「なぜだ。どうしてこうなった……?」
ユート王子は、公爵邸の客間へ用意されたソファーに座って、足を組みながら、不機嫌そうにつぶやいた。
王宮のパーティーで自分の靴を汚して逃げた女性が、ユトリノ男爵家の令嬢ユーナだと、ついに突き止めたユート王子。
彼は信頼できる親族のブリューエン公爵夫人に頼んで、男爵夫妻を夜会に招待させ、令嬢も連れてくるよう言い添えてもらった。そして、自身も同じ夜を狙って、公爵邸を非公式に訪問したのだった。
しかしその夜、公爵邸に来ていたのは、ユーナではなく、のんきな笑顔でカチカチ頭のエリザベスだった。
「ユート殿下、私、ユトリノ男爵家のエリザベスですぅ。お会いできて、光栄ですわー!」
「何だ、お前は? 近寄るな」
ユート王子は冷たく言い放った。
「ユーナ・ユトリノはどうした? あのパーティーの夜、わが紋章に敬意も払わず、僕の靴を汚して逃げた女の顔を見てやろうと、今日は乗り込んだんだ。お前みたいな子供に用はない」
王子から情け容赦もない拒絶の言葉を浴びせられたエリザベスはショックを隠せず、今にも泣きそうな顔になりながら、下唇を噛んで思った。
(……やっぱり、お母様の言う通り? お姉様のせいで、私たちは不遇なままなの?)
スカートの裾をつかむ彼女の手は、屈辱に打ち震えた。
クレア夫人がムッとした表情で、口を挟む。
「だって、公爵夫人は私に、お子さんもぜひ連れていらっしゃい、としかおっしゃらなかったんですよ?エリザベスは私の子供ですわ」
ユトリノ男爵は一連の会話を横で聞きながら、真っ青になって、生きた心地がしなかった。ユーナはあの夜、一体何をしでかしたのだ……?
そのころ男爵邸では、庭での騒ぎを怪しんで、使用人たちがランプ片手に様子を見に来ていた。
執事のブランメールが、一歩前に踏み出し、強い口調でユーナをとがめる。
「ユーナお嬢様、このような騒ぎを起こされてはいけません。湯に
しかし、クレオパトラ女王ゆかりのワイン風呂気分を味わって心が高揚していたユーナは、ブランメールの威圧にひるまなかった。腰に手を当てて肩肘を張りながら、強い女ムーブで言い返す。
「あら、執事さん。お父様と男爵夫人がいない今、この家の女主人代わりは私でしょ? 使用人が主人に指図する気?」
「お言葉を返すようですが、お嬢様。それは少々お心得違いかと存じます。男爵様から留守中の
「あちゃ……やっぱダメかあ。でも、聞いて。これは『お風呂』と言って、健康と美容にとっても役立つものなの。どうして、それがいけないの?」
ユーナの問いに答えて、ブランメールは入浴の害悪を説いた。人間が水の中に体を入れると、魔物に取りつかれる危険が高まると。ましてや、湯に入るのは万病のもとであると。
ブランメールによると、この世界でも遥か昔に生きていた「原始人ども」には、そのように皆で集まって湯に入る習慣があった。しかし彼らは、滅んでしまったという。
「恐らく、湯に入っていたせいで、部族内に病気が広がったのでしょう。体を湯に入れると、毛穴が開きます。開いた毛穴から、病気が体に入り込みます。その証拠に、体は高熱を出したような状態になる。権威ある医学書なら、どれもそう書いてあります。だから、湯に入ってはならんのです」
ブランメールは力説する。
「我々は、春と秋の節目には儀式で清めを受けている。祝福の民なのです。日々の汗と汚れは濡らした布で拭き取り、服をこまめに着替えます。月に1回くらいは水で頭を洗ってますし、体に軽く水をかける人もいます。清潔を保つには、それで充分なのです」
それでも臭いというなら、強い香水で打ち消せばいいだけだ、とブランメールは言った。
「建国以来、千数百年。剣と魔法の力で、わが国は繁栄を続けております。原始人どものように、滅びたりはしていない。わが国の文化が優れている、何よりの証明です」
そして、この国の人々が水に住む魔物を恐れて、水浴びすら極力避けているのは、実際に過去、水辺から這い上がってきた魔族に何度も侵攻を受けてきたからだ。
最後の侵攻は、十六年前。ちょうど、ユーナが生まれたころに起きた。
「魔族は、川や湖から攻めて来ました。魔族の毒で、水はすべて汚染されました。魔族との戦闘それじたいよりも、皮膚から水の毒が入って死んだ人のほうが、死者の数としては多かったのです」
当時、王国の近衛騎士団長だったユーナの父、ケーン・ユトリノは、国王が重傷を負って逃げ込んだ小さな城を守って、五十日間持ちこたえた。
この時に役立ったのが、籠城戦の鬼と言われたケーンの知恵だった。ケーンは城内に多数の井戸を掘っており、安全な水を確保して、長期の籠城戦を有利に進めたのだ。
その間に国内の王族・貴族が結集して援軍を送り、魔族を壊滅させることができた。
戦後、水は国中の魔法貴族が総力をあげて浄化魔法を施しており、魔族の残した毒はとっくに消えている。
だが、人々の恐怖心は、まだ消えていない。
「お嬢様の振る舞いは、魔族戦争の悪夢を思い出させ、社会に不安をもたらす行為です」
ブランメールは厳しい表情を見せながら、ユーナをそう諭した。
彼の話を聞き終え、ユーナは大きく息を吸いこむと、ゆっくり口を開いた。怒涛の反論演説の始まりだった。
「湯へ入りたくない人に、入れというつもりはありません。『お風呂』を、強制するつもりは全くないの。過去のトラウマで、水を怖がる人がいるのも理解します」
彼女の高らかな声が、男爵邸の庭に響く。
「だけど……私は、お風呂に入りたいの!」