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第十一湯 王都追放(前編)

「夜会で、聞いたんだけどねぇ?」


 クレア夫人は居並ぶ使用人たちの前で、声を震わせながら公開説教を始めた。


「わが男爵家の、妙な噂が広まってるの。公爵夫人に『樽のお化けが出るって、ほんと?』とか言われて、恥をかいたわ。何のことかと思えば、この樽だったのね。火のないところに煙は立たないとは、まさにこのこと」


 一人でフフッ、フフッとせわしなく鼻笑いしながら、クレア夫人は続けた。


「今夜の件も、ご近所にもし見られてたら、どうするの? 火を囲んで大騒ぎしてた、魔族崇拝の集会じゃないか、とか。きっと、そんなふうに話の種になるわ。男爵様があらぬ疑いをかけられたら、一体どうするつもり? これ以上、放ってはおけない。ユーナさんについて、思い切った決断が必要よ」


 そのユーナは、出て行くタイミングをはかりかねて、まだ樽風呂の中にいた。湯は、すっかりぬるくなっていた。


「あの……」


 樽の中からひょっこり顔を出して手を上げ、弁解しようとしたが、男爵はユーナに降りてこいと合図した。


 湯あみ着から水滴を滴らせながら、ユーナがはしごで地上へ降りてくると、男爵はユーナに言い渡す。


「もういい。お前は病気だ。病気なんだ。今すぐ荷物をまとめろ。しばらく辺境の男爵領で、おとなしくしてるんだ。いいな!」


 その場にいたブランメール執事、メイドのリン、ソフィーとメリー、ライアン、フワン爺さん、そしてヴァン・ダイノンまでが、深く頭を下げて、口々に彼女をかばおうとする。だが、男爵夫妻の決定は揺るがなかった。


 ユーナは涙をこらえて屋敷へ戻りながら、ワイン樽風呂のほうを振り返った。かすかな湯気が、まだ静かに立ちのぼっていた。


 水をかけられて火が消えた白いかまどの灰は、彼女の子供らしい自由の日々が終わりを迎えた、その象徴のように見えた。


 しかし彼女の胸には、新たな希望が宿っていた。自分自身の手で、確かにお風呂を作り上げた喜び。そして何よりも、今夜の出来事を通じて得られた、たくさんの貴重な経験。それこそが大切な宝物だと、彼女には感じられた。


 こうしてユーナは、表向きは「病気療養」との名目で、王都から追放されることが決まった。十六歳の貴族令嬢が、社交シーズン真っ盛りの五月に、王都屋敷タウンハウスから田舎の領地へ送られるのは、極めて異例のことであった。


 出発の朝、男爵家の王都屋敷タウンハウスの庭には、彼女に同情する使用人たちが集まっていた。主君の最終決定に、もはや反抗することはできない。それでも、ユーナの旅立ちはきちんと見届けたい。そんな、やむにやまれぬ心情が、彼らをそうさせたのだった。


 その中でも、ひときわ大きな声を上げて泣きじゃくっていたのは、ユーナの専属メイドだったリンである。彼女はユーナの「病気療養」に同行することを許可されず、このまま王都屋敷に残るよう命じられたのだ。


 リンにとって、自分の身を引き裂かれるようなつらい別れだった。ユーナにとっても、このことが王都を離れる唯一の心残りだった。これまで育んできた二人の絆は、無惨にも踏みにじられた。


「お嬢様、どうかお元気で……」


 涙を流しながら、リンは健気にも目尻を下げて、精いっぱいの笑顔を見せようとした。ユーナも泣いていた。


「心配ないよ、リン。どこに行こうと、私は私。絶対に、お風呂のことはあきらめない。それに、またすぐに会えるよ」


 ユーナはそっと手を伸ばしてリンを抱き寄せ、その長く美しい髪を、何度も優しく撫でつけた。


「リンこそ、体も心も元気に、ちゃんと髪と肌を洗って、キレイなままでいなきゃダメだからね? そうだ、忘れてた。これは最初に約束した『報酬』ね」


 ユーナは、完成した石鹸を取り出すと、まず、十二個入りの箱を丸ごと、リンに手渡した。


 そして、その場に見送りに来ていたソフィーとメリー、フワン爺さん、ブランメール執事、その他の使用人たちにも、一個ずつ手渡しで石鹸を贈る。


 別れを惜しむに充分な時間もなく、ユーナは馬車に乗り込んだ。


 男爵領へは、約十日間の道のり。ユーナの旅に同行することを許されたのは、馬車を操縦するライアン、そして、護衛役ヴァン・ダイノンの二人だけであった。

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