はなくて……むしろ、身内のような気安さがありますわ。だから、あの夜も、何の疑いも持たずに足を運びましたの」
「……というと、何か引っかかることがあったのか?」
源太郎の声が一段低くなる。おりょうは少し目を伏せ、茶を口に運んだ。
「ええ。帳場にいたのが、いつもの番頭さんではなかったんです。見知らぬ方で……どこか、そわそわと落ち着かない様子でした。声も小さくて、目を合わせようとせず……」
源太郎は無言のまま、わずかに頷いた。
「もらった薬に、変なところはなかったか?」
「咳止め自体は普通でしたわ。でも――」
おりょうはそっと茶碗を置き、その縁を人差し指でなぞった。
「……開けたとき、ふわりと香りがした気がして。ほんの少し、甘く、記憶に残るような香り……」
源太郎は思い出したように、懐から小袋を取り出し、卓の上にそっと置く。薄紙越しに漂う甘く湿った香が、再び空気を染めた。
「この香木についても、調べるなら気をつけてと言ってたな。これと同じ香りだったか?」
「いえ、まったく同じではないと思います。でも……やけに記憶に引っかかるような癖のある香り。……そちらも、どうも普通の香木や薬草とは思えませんわね」
その声音には、かすかな不安と拭いきれない違和感が
源太郎はしばし黙し、それからぽつりと口を開く。
「……あの夜。おりょうさんを襲った浪人崩れの男――俺はてっきり、若い女を狙った酔っ払いかと思って止めに入った。けどな」
視線が静かに、おりょうの顔を見据える。
「今にして思えば、“おりょうさん自身”を狙っていたのかもしれねぇ」
おりょうの指が止まり、茶碗の縁をそっと押さえるようにして言った。
「つまり……私が薬を受け取ったから? それとも、店で“何か”を見たから……?」
その察しの良さに、源太郎は感心と一抹の危惧を覚えながら頷いた。
「あるいは、どちらとも言えるかもしれねぇ」
湯呑を手に取り直すと、わずかに眉を寄せる。
「荷に紛れた“何か”を、あんたが持ち帰った可能性。あるいは薬屋で“誰か”を見たか――それに気づかれたって線もある」
おりょうは静かに目を細めた。
「……そういえば。薬屋を出た直後、背中に誰かの視線を感じました。姿は見えませんでしたけど……空気が、少し張り詰めていたような……」
その言葉に、源太郎の表情が一瞬だけ引き締まった。
「……そいつは、冗談にならねぇ」
声は低く、わずかに鋭さを含む。しかしその奥には、確かな心配が滲んでいた。
「しばらくは昼間も独り歩きは控えてくれ。俺も見廻りを増やす」
おりょうは少し目を伏せ、そして顔を上げる。その頬に、ふわりと薄紅が差した。
「……ええ。お気遣い、ありがとうございます」
丁寧な口ぶりのまま、言葉の終わりに微かな間があった。それが答えのすべてを物語っていた。
「それにしても。こうして茶を飲みながら話していると……まるで事件のことじゃないみたいですね。町娘と町旦那の、ひとときの
源太郎は、ふっと笑った。
「俺みてぇなもんと茶を飲んでも、面白ぇ話のひとつも出てこねぇよ。退屈させたんじゃねぇか」
「あら? 退屈どころの話じゃありませんわ。むしろ役得です。こんなお話ができる相手、そうそう他にいませんもの」
源太郎は、年相応に少しはにかみ、目を細める。茶を
けれど、その静けさが続いたのは、ほんの束の間だった。
――ばたばたと、急ぎ足の気配が、玄関先から迫ってくる。
そのとき、まだ誰も、気づいてはいなかった。