「夜会で、聞いたんだけどねぇ?」
クレア夫人は居並ぶ使用人たちの前で、声を震わせながら公開説教を始めた。
「わが男爵家の、妙な噂が広まってるの。公爵夫人に『樽のお化けが出るって、ほんと?』とか言われて、恥をかいたわ。何のことかと思えば、この樽だったのね。火のないところに煙は立たないとは、まさにこのこと」
一人でフフッ、フフッとせわしなく鼻笑いしながら、クレア夫人は続けた。
「今夜の件も、ご近所にもし見られてたら、どうするの? 火を囲んで大騒ぎしてた、魔族崇拝の集会じゃないか、とか。きっと、そんなふうに話の種になるわ。男爵様があらぬ疑いをかけられたら、一体どうするつもり? これ以上、放ってはおけない。ユーナさんについて、思い切った決断が必要よ」
そのユーナは、出て行くタイミングを
「あの……」
樽の中からひょっこり顔を出して手を上げ、弁解しようとしたが、男爵はユーナに降りてこいと合図した。
湯あみ着から水滴を滴らせながら、ユーナがはしごで地上へ降りてくると、男爵はユーナに言い渡す。
「もういい。お前は病気だ。病気なんだ。今すぐ荷物をまとめろ。しばらく辺境の男爵領で、おとなしくしてるんだ。いいな!」
その場にいたブランメール執事、メイドのリン、ソフィーとメリー、ライアン、フワン爺さん、そしてヴァン・ダイノンまでが、深く頭を下げて、口々に彼女をかばおうとする。だが、男爵夫妻の決定は揺るがなかった。
ユーナは涙をこらえて屋敷へ戻りながら、ワイン樽風呂のほうを振り返った。かすかな湯気が、まだ静かに立ちのぼっていた。
水をかけられて火が消えた白いかまどの灰は、彼女の子供らしい自由の日々が終わりを迎えた、その象徴のように見えた。
しかし彼女の胸には、新たな希望が宿っていた。自分自身の手で、確かにお風呂を作り上げた喜び。そして何よりも、今夜の出来事を通じて得られた、たくさんの貴重な経験。それこそが大切な宝物だと、彼女には感じられた。
こうしてユーナは、表向きは「病気療養」との名目で、王都から追放されることが決まった。十六歳の貴族令嬢が、社交シーズン真っ盛りの五月に、
出発の朝、男爵家の
その中でも、ひときわ大きな声を上げて泣きじゃくっていたのは、ユーナの専属メイドだったリンである。彼女はユーナの「病気療養」に同行することを許可されず、このまま王都屋敷に残るよう命じられたのだ。
リンにとって、自分の身を引き裂かれるようなつらい別れだった。ユーナにとっても、このことが王都を離れる唯一の心残りだった。これまで育んできた二人の絆は、無惨にも踏みにじられた。
「お嬢様、どうかお元気で……」
涙を流しながら、リンは健気にも目尻を下げて、精いっぱいの笑顔を見せようとした。ユーナも泣いていた。
「心配ないよ、リン。どこに行こうと、私は私。絶対に、お風呂のことはあきらめない。それに、またすぐに会えるよ」
ユーナはそっと手を伸ばしてリンを抱き寄せ、その長く美しい髪を、何度も優しく撫でつけた。
「リンこそ、体も心も元気に、ちゃんと髪と肌を洗って、キレイなままでいなきゃダメだからね? そうだ、忘れてた。これは最初に約束した『報酬』ね」
ユーナは、完成した石鹸を取り出すと、まず、十二個入りの箱を丸ごと、リンに手渡した。
そして、その場に見送りに来ていたソフィーとメリー、フワン爺さん、ブランメール執事、その他の使用人たちにも、一個ずつ手渡しで石鹸を贈る。
別れを惜しむに充分な時間もなく、ユーナは馬車に乗り込んだ。
男爵領へは、約十日間の道のり。ユーナの旅に同行することを許されたのは、馬車を操縦するライアン、そして、護衛役ヴァン・ダイノンの二人だけであった。