「どうしましょう、遠山さん!」
佐々木が顔色を失い、声を震わせながら訴える。その気持ちは痛いほどわかった。試合前日の夜だというのに、会場の外には多くの人――いや、メディア関係者が殺到していた。押しかける人々の熱気は、ただの好奇心ではなく、どこか怒りにも似た空気を帯びている。
あの後、さらにSNS上で投稿が続いた。それまで沈黙を守っていたのが嘘のように。
『私は告白する。今回の事件、運営側が関わっている』
『月島という男。広告代理店とずぶずぶだ』
『以下、一連の事件の不可解な点を列挙する』
まさに「激白」と呼ぶにふさわしい告発だった。そして投稿はすべて、異なるアカウントから行われていた。では、なぜこれが本物だと断定されたのか――それは投稿に添付された写真の存在だ。試合会場内の写真。さりげない一枚ではあるが、試合前日のこの日、会場に立ち入れるのは関係者のみ。つまり、犯人は内部にいる――その事実が鮮明になった。
だが、問題はそこではない。投稿内容は明らかに月島とその背後の広告代理店の関与をほのめかしていた。月島は焦り、目に見えて取り乱していた。その様子を捉えたメディアは、一斉に「真相」を暴こうと彼に群がる。
ネット上では、手のひらを返すような非難が吹き荒れていた。今まで月島を英雄視していた者たちでさえ、真相が「本物らしい」とわかった途端、容赦なく彼を叩き始めたのだ。まさに、世論の残酷さがむき出しになっていた。
「遠山さん……」
佐々木が不安げに遠山の袖を掴む。
「とりあえず、佐々木。向谷理事に連絡して、すぐに動ける人だけでも手配しろ。現場の混乱を抑えるんだ」
遠山の声は低く、しかし芯の通った響きがあった。佐々木は大きく頷き、慌ててスマホを取り出して走り去る。
そのとき――
体育館の入り口から、血相を変えた月島が飛び込んできた。乱れた髪、土気色の顔、そして目は獣のように血走っている。遠山を見つけた瞬間、月島はその場に釘付けになり、ぎらついた視線で睨みつけた。
「とおやまあああああ! 貴様ああ、俺をはめたなぁッ!」
月島の絶叫が、体育館全体に反響する。吐き出された声は、ほとんど獣の咆哮に近かった。
「何を言ってるんですか、何のことですか!」
遠山が冷静に応じるが、その声にすら怒りを煽られたように、月島は顔を歪め、唾を飛ばしながら吠える。
「おめえだろおおお! このSNSの投稿、全部お前の仕込みだろうがああああ!」
「何を言っているんですか、意味がわかりません!」
遠山が一歩下がろうとした瞬間、月島は椅子を蹴り飛ばしながら詰め寄る。椅子は大きな音を立てて壁にぶつかり、倒れる音が体育館に響いた。
「お前は……お前は、俺の狙いに気づいてたんだろ! わざとだ! 俺の背後にいる連中の顔色を見て、全部のっかってきたんだろ、ちくしょうがッ! 俺を、俺を陥れるために!」
「……」
遠山は何も言わず、そのまま月島を見据える。その静かな視線が、逆に月島の怒りに油を注いだ。
「お前も警察行きだ! 全部ぶちまけてやる! 全部だぁッ!」
月島は怒りに任せて、近くの機材ケースを蹴り飛ばし、周囲のスタッフを弾き飛ばすように乱暴に腕を振り回す。スタッフたちは慌てて後退りし、遠巻きに様子をうかがう広告代理店の面々も、気まずそうに顔をそむけていた。
「おい! 見てんじゃねぇ! 誰か止めろよ、こいつを!! おい!」
月島の声はもう理性を失っていた。吐き出される言葉は怒声とも、泣き声ともつかない混乱の響きを帯びていた。
その中で、遠山は静かに一歩、また一歩と前に出る。
「……月島さん。あなたは、もう……」
言いかけたそのとき、月島は何かに気づいたように一瞬立ち止まり、震える手で額を押さえた。まるで自分の中の最後の理性が、ぎりぎりで声を上げているかのように。
「うるさい、うるさい……! 全部お前が……!」
呻き声とともに月島は背を向け、フラフラと体育館の奥へと走り去っていった。彼の足取りはすでに乱れ、まるで酔っ払いのように左右に揺れていた。
「遠山さん……」
佐々木の声には、心底からの不安と、縋るような色が混じっていた。
「ああ、もちろん犯人は俺じゃない」
遠山は、苦笑ともため息ともつかぬ息を漏らしながら答える。
