目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第11話

「遠山……さんですか?」

 都内のホテルの一室。窓の向こうでは、都会のネオンが雨に滲んでいた。重く閉じられたカーテンの隙間から漏れる明かりは、わずかにこの密室を照らすだけ。まるで現実と隔絶された空間のようだった。

 こんな時代に、こんな形で誰かと会うことになるとは思っていなかった。しかも、その“誰か”が警察に追われている可能性がある。彼は、遠山よりもやや若いが、どこか影を背負ったような眼差しをしていた。だからだろうか。部屋に入ってからも、落ち着きなく指先を動かしている。

「すみません。お時間をとっていただき……遠山です」

 そう言って軽く頭を下げた彼に、対面の男は一礼で応える。遠山の隣にいた佐々木が、不意に前に出た。

「私は広報の佐々木です。急きょ、同席させていただくことになりまして」

 本来、佐々木を連れてくるつもりはなかった。これはデリケートな話になる。できれば、遠山一人で済ませたかった。だが彼女の嗅覚は、妙に鋭いときがある。呼んでもいないのに、どこか察してホテルのロビーに現れたとき、遠山は少しだけ諦めの笑みを浮かべるしかなかった。

 スーツ姿の男が、口を開いた。

「私は……」

 改めて自己紹介しようとした彼を、遠山が制した。

「木村さんですよね?」

「ええ。木村陸翔と申します。今は……」

「あ、ご職業など、無理におっしゃらなくても大丈夫です」

「すみません……」

 言葉を切った木村の声には、どこか遠慮が滲んでいた。しかし、その仕立ての良いスーツや姿勢の所作からは、育ちの良さと知的な環境で磨かれた人物であることが見て取れる。——手紙にも書いてあった。神崎勇の高校時代、つまり東京にいたころの友人で、官僚か、それに類する職に就いていたのだろう。

 数秒の沈黙を置いて、遠山は切り出した。

「それで、早速ですが。いただいたお手紙、拝読しました」

「……そうですか」

 木村はわずかに顔を伏せた。その仕草は、隠しごとを抱えている者のそれに見える。

「つまり、木村さんは——神崎勇の『汚染のインコート』を読んだことがある。そういうことですね?」

「……はい」

 小さく、それでいて明確に頷いた木村。目線は机の上をさまよい、どこか所在なさげだ。

 遠山は、隣の佐々木と視線を交わした。佐々木は無言で頷き、後はお願いしますとばかりにメモの準備をする。

「そもそも、何があったのか。ことの経緯を教えていただけますか?」

 木村はしばらく無言だった。目を伏せ、何かを振り払うように深く息を吐くと、やがて観念したように顔を上げた。そして口にしたのは、予想外の言葉だった。

「——止めてくれますか?」

「何を、ですか?」

 遠山が慎重に問い返す。

「殺人を……止めてほしいんです」

 その瞬間、佐々木が喉を鳴らす音がはっきりと聞こえた。だが遠山は、顔色ひとつ変えず冷静に言葉を重ねる。

「殺人、ですか?」

「ええ。おそらく、ですが……今起きていることが、勇の小説の通りに進んでいます」

「神崎勇、ですね」

「……はい。俺たち自身、彼から連絡が来たのは……少し、驚きだったんです」

 木村が神崎勇と出会ったのは、高校一年の春。都内でも進学校として知られるその高校で、ふたりは同じクラスになった。

 神崎勇は、初日から目立っていた。端正な顔立ちに、柔らかい物腰。いわゆる「優男」タイプで、女子からの人気は瞬く間に高まっていった。だが不思議と、男子にも嫌われなかった。というのも、彼はサッカー部に所属していた。部活の特有のノリの中にもうまく溶け込み、時にはバカをやって笑わせ、時には真面目にテスト勉強を教えてくれる。そんな器用さを持っていた。

「勇、ここの英文法、どう考えても納得いかねえんだけど」

「んー、これね、文型で考えるとスッといくよ。SVOOってやつ」

 何だかんだ言いながら、放課後の教室でふたり並んでノートを開いた日々を、木村は今でも鮮明に覚えている。

 なかでも、忘れられない思い出がある。高校二年の文化祭だ。クラスで演劇をすることになったのだが——驚いたことに、その脚本を勇が書いた。

「え、マジで? あの神崎が?」

「本人が希望したらしい。やってみたいって」

 そう噂が広がったのは、夏休み明けのことだった。意外性もあったが、妙に納得もいった。現代文は常にトップクラス、小説も暇さえあれば読んでいる。むしろ今までやらなかったのが不思議なくらいだった。

