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第九湯 地獄の釜が開きました(前編)

「ユーナは、アイテム『空き樽』を手に入れた!」


 優雅なる男爵令嬢ユーナ・ユトリノは、上機嫌で樽を転がしていた。馬小屋まで運ぶと、フワンに声をかける。


「この空き樽をしばらく預かってくれない?」


「お嬢様の頼みなら、断れませんな。干し草置き場の隅にでも置いて下さい」


 フワンは快く承諾した。


 それからの約二週間、ユーナはワイン樽風呂に必要な準備をコツコツと進めていった。


 暇さえあれば資材を探してウロウロしているユーナに、ヴァン・ダイノンが怪しんで、たびたび声をかける。


「お嬢様、最近、何をされているのですか?」


「一発逆転で騎士に登用されるための、秘密特訓よ。必殺技が完成したら、対戦してね」


 ユーナは軽口を叩き、ヴァン・ダイノンの追及を毎度かわし続けた。樽風呂計画を知られて、父親に報告されては困るからだ。


 男爵夫妻が社交に出かける夜になると、夕食後の皿洗いを終えたメイドのリン、ソフィー、メリーの三人と、洗濯小屋へひそかに集まった。他の使用人たちも休憩モードに入り、監視の目が少ない時間帯である。灰汁と塩に香水も加え、お互いに水で体を洗いっこしながら、夜な夜な行水を楽しんだ。


「髪も肌も、今までこんなに汚れてたなんて!」


 メリーは、自分の体がキレイになっていく経験に日々感動しては、目元をウルウルさせていた。


 週末には馬小屋を訪ねて湯をもらい、フワン爺さんも混ざってみんなで交代しながら、干し草風呂で温まった。


「体を温めると、心までゆったりして癒やされますね」


 ソフィーも、今ではすっかり干し草の香りのとりこである。以前のようなイライラした態度は、すっかりなくなった。


 だが、最初の垢落とし以降、メイドたちはだんだん「肌がピリピリする」と、刺激の強さを訴え始めた。灰汁を付けすぎているのだろう。


「やっぱり、石鹸せっけんが必要かあ」


 灰汁は、アルカリ性が強すぎる。たとえ薄めても、持続的に使うのは肌に優しくない。ユーナは、石鹸作りにも取り掛かることにした。


「えっと…アルカリ性の液体と油を混ぜて、鹸化けんかっていう反応がうまく起きたら、固まって石鹸になるはずよね」


 しかし、このアルカリと油の配分の調整が難しかった。


 ユーナは前世でも、石鹸の手作りについて記憶がある。それは、最も石鹸を作りやすいアルカリ、苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を使ったものだった。


「でも、異世界に苛性ソーダはなさそうだし」


 現代日本では、薬局でなら苛性ソーダは買える。後は市販の手作りキットを入手して、説明書通りにやればいい。ただし苛性ソーダは劇物指定だし、体に使う石鹸の製造販売にも法的規制がある。


 異世界に日本の法律は適用されないが、苛性ソーダの製造も難しい。アルカリ液の入手には、やはり灰が一番の頼みの綱だった。


(そう言えば、シンデレラの別名を灰かぶり姫って言うけどさ)


 ユーナは、手を灰まみれにして灰汁取り作業をしながら、ふと前世のおとぎ話を思い出して妄想考察した。


(灰かぶり姫は灰がついた髪と体を水で洗ったから、アルカリパワーで美人になれたのかも)


 かまどの木の灰や、わらの灰から取れる灰汁の他にも、メイドたちに頼んで、台所で余った海藻や貝殻を入手しては、あれこれと燃やしてみた。


「海藻の灰には、炭酸カルシウムが含まれるよね。でも、貝殻の灰から石灰を取るのは失敗みたい。もっと高温じゃないとダメかな?」


 オリーブ油の他に、台所のラードや牛脂なども使ってみた。動物性油脂の方が石鹸を作りやすいが、匂いがユーナの好みに合わないことが分かった。


「フワンさん、馬の餌に混ぜてるアマニの種を少し頂けない?」


「構いませんが、何にお使いになるので?」


「搾ってアマニ油を取るのよ」


 こうして試行錯誤を重ねながら、いろいろなアルカリと油のパターンを組み合わせた。そして、ようやく納得のいく配合のコツをつかみ、完成品が出来上がった。


 待ちに待った日。それは突然訪れた。


 朝食の席でクレア夫人が、男爵夫妻とエリザベスの三人で、泊まりがけで出かけると言い出したのだ。


「驚いたわ。ブリューエン公爵夫人から、夜会に招待されたの。名誉なことよ。内々の集まりだから、子供も連れてきて構わない、是非連れていらっしゃいって。」


 王国の貴族には、二種類ある。王族と同じように、生まれつき魔法を使える血統が魔法貴族。騎士が手柄を立てて貴族になったのが軍人貴族である。


 ブリューエン公爵家は王室の親戚で、超名門の魔法貴族。同じ貴族でも、軍人貴族のユトリノ家とは、領地の規模も百倍は違う。


「それで、ユート王子殿下も、お忍びで少しだけ顔を出されるらしいの」


「王子殿下が⁉」


 エリザベスが、はしゃいだ声を出す。


 ユーナは、思いがけなく出たユート王子の名前を聞いて、ちょうど飲んでいたミルクでむせ、激しく咳き込んだ。


 クレア夫人は、外出禁止中のユーナには目もくれず、おしゃべりを続ける。


「夜会なら、男爵様はどうせ一晩中賭け事なさるでしょ? 帰りは朝になるわね。エリザベスには寝室も用意してもらえると思うわ」


「わぁ、楽しみですぅ」


 エリザベスは、その漆黒の瞳を輝かせ、意気揚々とした笑顔を見せた。王子様と結ばれるシンデレラストーリーを夢見ているのだろうか。


「ごちそうさまでした。失礼致します」


 ユーナはハンカチで口元を拭きながら、逃げるようにダイニングルームを退出した。


 自室に帰ると、ユーナは一人でバンザイをして、浮かれ踊った。前世でバンザイなんかした記憶はあまりないが、今はバンザイ三唱、いや千唱の気分だった。


 家族が三人とも、朝まで帰って来ない。

 今夜は私がこの屋敷の、夜の世界の王様だ!


「リン、急だけど、今夜決行よ」


「はい!」


 呼び鈴でリンを呼んで、ワイン樽風呂決行を告げる。リンは、力強くうなずいた。

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