「そんなの、分かってますよ! でも……どういうことなんですか。月島さんの“狙い”とは、もう違う展開になってるってことですか?」
佐々木の声は、焦りの中にも理性を保とうとする必死さが滲んでいた。
「ああ、だろうな。奴が描いていた“演目”に、途中から新たな“書き手”が現れた。反逆者が、舞台に乱入した……そんな構図だろう。今日の会場写真まで出てる。身内、それもかなり中枢に近い人物じゃなきゃ無理だ」
遠山は手元のスマホを操作しながら、低い声で続ける。
「あのSNSで投稿された情報を見る限り、理事の誰か……」
「まさか、向谷さんが!?」
佐々木が声を上げた。
「ばか。向谷さんは、そんな人じゃない。やるなら正々堂々とだ。そして、何より――あの人が一番大切にしてるのは……」
遠山は、言葉を切ると、自分のスマホ画面を佐々木に見せた。とはいえ、佐々木もすでに見ていたはずだ。SNSの最新投稿。今回の事件に“やらせ”疑惑が浮上し、月島や運営陣への批判が巻き起こっていた。しかし、問題はそこではなかった。
次々と並ぶ書き込みは、やがて矛先を変え、事件に巻き込まれた選手たちへと向かいはじめていた。
『神崎ってやつ、まさか月島の共犯?』
『やらせだよ、やらせ』
『うわ、こわい女……』
『てか、コアラーズの山名詩織ってやつも倒れたふりしてたぞ』
『まったくもって、クソだな。女バス(笑)』
「……これは、もう……」
佐々木が絶句する。遠山は何も言わず、画面を消してポケットにしまった。
「向谷さんなら、こんな状態、絶対に許さない。リーグ全体の名誉だけじゃない。何より……選手たちの尊厳が、地面に叩きつけられてる」
そのとき、遠山の胸をよぎったのは――神崎ほのかの姿だった。弟を理不尽な事故で失い、その遺作を“興行”の道具にされ、さらに自らも事件の渦中に引きずり込まれた。やっと立ち上がろうとした矢先に、心ない言葉でまた蹴りつけられる。
(こんな理不尽が、許されていいのか)
怒りとも悲しみともつかぬ感情が、喉の奥でせり上がる。だがそれ以上に強くこみ上げてきたのは、自分の無力さに対する、どうしようもない苛立ちだった。
「どうしようか……もう、どうしていいか分からない」
遠山は、ふと目の焦点を失ったようにつぶやいた。何かを掴もうと伸ばした手が、空を切っているような感覚。
「遠山さん!」
佐々木の声が、乾いた体育館に鋭く響いた。だが、その呼びかけにも、遠山の頭の中は混乱の渦の中にあった。
(……どうすればいい)
事件を止めたい――それは当然だ。しかし、すでに月島たちが「黒」だと世間に認識され始めている。これだけの証拠と告発が出揃った今、警察は黙っていられないはずだ。いずれ早川さんたちの組織が動く。政治の圧力で抑え込むことも、ここまで来たら不可能だろう。
つまり、世論はすでに月島たちを「加害者」と決めつけ、あとは制裁を待つだけの空気だ。だから、明日の試合は――中止になる。いや、ならざるを得ない。
だが、それで終わりか?
遠山の胸の奥で、何か冷たい感触が動いた。
(……今日の最初の投稿)
脳裏に鮮明に浮かぶ文面。
『“彼女”を見届ける、最後の舞台だ』
その投稿だけは、他の暴露投稿と決定的に違っていた。ただの内部告発ではない。明確な――「殺意」があった。
つまり、月島や広告代理店の「興行的な演目」とは別に、真犯人が存在する可能性が高い。そしてその人物は、まだ動いている。殺人を実行する気でいる。
(向谷理事の言葉……あの人物がもともと月島たちに情報を流していた……つまり、彼らが仕立てた“舞台”に真犯人が便乗していたのか)
そうだとすれば――投稿に添えられた今日の会場写真。これが決定的だった。
(関係者しか入れない場所からの写真……つまり真犯人は、今も会場内にいる。スタッフの誰か……!)
月島たちを止めるだけでは足りない――真犯人を止めなければ、神崎を、選手たちを守れない。だが、ここで試合を中止すれば本当に安全なのか?
いや、むしろそれすら犯人の狙いかもしれない。混乱の中で、誰かを狙う計画が練られているのではないか。
遠山の頭に冷たい汗が滲む。
(どっちに転んでも、選手たちが巻き込まれる……!)