 演劇の内容は、一風変わっていた。テレビドラマ『古畑任三郎』に憧れる中年男が、コスプレ姿で町のさまざまな事件を“名推理”で解決していくという、完全なるパロディだった。演出も随所にこだわっており、舞台装置もセリフも“本気のふざけ”で貫かれていた。

 そして、観客は笑い、うなずき、引き込まれた。分かりやすくてテンポがよく、それでいてオチまできれいに決まっていた。劇は文化祭の大賞を受賞。校内新聞にも載るほどの成功を収めた。

「来年は、本格的な殺人事件モノでいこうぜ」

 と、勇は楽しげに笑っていた。だがその計画が実現することはなかった。

 年が明けてまもなく、勇の転校が決まったのだ。理由は——姉がプロチームに所属する関係で、家族で地方に引っ越すことになったらしい。

「……そっか。ちょっと寂しいな」

「大学、同じとこ目指してるしさ。また会えるって」

 最後の日、勇はそう言って、爽やかに笑った。

 その後月日は過ぎ、木村は志望校に入学し、とにかく忙しくなった。将来は公務員——いや、はっきりとは言えないが、ある程度の職に就くつもりだった。だからサークルや遊びに興じながらも、試験勉強には余念がなかった。正直、勇のことを思い出すことは少なくなっていた。勇と仲の良かった連中も同じ大学に入ってきたが、それぞれの生活が始まれば、昔の友情もだんだんと距離を置く。

 そんなある日だった。突然、勇から連絡が入った。

 何年ぶりだろう。高校の卒アルを引っ張り出して、少し懐かしい気分になった。どうやら、アマチュア作家として活動を始めたらしく、新作を読んでほしいという。木村たちは、また『古畑任三郎』のパロディか? と、どこか期待混じりに浮かれた。

 約束の日。新宿の居酒屋に、高校の旧友たちが集まった。

「……なあ、勇、まだ来ないのか?」

「さすがに遅くね?」

 誰もが同じ思いで、時計を見ていた。そして——

 彼は現れた。

 けれど、誰もすぐには気づかなかった。勇だと、分からなかった。

 痩せ細っていた。頬はこけ、骨ばった指先が不自然に震えていた。その一方で、目だけが異様に光っていた。ギラギラと、何かに取り憑かれたような光を放っていた。

「……お、お前、本当に勇かよ……?」

 誰かがそう口にしたとき、勇はかすかに笑った。

 やがて酒が入り、高校時代の思い出話に場が和んできたころ、勇はゆっくりと鞄から何かを取り出した。

「これ、読んでほしいんだ」

 紙の束——数十枚にわたるコピーだった。タイトルが一枚目の上部に印刷されていた。

『汚染のインコート』

 まあ、我々は――控えめに言っても――そこまで頭は悪くない。酔っていたが、特に問題はなかった。

 だから、その場で仲間たちと一緒に、勇が差し出した原稿を読み始めた。

「どれどれ、また古畑か?」

「まさかね、でもタイトル渋いな」

 最初は笑いながら、軽口を叩きつつページをめくっていた。だが、数分も経たないうちに、部屋に沈黙が落ちた。それは、あまりにも明白だった。

 高校時代、勇が書いた『古畑任三郎』のパロディ脚本も、ただのおふざけではなかった。あれは、メタ構造を用いた野心的な演劇だった。演劇の中で観客の存在が言及され、舞台と現実の境界が曖昧になる。虚構と現実が交錯するそのスタイルには、確かに勇の好きなメタ文学作家たちの影響が色濃く出ていた。

 そして今回の『汚染のインコート』。それもまた、メタ構造だった。ただし、そこに漂っていたのは、かつてのようなユーモアではなかった。

 これは、小説じゃない。

 読み進めるほどに、その確信が強まった。これは、物語の皮を被った“計画書”だ。緻密に組まれた犯行シミュレーション。しかも、その舞台となるのは、特定のバスケットボール会場や試合、人物の動線。現実に起きる可能性を前提に構築された、あまりにも現実的な“虚構”だった。

