王宮の門を駆け抜けながら、ユーナは考えた。
(なぜだろう。どうして、こうなったんだろう――)
彼女が暮らす、剣と魔法の世界・ピアー王国。
一見、数百年前の地球とそっくり。だが、お風呂文化のない世界。
一日に何度も肌着を取り替え、大量の香水で体臭をごまかすのが、貴族のエチケットだ。
貴族ですら、お風呂を知らない。ましてや、庶民の暮らしの不潔さたるや、
ただし王国の人々は、平均して年に二回、浄化の儀式に参列して祝福を受ける。この時は、汚れた体も魔法の力である程度は清められる。
だが、あとは濡らした布で、体をたまに拭く程度。髪を水で洗うのは月に一回未満。水浴びは、基本的にしない。
ユーナは、その事の重大さに、今日初めて気がついた。
そして、気づきの代償も小さくはなかった。
(パーティーから逃げ出して、王子殿下の靴まで汚した。何もかも台無しだ……社交界デビューなんて、もう無理っ……)
王宮前広場を、
「お嬢様! お待ち下さい、ユーナお嬢様!」
ユーナが振り返ると、
ヴァン・ダイノンは、馬車のすぐ後ろを必死で走っていた。汗だくになりながら追いつくと、馬車のドアをうやうやしく開ける。
「ゼェ、ハァ……ユーナお嬢様。お帰りなら、せめて馬車を……」
ユーナは観念して足を止め、馬車に乗り込んだ。
馬車の中でユーナは、帰り道の間、ずっと涙を流していた。ヴァン・ダイノンが、慰める。
「お嬢様、お疲れでしょう。帰ったら、ゆっくりお休み下さい……」
ヴァン・ダイノンは、彼女をわがままな小娘だとは思いつつも、なぜか突然パニックになって逃げ出したことには、同情の余地があると感じた。
男爵が余計なプレッシャーをかけすぎたのが悪いのだ。この子は社交界なんて向いてない。やはり、騎士の夢をあきらめ切れないのだろう、と。
しかし、ユーナが泣いている理由は、そんなことではなかった――。
――隣に座っているヴァン・ダイノンの汗の臭いがキツくて、泣いていたのだった。
確かに、今夜のパーティーに出かける前、父である男爵、ケーン・ユトリノ
「今日のパーティーが、お前の
「お言葉ですが、男爵様。その話、ユーナさんには少し荷が重過ぎるのではありませんこと?」
ユーナの継母に当たるクレア夫人が口を挟み、いつものように皮肉をまくしたてた。
「ユーナさんは女性なのに、この春まで騎士学校に通ってたような方でしょう。まあ、体力不足で、とうとう
クレア夫人と、その娘のエリザベスが、揃ってフフッと鼻で笑っていた。クレアとエリザベスは髪型も、王都で最近流行中の、高く結い上げて油で固めたお揃いのカチカチ盛り頭だ。
「お父様、王宮に早く行けるようになりたいですぅ。今日は王子殿下の誕生パーティーなんでしょう?エリザベスだったら、殿下のハートを射止めちゃいますのに」
十五歳のエリザベスは、甘い声で自分の存在価値をアピールしていた。男爵はエリザベスに言った。
「エリザベスも、来年は社交界デビューだな。だが、王子殿下は
騎士出身のケーン・ユトリノ男爵は、故郷周辺の村を男爵領として認められただけの
「王子殿下には、深く関わるな。適当な中流貴族の、次男・三男坊あたりを狙え。
男爵はユーナをギロリと見て念を押すと、別の馬車に乗り込み、クレア夫人と王宮へ先に向かったのだった。
ユーナは、本当は父親のように、騎士になって活躍したかった。そして、女性でも爵位を相続できる充分な資質があると、実力で認めさせたかった。
しかし、体力で男たちにかなわず、騎士学校を辞め、ユーナの夢はあっさり破れて、今日のパーティーに至る。
しかし、そんな家庭事情も、今の彼女にとって、泣く理由にはならなかった。
(早くお風呂を作って、入りたい! そして、みんなにもお風呂を勧めよう……)
ユーナの胸に、もはや悲しみはなかった。ただ、お風呂への熱い思いだけが満ちあふれていた。
――こうして、異世界湯けむり革命の伝説は始まった。