しかも、月島たちの不正が表に出た時点で、リーグの信用は崩壊した。コンプライアンスは完全に地に落ちた。スポンサーも、ファンも、もう戻らないかもしれない。
それだけじゃない。真犯人がリーグ内部にいる――この事実が突きつける現実。
このままでは、明日以降、このリーグだけでなく、日本の女子バスケ全体、プロスポーツ化としての未来すら消えかねない。
重圧、焦燥、無力感。遠山の思考が何度も同じ場所を堂々巡りする。
「遠山さん!!」
今度は、佐々木の声が腹の底に響いた。顔を上げると、前方から誰かがこちらへ走ってくるのが見えた。スーツ姿にもかかわらず、しなやかで切れのあるフォーム――あの人だ。前田早苗。
「前田さん……」
「――何をしているんですか」
前田の声は、氷のように鋭かった。遠山は言葉を探しながら、重い口を開く。
「いや、もう……どうすればいいのか……」
「選手が叩かれています。詩織も、神崎選手も……! 遠山さん、わかっていますよね?」
「ただ……俺には、もう何とお詫びすればいいのか……」
「そんな“お詫び”なんて聞きたくない!」
前田は、遠山を射抜くように睨んだ。涙で少し潤んだ目に、強烈な光が宿っている。
「今すぐに、助けてあげてください。選手たちは、何も悪くないんです。彼女たちは、ただバスケがしたいだけなんです!」
「しかし……真犯人はおそらく内部にいる。スタッフの誰か……それに、明日の試合は中止になるだろう……。チケットの払い戻し、スポンサーへの対応……大赤字だ……。もう、どうしようもない……」
遠山の声はしだいに小さくなり、胸元で拳をぎゅっと握りしめた。
「はは……もしかしたらリーグ崩壊だ……本当に……」
その瞬間――。
パァンッ!
前田の手が遠山の頬を強く打った。周囲のスタッフが息を呑み、佐々木が「あ……!」と短く声をあげた。
遠山の顔がはっきりと横を向く。痛みがゆっくりと伝わり、頬が赤く熱を持ち始めた。
「まだ試合は終わっていないんです!!」
前田の声が響いた。体育館の天井にまで届きそうなほどの声量と気迫だった。
「あなたはリーグの“ハコ”を守る人でしょう!? 選手はコートで、スタッフは裏方で、それぞれ自分の場所で戦ってる。誰一人、逃げてなんかいません! なのに、あなたが逃げてどうするんですか!」
遠山の目に、かすかに涙が浮かんだ。自分の手が震えているのがわかった。
「でも……俺には、もう何が正しいのか……。どう守ればいいのか……」
「あなたは警察じゃない。探偵でもない。あなたはリーグの人間です! ハコを作る人間なんです!」
「……ハコを……作る……?」
「そうです!! リーグだって“ハコ”。バスケを愛する人たちが帰ってくる場所なんです。あなたがそのハコを壊したら、行き場を失う選手がどれだけいるか、わかっていますか!? 選手は信じています。あなたの作った舞台で、最高のプレイを見せるって!」
前田の声が、遠山の胸の奥に突き刺さる。喉の奥が熱く、痛いほど締めつけられた。
「あなたがハコを守るなら、うちのかわいい後輩たちはこんなスキャンダルなんて吹き飛ばすくらいのプレイをします! 見ていてください。だから、難しいことを考えすぎず、あなたにできること――あなたにしかできないことを、突き通してください!!」
その一言が、遠山の心の奥に溜まっていた濁った水を一気に押し流した。
確かに、自分は難しいことばかり考えすぎていた。月島の駆け引き、政治的圧力、真犯人探し――すべてに囚われすぎて、本当に大切なものを見失っていた。
(俺は何のためにここにいる?)
初めてWリーグの試合を見たときの、あの温かさ。選手も観客も、全員が同じ熱を共有し、一つのハコを作り上げるあの光景。あの感動を、もう一度作りたくて、この場所に来たのではなかったか。
そうだ……俺が守るべきは、リーグのハコだ。それを突き通せば、選手を守ることに繋がり、結果、犯人にだって、きっと繋がる。そんなシンプルで、でも大切なことが、俺の仕事だった。
「前田さん……ありがとう」
遠山は絞り出すように言った。その目には涙が滲んでいたが、どこか決意の光が戻っていた。
「……いいえ。もうやるべきことをやりましょう。私だって、本当はビンタなんてしたくなかったんですよ」
「いや、手慣れた様子でしたが?」
遠山が冗談めかして言うと、前田は一瞬目を見開き、そしてふっと笑った。
「ばかおっしゃい……!」
その笑顔に、遠山は力強く頷いた。背筋が伸び、肩に入っていた余計な力が抜ける。自分の進むべき道が、はっきりと見えた気がした。
「……よし。ハコを守る。俺にしかできないやり方で」
「ええ、お願いします。私たちはコートで、あなたは舞台で。それが、私たちの戦いです!」
二人の視線が、強く、深く絡み合った。そこにはもう迷いはなかった。
遠山は大きく息を吸い込み、一歩前に踏み出す。
これが――俺の舞台だ。