_
インターハイ東京都大会
陸上 男子棒高跳び決勝。
4m50cmにバーが上がり、田伏が1本目の跳躍を失敗した。
続く江國が1本目に挑戦しようとした時であった。
観客席で見ていた桃木の頬に、一滴の雫が落ちた。
「…えっ…。」
桃木は慌てて空を見上げると、雲は鼠色から濃い灰色に移り変わっていた。
突然競技場上空に現れた雲は、高校生たちの熱き戦場に雨を
_
助走路に立つ江國の頬にも、雨粒が滴り落ちる。
江國は上空を軽く睨みつけるように見ただけで、何も気にはしていない様子であった。
しかし突如、雨粒が肌を打つ感覚が無くなった。
横に現れた皇次が、気を利かせて傘を差してくれたのだった。
「…すまない。」
江國は目の前を真っ直ぐ見つめたまま、皇次に礼を言った。
皇次は黙って江國の様子を見ていた。
少しでも江國が濡れないように、雨粒を逃さぬように見張っている。
「…気にすんな。今は目の前に集中しろ。」
皇次は無愛想にそう言った。
それは、照れ隠しなどと言った感情とは少し違う。
皇次もまた、江國を意識するライバルとして正々堂々と勝負がしたいだけであった。
その為の環境は万全に整える。あくまでも全力で江國とぶつかりたいという意思の表れである。
「…ありがとう。」
江國がそう呟いた時、雨足が少し弱まった。
風は吹いていない。しかし、跳躍に向かうには悪くないコンディションとなった。
江國が両手にタンマグを擦り付け、ポールのグリップ位置を確認する。
再び前を向くのを合図に、皇次は助走路を離れた。
「…行きます。」
江國はそう宣言する。
継聖学院メンバーがその意思に応えて返事をした時には、既に江國は走り出していた。
地面を蹴る足音は、濡れた助走路を感じさせない程力強い。
小雨が江國の視界を邪魔するが、彼は一切気にしていない様に見えた。
踏み切り位置に近づくと、素早くポールを突き出して跳躍のフェーズに突入する。
ポールの先がボックスに突き刺さる時、少しの水飛沫が跳ね上がった。
悪天候を悪としない江國の踏み切りは、彼の強さそのものを物語っている。
高く跳び上がった江國は、ポールの反発に合わせて真っ直ぐバーの上に足裏を向ける。
良天候であれば楽にクリアできる高さだが、悪天候では容易くはない。
その筈であったが、江國はいとも簡単に4m50cmの高さに掛けられたバーを越えていった。
江國の体がマットに落ちると、水飛沫が飛び散る。
しかし、その飛沫の音を掻き消す程、観客席からの歓声は凄まじかった。
この悪条件を難なく跳ね除けた江國は、またもその圧倒的な力量を周囲に知らしめた。
審判員も呆気に取られた表情で白旗を上げた。
_
江國のクリアに、観客席からは割れんばかりの拍手が沸き起こった。
その歓声の中に巻き込まれている若越は、自分の心臓の鼓動だけが異常に大きく聞こえる気がした。
(…なんなんだ…あいつが醸し出す…あの雰囲気…。)
若越の胸中で感情が渦巻く。江國に対する驚愕、江國の跳躍に対する冷静な評価、そして、若越自身が同じ場所で競い合いを行っていない事への後悔、若越自身のベスト記録であれば江國よりも注目を浴びることができるという嫉妬や羨望。
若越は、膝に置いた両拳を力強く握りしめた。
「…やっぱり凄いよね、江國くん。昔の拝璃見てるみたい。」
ふと、若越の隣に座る桃木がそう若越に声を掛けた。
桃木に声を掛けられた事で、若越は少し不思議そうな顔で桃木の顔を見た。
強く握られた拳は、少しずつ力が抜かれていく。
「…僕、伍代先輩の事は何度か中学の頃に見た事あるんですが…よく考えたらまだ知らない事だらけかもしれないです。
伍代先輩ってどんな人なんですか?」
若越は、桃木にそう問いかけた。
彼の質問に、桃木は漸く彼が自分の事を不思議そうに見つめている事に気がついた。
そして、頭の中で思い出を巡らせながら、桃木の視線がグラウンド内の控えテントでストレッチをする伍代に向けられた。
「…拝璃と最初に会ったのは、あいつがまだ棒高跳びを始める前からだったの。
保育園、小学校は同じところに通ってたけど、中学は別の学校でね。
ある時、中学2年生の頃だったかな?拝璃が急に私に、試合に出るから見に来て欲しいって言ってきたの。」
_
3年前_
「桃!俺、陸上部に入ったんだ。
棒高跳びっていう種目があって、それをやってる!」
そう言う伍代の目は、14歳にしては少し幼い少年の様な、同い年の男子生徒とは違う目をしていた。
小学校卒業まで殆ど毎日の時間を共にしていた幼馴染が、なんだか知らないうちに大きく様変わりしている様子に、桃木は少し驚いていた。
「…棒高跳び?走って棒を飛び越えるやつ?」
桃木は、棒高跳びの事をよく知らない様であった。
体育の授業での走り高跳びを想像しながら、伍代へと問いかけるが、伍代は少し不満そうな顔をしている。
「…んー、ちょっと違う。
ポールっていう特殊素材でできた棒を使って、3mとか4mとかの高さにあるバーを越えるんだよ。
ポールは曲がる素材で出来てるから、その反発力を利用して空を跳ぶんだ!」
伍代はそう言うと、側に落ちていた木の棒で公園の地面に絵を描き始めた。
弧を描くポールとそれにしがみ付くような棒人間。そして2本の支柱とそれに掛けられたバーと呼ばれる棒の絵であった。
「世界の一流選手は、5mとか6m近く跳ぶ人もいるんだぜ!すげぇよなぁ…。
陸上競技で多分、1番難しい競技なんじゃないか?
