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第四湯 風呂とはどんなものかしら(前編)

 翌朝、ユトリノ男爵家では、朝食の後に家族会議が開かれた。


「王子殿下にご挨拶もせずに、ご招待を途中退出とは。王室に対したてまつり、不敬もはなはだしい。なぜだ。なぜそんな大それたことをした?」


 男爵は、長女のユーナを厳しく問い詰めた。


 下級貴族の女性にとって、パーティーは決して遊びや飲み食いだけの場ではない。


 積極的に社交の場に顔を出して他の貴族と交流を深めることは、家門を守るための重要な義務である。その義務から、ユーナは逃げ出したのだ。


「だから、ユーナさんには無理だと私は申し上げたのですわ。パーティーから勝手に帰っただけでも驚きなのに」


 クレア夫人が、昨夜のユーナとリンが起こした騒ぎを暴露ばくろした。


「洗濯小屋から声がすると思ったら、メイドとぱだかで洗濯桶の水に入ってたんですもの。気持ち悪い。変な病気が広まらないといいけど」


 ケラケラと笑うクレア夫人をキッと見上げ、ユーナは反論にもならない言葉を言い返す。


「じゃあ、男と素っ裸だったら、気持ち悪くなかったですか?」

「おい、そういう問題じゃないだろう。気は確かか、ユーナ!」


 ユーナを叱る男爵の禿げかかった頭皮が、うっすらと赤みを帯びる。


「……お姉様は、もうパーティーには出なくていいと思いますぅ」


 うつむいて指遊びをしながら、エリザベスは言った。


「私だって来年は社交界デビューしますのに、お姉様がそんな調子では、控えめに言って邪魔ですわ」


 家族会議の結果、ユーナは当分の間、王都屋敷タウンハウスで謹慎。敷地外への外出は禁止と決まった。既に騎士学校を辞めており、社交の場にも出してもらえない。ユーナは、暇を持て余すニート姫になった。


 ダイニングルームから出る時に、居候の騎士ヴァン・ダイノンが心配そうにユーナに寄って来て、耳元で囁いた。


「ユーナお嬢様、あまり気を落とされませんように……剣技の稽古なら、いつでもお申し付け下さい」


 だが、ユーナは内心、社交界追放を喜んでいた。


(あのくっさいパーティーに、もう出なくても良いなんて。うれしいー!)


 それに、王子殿下の靴にゲロをぶちまけた件は、バレていない。あの一件が発覚していたら、こんなものでは済まないだろう。下手したら、首をはねられるかも。


「そうだ、リンはどうしてるのかな」


 今朝起こしに来たのはリンではなく、普段はクレア夫人の世話を担当している、天然パーマ頭のソフィーだった。昨晩、クレア夫人と一緒に、ランプを持って洗濯小屋にとつってきたメイドである。


 あまりに気まずくて、朝の着替えの間はソフィーに何も聞けなかったが、リンは一体どこへ行ったのだろう。


 午後のひととき、ユーナは屋敷の中をあちこちを探したが、リンの姿はどこにも見えなかった。


 ユーナは庭に出て、広大な敷地の中をぐるりと見渡した。大きな煙突のある小屋が見えた。明るい陽射しの中で、ひとすじの煙が空へと昇っていく。男爵家の敷地内にある、馬小屋の煙突だった。


「あれは何だろう?」


 前世では煙突を見かけるたびに、まだ自分の知らない銭湯がそこで営業しているのではないかと、ソワソワしていたような……。そんな記憶がある。ユーナの足は、自然と馬小屋へ向かった。


 馬小屋の前では、馬たちの世話係であるフワン爺さんが、椅子に座って、のんきにひなたぼっこしていた。


「こんにちは。今日はいい天気ね」


 フワン爺さんは立ち上がると、腰を曲げてユーナに一礼した。


「これはこれは、お嬢様。今日はお屋敷から応援を出して下さって、年寄りにはありがたい限りです」


「応援?」


 馬小屋の中をのぞき込むと、干し草の入った葉桶ばおけを、両手に抱えて運ぶリンの姿が見えた。


 ユーナはハッと息を飲んだ。きっと昨夜の罰で、やらされているのだ。申し訳なさで胸がいっぱいになった。 


「リン! こんなことになってるなんて、本当にごめんなさい。私も手伝うから!」


 ユーナはリンに駆け寄った。リンはユーナに気づくと、健気けなげな笑顔を見せて目を細めた。


「大丈夫です、お嬢様。どうせ仕事は、いつも山ほどあるんです。お屋敷でも馬小屋でも同じです。それに」


 リンは馬小屋の奥を指さした。


「お嬢様がおっしゃった『本物のお風呂』がどんな物か、フワンさんに色々聞いて少し分かったんです」


 リンが指さす方向には、白い気体がモワモワと立ちこめていた。


「これはひょっとして、湯気……⁉」


 何に使っているのかは分からないが、これほど大量に湯気が出るだけの湯が、馬小屋にあったのか。ならば、風呂に使えるかも。


 ユーナは、かすかな期待に胸を高鳴らせながら、湯気の中へと進んだ。

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