試合前日の昼下がり。
大田区総合体育館では、翌日に控えた試合に向けて会場設営が粛々と進んでいた。もともと遠山の案で安全面を考慮し、コート最前列の席は撤去されているはずだった。しかし目の前にあるのは、月島が復活させたらしい最前列の座席。それも通常の倍の数が設置されていた。チケットをキャパ以上販売したため、席が大幅に足りなくなっていた。
コートでは三菱の選手たちが汗を拭いながら、最後の調整を終えようとしている。
本来、Wリーグでは試合当日に会場入りし、軽く体を動かすのが常識だった。しかし今回は違った。全チームが前日入りを選び、空気には張り詰めた緊張が層のように漂っている。
事件の影が沈黙と不安を引き寄せ、言葉にしなくとも誰もが“何か”を感じ取っていた。
そんな中、月島だけはまるで別世界にいるかのようだった。いや、それ以上に芝居がかった態度を見せている。
「皆さん、明日は歴史に残る一戦になります! どうか全力で、悔いなく戦ってください! 我々が支えます!」
舞台俳優のように通る声で、各チームに熱い激励を飛ばす月島。その様子に、とあるチームのオーナーが手を振って笑いかけた。
「おお、月島はん! 相変わらず元気やなあ。わざわざご苦労さん!」
チームによっては彼と親しい顔触れも多く、中には記念撮影を求めるスタッフまでいて、もはや練習というよりは前夜のイベントさながらの賑わいだった。
その様子を、遠山は少し距離を置いて静かに見つめていた。隣にはあの刑事・早川が控えている。新潟で出会って以来の再会だったが、その眼光はいまだ鋭く変わらなかった。
「……冷や飯、まだ続いてるんですね」
早川がぽつりと呟く。
「皮肉ですか?」
「いえ、そのつもりはありませんが」
「……まあ、自分が裏方の裏方になるとは、まさか思いもしませんでしたよ」
遠山の声には、自嘲にも似た笑みがにじんでいた。
「人事なんて、理屈じゃないですから。私も二度ほどやられました。署の方針が変わった瞬間、昨日までの大勢派が一夜にして塗り替えられる──そんなものです」
「……まるで、舞台のセットみたいですね」
「そうですね。台本が書き換われば、正義も悪も役割を変える。中身はそのままでもね」
重い言葉が交わされた後、静かな一拍の沈黙が流れた。しかし、その空気を破ったのは体育館に響く元気な挨拶だった。
「こんにちはー!」
白いユニフォームに身を包んだ選手たちの一団が体育館に入ってくる。彼女たちの姿を見た三菱の選手たちは、自然とコートを譲り、ボールの音が静かに消えた。
胸元に記されたロゴ――NIIGATA。
遠山は、その一団の中に見覚えのある背中を捉え、息を呑んだ。
「……え?」
驚きがそのまま言葉となり、空気に溶けていく。
視線は一人の選手に吸い寄せられた。首を回しながら歩いていた彼女が、ゆっくりとこちらを向く。
――神崎ほのか。
彼女が、ここにいる。
「そこまで情報共有されていないんですね……」
隣で早川が淡く微笑んだ。
「……いや、はい。でも……神崎選手ですよね?」
「ええ。本人の意思で、“明日は出場する”そうです」
まるで天気予報を伝えるかのように、早川はさらりと言った。
遠山は咄嗟に口を閉じ、歩き出す。視線は真っすぐに神崎ほのかの姿を追っていたが、そこで早川の手がそっと彼の腕を掴んだ。
「なんですか? 早川さん、私も彼女と話をしておきたくて」
「ええ、それは自由ですが、その前に……」
早川の声はいつになく歯切れが悪く、語尾が濁っていた。遠山はその違和感を見逃さず、一瞬目を細めて問い返す。
「何か?」
「……いえ。ただ……」と早川は一拍置いて口を開いた。
「神崎勇の小説。見つけたんです」
その言葉に、遠山の目が大きく見開かれた。息を呑む間もなく、身体がわずかに前傾する。
「ほ、本当ですか?!」
感情が思わず口を突いて出た。抑えきれない熱がそこにあった。
その様子を見て、早川はふっと唇を緩め、肩をすくめるように小さく笑った。
「……何ですか、その慌てようは」
遠山は少し狼狽えながらも、苦笑いを返した。
それを見て、早川はメモ帳を指先でくるくる回しながら、にやりと告げた。
「……今のは、ちょっと引っかけました。残念ながら、我々もその小説の所在は分かりません」
遠山はわずかに頬を引きつらせる。感情を見透かされた気がして、心の奥がくすぐったい。
