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第六湯 馬小屋の奇跡(前編)

「この飼い葉桶に、湯を張って入るんですね!」


 リンが声をはずませながら言った。しかし、ユーナの答えは意外なものだった。


「ここはフワンさんのお部屋よ。湯がザバーッとあふれて、床が洪水になったら大変じゃない? それよりリン、餌用の牧草が置いてあった場所を教えて」


「えっ、肩まで温まるんじゃなかったんですか?」


 戸惑いながら、リンはユーナを案内した。


「こちらです」


 牧草をカラカラに乾燥させた土色の干し草と、まだ緑色が残っている生乾きの干し草が、馬小屋の一角に置かれた木箱にそれぞれ積み上げられていた。


 干し草の山を見るやいなや、ユーナはいきなり、土色の干し草のほうへ飛びかかって、顔からダイブした。


「そーれっ!」


「ちょっ、お嬢様⁉ 何やってるんですか」


「アルプスの少女ハイジごっこ。1回やってみたかったのよねー」


「誰ですかハイジって」


「誰でもない。忘れて。完全に乾いてるほうの草は、けっこう肌がチクチクするのね。じゃあ、やっぱり使うのはこっちかなあ」


 ユーナは起き上がると、緑色が残っている山の下の方から干し草を抜き取って、両手いっぱいに抱えながら、スンと胸いっぱいに香りを吸い込んだ。


「いいにおい。リンも持ってきてね。これを湯にけよう」


 飼い葉桶へ満杯に干し草を詰めると、ユーナは水と熱湯を交互に注いで、湯温を調整しながら干し草を湯にひたし始めた。


「さあ、リンも協力して。これを足で踏みましょう」


 ユーナは服を脱いだ。そして足をきれいに拭くと、飼い葉桶の中に立って、その場で足踏みを始めた。リンもユーナに従って、同じようにする。


「あの、これって服を脱ぐ意味は……?」


「踏んでる間、体を拭こうと思っただけ。まだ灰汁あくは使わないでね」


 ユーナは、湯に濡らしたタオルで全身の汗と汚れを拭き取りながら、リンにもタオルを渡した。


「どうせまた、汗はかくから」


 ユーナは無意識に、ある曲を口ずさんでいた。それば、前世で覚えた『ラジオ体操第三』のメロディーだった。


「♪チャッチャラッチャチャーチャ、チャッチャラッチャチャーチャ」


 両腕を元気良く前後に振りながら、ユーナは干し草の上で、『ラジオ体操第三』特有の足踏み運動を延々と続けた。リンは、聞き慣れない曲に合わせて必死に足を動かしながら、これは一体いつになったら終わるのだろうと、だんだん不安になってきた。


 干し草にかけた湯も、すっかりめた。だが、二人の足元は、不思議と熱くなってきていた。


「そろそろね」


 ユーナは飼い葉桶から出て足を拭き、ベッドのほうへ行くと、マットレスの片側をヒョイと持ち上げた。


「リン、そっち持って」


「あっ……はい、お嬢様。いま参ります」


 二人でマットレスをベッドからどかし、壁際に置いた。ユーナは、空いた木のベッドの上へと、飼い葉桶の中の干し草を敷き詰め始めた。湿った干し草から、ほんのりと白い湯気が上がっていた。


「よし、成功ね!それじゃリン、ここに仰向あおむけで寝て」


「えーっ⁉」


 ユーナの唐突とうとつな指示に面食らいながら、リンはおずおずと、その体をベッドの上に横たえた。とたんに、背中から心地よい温もりがポカポカと伝わってくる。


「お嬢様、これは……⁉」


「これは『干し草風呂』よ。発酵熱で温かくなった干し草に、体を埋めるの」


 ユーナはドヤ顔で、リンの胸の上に温かい干し草のかたまりをドサッと乗せた。

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