 そのときようやく、我々は気づいたのだ。なぜ彼が、こんな風貌で現れたのか。

 姉のプロ入りで突然転校したあの日。

 都内に進学せず、大学で一切消息を聞かなかった理由。

 そして今、何年も沈黙を破って、なぜこんな原稿を手渡してきたのか。

「……勇、これは、冗談じゃすまされない」

 そう口にしたのは誰だったか。だが、全員が同じ気持ちだった。この場で、彼を拒絶しなければいけないと、強く思った。

 勇は、それに対して、何も言わなかった。ただ静かに頷き、とぼとぼと帰っていった。あの背中を、誰も呼び止めることはできなかった。

 その後だった。しばらくして、勇が事故で亡くなったという報せが届いた。

 あの日、小説を読んだ我々は、葬式に出た。そこには、神崎ほのかさんもいた。

 テレビで見たままの美しさだったが、顔色は悪く、どこか虚ろな目をしていた。

 彼女の姿を、俺たちは正面から見られなかった。

 線香をあげ、短く頭を下げたあと、我々は言葉を交わすこともなく、静かにその場を離れた。

 ——問題は、そのあとだ。

 長くなってしまって申し訳ないが、ここからが本題かもしれない。

 つい最近になって、耳を疑うような話が舞い込んできた。

 あの居酒屋にいた、高校時代の仲間の一人。今は某広告代理店で働いている男から連絡が来た。

 「勇の『汚染のインコート』っていう小説を、読みたがってる人がいる。バスケを題材にした推理小説を探してるってさ」

 最初は冗談かと思った。でも、そいつの声は本気だった。

 実は——あの居酒屋の日、俺だけはあの原稿を持ち帰っていた。

 なぜそうしたのか、自分でもよく分からない。ただ、捨てられなかったんだ。勇が命を削って書いたような気がして。だから大学を卒業し、就職してからも、引っ越しを重ねるたびに原稿を段ボールに詰めて、ずっと持っていた。

 そして今回、件の広告代理店の友人から“読みたい人がいる”と聞き、何の気なしに渡してしまった。確かに犯行計画に見える作品ではあるが、逆に言うと、クオリティー自体はとにかく高い。勇のバックボーンを知らなければ、ただの推理小説として捉えられるであろう。

 そして何より——無念の死を遂げた勇のことを思うと、これは何かの縁かもしれない、とさえ思った。

 あれだけの想いを込めて書かれた原稿。ならば、日の目を見てもいいのではないか、と。

 よかれと思っていた。

 ——それが、間違いだった。

 原稿を預かった友人は、自分の上司にそれを渡し、さらにいくつかの広告代理店を通して回していったらしい。だが、気づけば、所在は不明になった。

 どこへ渡ったのか。誰が読んでいるのか。

 そして、その数か月後だった。

 小説の通りに事件が起きた。

 心底、血の気が引いた。

 細部までは覚えていなかったが、全体の筋は明確だった。そして、その通りに事が運んでいた。

 何よりも決定的だったのは——ターゲットが神崎ほのかだった。

 それは、まさしく勇の原稿に記された内容と一致していた。

 その瞬間、確信に変わった。これは偶然なんかじゃない。

 あの小説を模倣している誰かがいる。

 慌てて、あの日の友人たちに連絡を取った。

「どうする?」

「止められるのか?」

 焦りと動揺の中で、話し合いは二転三転した。だが、すぐに限界に気づいた。

 原稿が、もう手元にない。

 何を書いていたのか、完全に記憶しているわけじゃない。断片的なイメージはある。だが、それでは止めようがない。

 仮に警察に話したとして、何ができるというのか。

「友人が書いた小説にそっくりなんです」——それだけだ。

 どうやって? なぜ今? なぜ止めなかった?

 こっちが問い詰められるだけだ。そんな、理屈にならない話になるのは目に見えていた。

「だからこそ……『汚染のオフコート』」

 遠山が慎重に問いかけると、木村は、重く黙したまま、ゆっくりとうなずいた。

「ええ。勇が“当事者のインコート”なら、こちらは“部外者のオフコート”というわけです。パロディ作品を、急ごしらえで書きました。『汚染のオフコート』というタイトルで。目的はただ一つ——犯行計画を暴くこと。……ただ、それでも、限界があったんです」

 木村は小さく息を吐き、そして続けた。

「我々が『汚染のインコート』を読んだのは、一度きり。酒の席でした。記憶は曖昧で、完全じゃない。最初こそ、皆で相談し、なんとなく勇の文体や構成を模倣できていた気がしました。でも、進めるにつれて、細部が崩れ、展開が怪しくなっていく。自信が正直持てなくなった。……それでも出すしかなかった。それでも、出さないよりかはマシかと」

「……でも、それでは」遠山が口を開いた。

「模倣にしかならない。中途半端な」

「ええ。まさにその通りです」木村は悔しげに首を振った。

「しかも、あまりにも似すぎてしまうと、それはそれで、こちらが“犯行に関わっている”と疑われかねない。どこまで真似て、どこから逃れるか……線引きが難しすぎた」

 沈黙が落ちる。

「結局、“オフコート”は中途半端なまま。ネットでは少し話題になっただけです。じゃあ、別の手段を……と考えても、今の自分の職業的に、警察へ直接相談するのはリスクが高すぎる。そこで——」