「私個人としては、市民が警察に協力するのは当然のことだと思っていますよ。で、遠山さん。あなたもまあ……そこまでは見えている、ということですよね?」
遠山は一瞬だけ沈黙し、静かにうなずく。
「……はい。でも、だったら警察は月島を止められないんですか?」
問いかける声に、早川は深いため息をついた。
「おそらく“黒”だとは分かっている。でも、証拠を掴むのは極めて難しいんです。証拠自体が掴みにくいこともありますが、あの組織の裏には広告代理店をはじめ、様々な影が蠢いています。何が飛び出してくるか、予測がつかない。場合によっては、こちらが火だるまになることだって十分あり得ます」
早川の声には、やるせなさと現実的な慎重さが滲んでいた。
「はっきりした証拠がないと、今回のケースは踏み込めない。だから今はみんな、見て見ぬふりを決め込んでいるだけさ」
「もしや、あなたも……?」
遠山が尋ねる。
「ええ。じゃなきゃ、こんな場所であなたに助言なんてできませんよ」
早川は少し間を置き、肩をすくめた。
「どういう圧力がかかっているのかは正直わからない。ただ、警察の上層部は今回の件には強引な手法を使うな、という空気が漂っている。おそらくかなり上からの指示でしょうね。スポーツリーグ自体が税金や国からの補助金など、さまざまな利権に絡んでいますし。現場で見回りしている制服警官たちがどう感じているかは知らないけど、少なくとも私の上司たちがいる政治の世界では、もうストーリーが決まっているようなものだ」
遠山は無言で右手の親指を無意識に擦りながら、その言葉の重さを噛み締めた。
「で、結局どうしろと?」
問いは突き放すでも皮肉でもなく、ただ純粋な本音だった。自分がどこから動けばいいのか、その糸口を必死に探している。
早川は視線を落とし、静かに息を吐いた。
「私が動けば、間違いなく組織から叱責される。だから――あなたに動いてほしい」
遠山の胸に、その言葉が重くのしかかる。
「向谷さんから働きかけを受けているなら、明日の試合までは自由に動けるはずでしょう?」
「……はい」
「それでいい。何かあればすぐ連絡してくれ。できる限りサポートをしますよ。特に、もう一度神崎勇の事故を調べてみてほしい」
「神崎勇ですか? ずいぶん前の話ですよね。どういうことなんです?」
早川はふっと笑みを浮かべた。
「あの事件は飲酒運転だった。でも、犯人の名前はまだ公表されていないんです」
「は?」
そう言うと、早川は何事もなかったかのようにフロアの奥へと歩いていった。背中には、重い責任を少しだけ下ろしたような軽さが感じられた。
ちょうどそのとき、新潟の選手たちが談笑しながらランニングを始める。遠山は気持ちを切り替え、脇にいたスタッフに近づいて軽く頭を下げ、視線で状況を確認させた。
そして――いた。神崎ほのかが、コート端でストレッチをしていた。チームから少し離れて、個人メニューをこなしている。
(やはり……まだ、本調子とは言えないか)
そう思いながらも、遠山は神崎に声をかける。
「神崎選手」
遠山の声に気づき、コート端でストレッチをしていた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。表情はどこかぼんやりとしていて、焦点が合っていないような目をしている。だが――整った顔立ちは、相変わらずだった。
「お体は大丈夫ですか?」
遠山は、できるだけ穏やかに問いかけた。
「ああ、この前の」
「はい、遠山です」
「いえ、お名前は知っています。先日はありがとうございました。調子は……まあ、まだ上がってはいませんけど」
神崎は視線をそらし、膝の上に置いたタオルの端を指先でそっと弄っていた。
「まだ試合に出るのは厳しいんじゃないですか……?」
遠山が尋ねると、
「いえ。もちろんフル出場は無理だと思います。ケガの場所自体はプレイに問題ないんですけど。でも、私がコートに立つこと自体に意味がある、そういう“指示”がありました」
その「指示」という言葉に、遠山の胸がほんの少しざわついた。
前田早苗の悲劇が脳裏をよぎる。遠山は唇を噛み、言葉を選びながら言葉を続けた。
「……無理しなくていいんですよ。これは私個人としての意見ですが」
「いえ、そうでもなくて。むしろ……私も、出たくて」