下手したら、数あるスポーツ種目の中でもかなり難しい競技かもしれない…。」
伍代はまるで事件を解決する刑事のように、顎に手をあててそう言っていた。
桃木はそんな伍代の様子を、微笑みながら見ていた。
「…拝璃、なんだか楽しそう。」
ふと漏れた桃木の心の声が、自然と声になって出ていた。
「そりゃもう、楽しいぜ!棒高跳びやってるときが!」
そう言う伍代の顔は、くしゃっと歯を見せた笑顔であった。
そんな伍代が、桃木はなんだか微笑ましくもありながら、それとは別の感情も芽生えたように感じていた。
「今はまだ、全然かもしれないけど…来年、3年生になったら俺は絶対全国大会に出てやる!
そしたら桃!絶対見に来てくれよな!」
伍代はそう言うと、何かを思い出したかのように言葉を付け加える。
「あっ、そうだ。2年後に、日本選手権っていう日本のトップクラスの選手が集う大会が国立であるんだ。一緒に見に行かないか?」
伍代のその問いかけに桃木は一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに首を縦に振った。
「うん。もちろんだよ。拝璃の全国大会も見に行くし、日本選手権?も見に行こう!」
_
「…それで結局、拝璃は全国大会に出て2位だった。若越くんも知ってるかもしれないけど。
確かその時は、香川県の子にあとちょっとで負けちゃったんだよね。」
桃木の思い出話を、若越は真剣に聞いていた。
若越の、伍代はどういう人物だったのか。という問いに対する適切な答えでは無いように思えたが、桃木の話す伍代の中学時代の様子や、それに通づる現在の伍代の姿を見れば、その答えはなんとなく理解できていた。
「…もしかして、日本選手権って…。」
若越は桃木の話に出たその言葉に引っかかっていた。
「…そう。若越くんのお父さんが落下事故してしまったあの試合。
まさかあの時の人の息子さんが、こうして後輩になるなんてあの時は全く思ってなかったわ…。」
桃木は、若越の感情に気を使いながら慎重にそう話した。
「…今の自分は、父に合わせる顔がありません。
父親とはいえ、身内の立場でこういうのも変かもしれませんが、あれだけの選手が1人の選手を大切に育ててきてくれたのに…今こうして、蚊帳の外にいる自分が情けなく感じます。
…だから、もっと強くなりたい。
今あそこで、必死に戦っている人たちと自分は肩を並べて戦いたい…。」
若越はそう言って、再び拳を強く握りしめた。
目線を桃木からグラウンドの選手たちに移し、彼らの姿をしっかりと目に焼き付けて…。
_
田伏は、続く4m50cmの2、3回目の跳躍を失敗。
4m40cmの記録で競技を終えた。
雨脚は少しずつ収まってきたものの、未だ競技環境的には非常に不利な状況下であった。
バーの高さは4m55cmに上がる。
この高さから、継聖学院の高薙 皇次が競技に参加する。
予選の記録から、試技順は皇次が先に出番を迎えた。
助走路に立つ皇次の髪が、少しずつ濡れていくのが観客席で見守る人々にも分かる程であった。
(…江國に負けない。兄貴にも置いていかれたくない。
予選の記録よりも上の高さからのスタートだから何だ。練習では80近くまで跳んでいる…。
俺なら行けるっ…!)
皇次はタンマグを両手に馴染ませながら、目の前の越えるべきバーを睨みつけていた。
ふと、その横に傘を持った江國が部活ジャージのズボンだけ履いた状態で、皇次の隣に立った。
彼の足にはスパイクが履かれたままであった。
伍代、宙一は次の4m60cmの高さから、六織は4m70cmからの跳躍をはじめに審判員に宣言していた為、皇次の次にすぐ跳躍を控えているのは江國であった。
その状況の中で、ましてや江國が跳躍のサポートをしてくれている姿に、皇次はあからさまに驚いていた。
「…何してんだよ、江國。体冷えんぞ?」
「…いいから目の前に集中しろ。宙一さんに追いつくんだろ?」
江國はそう言うと黙って皇次が濡れないように傘を差した。
他者への興味や関心、ましてやサポートするなど全く無かった江國の行動に皇次は動揺したが、
江國の言葉を聞いて改めて集中する。
「…下がれ、江國。ありがとう。」
皇次はそう言うと助走の構えに入った。
その姿を見て、江國は黙って助走路を離れて控えテントへと戻っていった。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!!!!」
皇次の叫び声がグラウンドに響き渡った。
それはまるで獅子の咆哮のように、地面を揺らすほどに思えた
彼の魂の決意のように聞こえた。