「……リーグの方に繋いだと」

 遠山が補足するように言うと、木村はうなずいた。

「ええ。向谷さんに送ったんです。あの人なら、まだ……常識が通じると思ったから。僕たちの中でも、彼女だけは、バランス感覚があると、客観的に調べ、感じていました。今のリーグ関係者の中には……確か月島さんでしたっけ? あたかも、この事件を煽り立てるような動きをしている人間が多くて」

「そうですね……」

 遠山の表情が、少し険しくなる。

 思考が、一気に加速する。点と点が繋がり、一本の線になっていく感覚——。

 なるほど。だから、あの演出プランは異様に完成度が高かった。

 佐々木が前事務所で見せてくれた、広告代理店が用意したやつ。あれは最初から、単なるエンタメではなく、原典となった何か——つまり、『汚染のインコート』の存在を前提に書かれていたのだ。

 だとすれば、話は早い。

 全ての出発点は、神崎勇の小説。そして、それを利用しようとした誰か。

「……ですが」遠山はゆっくりと問いかけた。

「最終的に“それ”にゴーサインを出したのは、誰か分かりませんよね?」

 木村は、一瞬、口を閉ざした。

 その表情に、ためらいとも恐れともつかない影が走る。

「……それが、分からないんです。そもそも僕が渡したのは、友人です。そこからは本当に不明で、その友人すら分かっていません。誰が広げて、誰が動かして、どこで止まったのか……。そもそも誰がそもそも読みたがっていたのか。友人の上司すら、人から頼まれていたようで、その人も別の人から言われたそうです」

 部屋の空気が、重くなる。

 空調の音すら耳障りに感じられるほどだった。

「木村さん……」

 佐々木が、おそるおそる口を開いた。

「ちなみに、“殺人”って……起きるんですか?」

 木村は、またゆっくりと頷いた。

「はい。……起こる“はず”です」

「……はず?」

 佐々木が聞き返すと、木村は申し訳なさそうに眉を寄せた。

「記憶が曖昧なんです。当時一度読んだだけですから。でも……たしか、数人が殺される内容だったと……」

「数人?!」

 佐々木の声が思わず跳ね上がった。遠山も目を見開く。

「はい。たしか、選手が複数。そして……観客も、巻き込まれる形で」

「まじか……」

 遠山が深くため息をつく。

 最悪の展開だ。もはやただの模倣では済まない。テロに近い。

 木村が、必死の眼差しを向けてくる。

「遠山さん。だからこそ、試合を止めて欲しいんです」

「……木村さん」

 遠山はしばらく言葉を探し、それから絞るように言った。

「それは……もう厳しいです」

「なぜですか。私がこれだけ説明したのに……!」

「……もっと早ければ、可能性はありました。神崎勇の原稿がどこに渡ったか分かっていれば、事前に手を打てた。でも、今は状況が進み過ぎている。残り、もう実質二日です。もう厳しい……。あなたも宮仕えなら、分かるでしょう? 試合直前で、中止すれば混乱は避けられません。もちろん向谷には伝えます。対策はします。でも、全てを止めるのは……難しい」

「……そうですか……」

 木村は、深く頭を垂れた。

 その肩が、静かに震えていた。

 佐々木が、ふと姿勢を正して訊ねた。

「でも……やっぱり、小説と実際の事件って、少しずつ違ってきてるんですよね?」

 それはずっと胸の奥で燻っていた疑問だった。筋書き通りなら、すでに最悪の結末を迎えていてもおかしくない。だが、現実はまだ――。

「ええ、そうです。たしかに、完全な再現ではありません」

 木村が小さくうなずいた。

「その“違い”って、どのあたりなんでしょうか?」

 今度は遠山が質問を挟む。目は木村の動きを逃すまいと鋭く光っていた。

「まず……そもそもですが、今のリーグの“月島さん”のような存在、作中には登場しません」

「月島……ですか」

 遠山が頷く。

「ええ。あのような役者っぽいリーグ側の人間です。それに、今回の事件の背後に見え隠れしているような“警備会社”や“クラウドファンディング”のような要素も、小説にはなかったと記憶しています。あくまで、もっとシンプルでした」