神崎がそう言いかけたその声が、ふと濁った。
彼女の目が一瞬揺らぎ、何かを飲み込んだように見えた。
「その……」
神崎が何か言おうとした、その瞬間だった。
「おお、神崎選手!」
背後から、場違いなほど明るい声が響いた。遠山が振り返ると、月島と数人のスタッフ、それに見慣れない背広の男がこちらに向かってきていた。背広の男――胸元にバッジがあり、どうやら新しく契約した警備会社の重役らしい。広告代理店のスタッフも数名同行している。
月島は遠山をちらりと一瞥し、笑顔のまま言った。
「すみません、うちのリーグの者が、アップ中に声をかけてしまって。彼はバスケ経験もないので、どうしてもそのあたりの気遣いが素人で……」
あからさまな“排除”の言葉。形式上は礼儀を装っているが、その実、明確な牽制だった。
「いや、別に……」
神崎は小さく首を横に振ったが、その声には困惑が滲んでいた。
遠山は思わず言い返しそうになったが、月島の背後に立つスポンサーの存在と、この場の空気を読んで、言葉を飲み込んだ。
悔しさを押し殺すように、遠山はその場をすっと離れた。神崎の視線が、何かを言いたげに自分を追っているのを感じながら。
そして数秒後――その空気を切り裂くように、体育館の外から、ドタドタと足音が響いた。
「遠山さん!」
駆け込んできたのは、佐々木だった。いつも通りの慌てた様子――だが、顔は強張り、額には汗。何か重大なことがあったのは明白だった。
「どうした?」
遠山が一歩近づくと、佐々木は喉を鳴らしながら言った。
「あ、あの……」
佐々木は遠山と月島の顔を交互に見比べていた。何かを決断しかねているように唇を噛んでいる。最近はこうした場面で、自然と月島に報告が行っていた。しかし――遠山は、今こそその流れを断ち切るべきだと、心の中で決意した。
「佐々木……」
「……はい」
「何があったのか、教えてくれないか?」
静かだが強い声音だった。佐々木は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに頷いた。
「……はい!」
その瞬間、月島の顔が明らかに曇った。
「実は、また投稿があったようで……」
「なに?」
遠山が思わず前のめりになった次の瞬間、月島が苛立ったように手を伸ばし、佐々木の手元のスマートフォンを乱暴にひったくった。
「おい、見せろよ!」
勢い余って、佐々木の体がふらついた。倒れそうになったその肩を、遠山がとっさに支える。
「大丈夫か?」
「……はい、すみません」
佐々木が息を整える中、遠山は月島に向き直った。
「月島さん、佐々木に謝ってください。あなた、今のは――」
言いかけた瞬間、遠山は月島の顔が血の気を失い、青ざめていることに気づいた。
スマホの画面を握りしめる指はわずかに震え、目は何かを拒絶するかのように虚空を見つめていた。
「……俺は知らんぞ」
月島は誰に言うでもなく、ただ低く呟いた。
遠山はすぐ佐々木に目配せし、小声で促した。
「その投稿、見せてくれ」
佐々木は頷きスマホを取り戻そうと手を伸ばすが、月島は一瞬それを拒むように握りしめたままだった。しかしそれを見て、遠山はスマホを無理やり奪い取った。
遠山は画面を覗き込む。
そこには、また別のアカウントからの投稿が表示されていた。今回は日付と時間が明記されている。明日の試合開始時刻。
その文面にはこうあった。
『演目通りにいくと思っているバカへ。お前のようなやつがいるから、だめなんだ。しっかりぶっ壊すから安心しな――“彼女”を見届ける、最後の舞台だ』
遠山の背筋に、氷のような冷気が走った。
(“彼女”――神崎……?)
確信に近い予感が胸をよぎる。そして月島の異様な動揺。何かを知っている、それも核心に迫る何かを。
「おい、どういうことだ!」
月島は広告代理店のスタッフに声を荒げた。しかし、そのスタッフも困惑した表情を浮かべているだけだった。その様子を見て、遠山は確信を深めた。
「月島さん。あなた、何か知っているんですね?」
「……知らん! 俺は何も知らんって言ってるだろう!」
声を荒げた月島は、突然周囲の視線を気にしたように口をつぐんだ。
そしてもう一度、神崎の方へと視線を戻すと、彼女はひとり、体育座りのまま静かにコートを見つめていた。その目はまるで最初から結末を知っている役者のように、どこか虚ろだった。