 木村は言葉を探しながら、過去の記憶に深く潜っていくようだった。

「そして、何より……最初の襲撃事件。あれは本来、“死亡”しているはずなんです」

「え?」

 佐々木の顔がわずかに強張る。

「小説の中では、最初に襲われた選手は殺されます。そして、事件のクライマックスでは――」

 木村は一瞬、言い淀む。喉が詰まったように、言葉が出てこなかった。

「……勇の実の姉。つまり、神崎ほのかさんが狙われる筋立てでした。最終的に、彼女が“殺されかける”という展開だったと記憶しています」

「でも、ほのかさんは……」

「はい。生きています。最初の事件でも“亡くなっていない”。それが大きな違いです」

 遠山は、静かに頷いた。

 その仕草とは裏腹に、脳内では情報の海が激しく回転し、今までのことを整理し始めていた。

 まず、見えているのは「表層」だ。

 月島の背後に誰かがいる。今回の会話で、それがほぼ確定した。その人物が、神崎勇の書いた『汚染のインコート』を巧妙に利用。目的は二つ。リーグの話題作りと、スポンサー企業――特に筆頭の生命保険会社を中心とした企業の株価操作だ。

 この「プロジェクト」に連動する形で、生命保険の営業部長が動いた。月島をリーグ内に滑り込ませ、広告代理店との接点を整える。演出として“フィクションを現実に”変える布石も、恐らくその段階で始まっていた。

 だが――木村の証言が正しければ、ここに一点、齟齬がある。

『汚染のインコート』の“原作通り”であれば、神崎ほのかは最初の襲撃で命を落とすはずだった。ところが、現実には生きている。

 これは明らかな“修正”だ。

 ……ということは、彼らは原作に忠実な再現ではなく、意図的に改変しているということになる。

 だが――それが本当なら、おかしな点が出てくる。

 なぜ“最初のターゲット”が神崎ほのかだったのか?

 前にも考えた。

 “話題作り”が目的なら、日本代表クラスを狙った方がはるかに効果が高い。例えば、引退したとはいえ、前田早苗の方が知名度もネームバリューも段違いだ。

 それでも、なぜ神崎ほのかにこだわった?

 そこに、犯人側の“感情”が混じっているのではないか?

 遠山の思考が、さらに加速する。

 そしてもう一つ――決定的な“ズレ”がある。

 事件当日。

 リーグ関係者や主要スポンサー、チームスタッフは、都内のホテルで会合中だった。

 だが、その場に月島や生命保険の営業部長の姿はなかった。

 これが奇妙だ。

 もし彼らが犯行を仕掛けた側であれば、事件が起こる日にその場にいないのは不自然。

 万が一、誰かが真相に近づいた時、その場にいた証拠(=アリバイ)を示すことが防御になる。

 逆に「その場にいなかった」という事実は、疑いを呼び込むリスクにもなる。

 さらに、事件の後、サクラの刑事が“単独で”事務所に現れた。

 あれも不思議だった。

 咄嗟に派遣されたようには見えず、明らかに“筋書きに沿った演技”ができていた。正直、見破れなかった。

 でも、もし月島たちが裏で仕掛けていたのなら、あの刑事の登場には“フォロー”があったはず。なのに、あの場には月島たちはいなかった。サポートゼロで演技を成功させるのは、かなり危険な賭けだ。

 ――となると。

 この事件、もしかすると、計画通りに進んでいない可能性があるのではないか?

 しかし、その可能性を打ち消すものもある。

 今の月島たちは、まるで“すべてを掌握している”かのような態度を崩していない。

 余裕すら漂わせている。

 それはつまり、何かが狂ったとしても、それすら想定内なのか。あるいは、まだ真の狙いが別にあるのか。

「遠山さん?」

 佐々木の声が、思考の海に沈んでいた意識を引き戻した。

 ふと顔を上げると、木村の表情が目に入る。さきほどまでの沈鬱さは完全に消えてはいなかったが、それでもどこか、肩の力が抜けたような安堵の色が滲んでいた。

 ああ、話せてよかったんだな。

 そう思ったが、それは言葉にしなかった。

「他に……お伝えしておきたいことは、ありますか?」

 形式的な問いだった。

 社交辞令半分、念のため半分。だが木村は、小さく首を横に振ると、「お願いします」とだけ呟き、静かに立ち上がった。

 それは誰に対する「お願い」だったのか。

 リーグか、自分か、あるいは神崎勇か。

 それを尋ねることはできなかった。

 扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。

 隣の佐々木が、何か言いたげにこちらを見ている。

 けれど、遠山はその視線に応えなかった。

 あえて何も聞かない。今は、そういう時間だった。

 静かに息を吸い、椅子にもたれかかる。

 木村の話は、ある意味で爆弾だった。けれど、すべてを壊すような爆発ではない。むしろ、霧の中に一筋の光を差すような――いや、何かの“編集点”を示す、目印のような話だった。

 現実という名の物語の、ページがまた、一枚めくられたような気がした。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?