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第10話

「遠山理一を、総務部へ転属とする」

 会議室に響いたその言葉は、唐突で、しかし予想の範囲内でもあった。

 それを告げた月島の声音は、やけに愉快そうで、わざとらしい芝居がかった抑揚がついている。

 理事たちの数人が、半ば儀礼的に、半ば面白がるように、「まあ頑張れよ」「やったな」と軽く拍手を送る。

 遠山は立ち上がり、無言で一礼した。内心では呆れていた。

 ――なんて茶番だ。

 この場には、冷たい損得しか存在していない。

 この人事に正当性もなければ、驚きもない。

 自分の価値や正しさを訴える気にもなれず、遠山はそのまま会議室の扉に向かおうとした。

 ――どうでもいい。

 今はもう、それだけだった。

 事件の真相。それだけが、彼をまだ前に進ませていた。

 が、その瞬間。

「――待て」

 背後から、静かだが重みのある声が飛ぶ。

 振り返ると、声の主は向谷理事だった。

 向谷奏。

 日本バスケットボール界の生ける伝説。

 現役時代には女子日本代表として、二十年ぶりのオリンピック出場を実現させた。

 その実績と人格から、今もなお理事会内で絶大な影響力を持つ。

 年齢はおそらく六十代――だが、誰よりも背筋が伸びていた。

「月島さん、その件については、理事会として再考の余地があると、私は思う」

 会議室内に微妙な空気が漂う。

 月島が眉をひそめた。

 それでも、にこやかな仮面は崩さない。

「向谷理事、決定事項に対する異議ですか? これは事前に協議され、承認された案件ですが」

「“協議”ではない。事前に“通知”された案件だ」

 向谷奏の声は静かだった。しかし、その言葉には鋭い刃があった。

 その瞬間、場の空気が凍りつく。

 月島の目が、微かに細くなる。

「月島さん。なぜ遠山さんが総務なの?」

 真っ直ぐに投げかけられたその問いは、単なる確認ではなかった。

 遠山自身が、思わず息を飲んだ。

 理事たちのほとんどは、月島の掌の上に乗っている。

 だが、向谷は違った。

 バスケットボールという競技に人生を捧げ、正しいプレーが勝利を呼ぶことを信じてきた人間。

 遠山は彼女と深く話した記憶こそないが、その姿勢には一貫した尊敬の念を抱いていた。

 今回の事件で、月島が独断で動き回る中、遠山は各チームの現場に足を運び、選手やスタッフに頭を下げ、地道に意見を拾い上げてきた。

 試合実施の是非を問うのではなく、「何をすれば選手たちが少しでも安心できるか」を探し続けた。

 そのことを、向谷は見ていたのかもしれない。口に出さずとも。

「向谷さん、何か気になることはありますか?」

 月島はあくまで穏やかな口調だった。

 微笑みすら浮かべている。

 一見、余裕の構え――だが、それが“演技”であることを、向谷奏にははっきりと見えていた。

 目の奥に、揺れているのだ。焦りの影が。

 むしろ、見せないようにすればするほど、その匂いは濃くなる。

「月島さん。あなたは、今、広報部に所属していますね」

「ええ。ですが、現在は田島会長と大野局長の“大命”により、特別統括本部長の役職にも就いています」

 月島はやや誇らしげにそう答えた。

 広報部長代行でありながら、緊急対応の“トップ”にもなっている――その立場の高さを強調する言い回しだった。

「それは“事件対応のための特設組織”として、ですよね?」

 向谷の口調は淡々としていた。

 しかし、その言葉は一本の杭のように月島の足元を打ちつけた。

「もちろんです。非常時対応の枠組みとして設けられたものです」

「では、お聞きします」

 向谷は背筋をすっと伸ばした。

 会議室の空気が、わずかに引き締まった。

「なぜ、“広報部所属”であり、かつ“非常設の対策本部長”に過ぎないあなたが、人事異動を指示できるのですか?」

 静かながら、揺るぎのない問い。

 会議室にいる理事たちの表情が一斉に強張る。

 月島の笑みが、一瞬で凍った。

 口元は微笑を保ったまま、だがその奥の目が、動揺を隠せていない。

「それは……明白です」

 少しだけ、語尾に迷いがあった。でも、その不安をかき消すように語り出す。それもやたら長々と。

「遠山さんは、今回の事件に際し、現場を回り、選手への丁寧な聞き取りを行っていたのは事実です。そこは私も評価します。しかし一方で、彼は“無観客試合”という極端な選択肢を示唆し、外部メディアやスポンサーに不安を与えかねない対応をしました」

 理事の何人かが顔を見合わせた。

「今回、我々リーグは事件の余波を受けながらも、ファンやスポンサーの信頼を保ちつつ、試合を実施するという難しい判断を迫られています。そうした局面で、“広報部”に求められるのは、慎重かつ一枚岩のメッセージ発信です。しかし遠山さんはその統一性を乱した。危機管理意識において、ややズレがあると私は判断しています」

 さらに月島は続ける。

「ですので、遠山さんを一旦、現場との直接の連携が少ない“総務部”に配置し直し、冷却期間を置いてもらいたいと考えました。これは処分ではなく、組織全体の機能を正常に保つための、調整的措置です」

「黙らっしゃい!」

 雷鳴のような声が、会議室に轟いた。

 誰もが思わず息を止めた。

 重々しい静寂が、会議室を包み込む。

 その声を発したのは、他でもない向谷奏だった。

 普段は冷静沈着な彼女が、ここまで感情を露わにしたのは――記憶にない。

 月島の唇が、乾いたようにわずかに開いたまま動かない。

 何か言い返そうとするも、言葉が出てこない。

 会議室の空気がぴんと張りつめていた。

 向谷が口を開いたのは、月島の“もっともらしい理由”を聞いた直後だった。

「何事にも、リスクヘッジは必要です。しかし、最終的に“何を優先するか”は、我々リーグの理念に照らせば自ずと見えてくるでしょう」

 静かな口調だったが、言葉は鋭かった。

「月島さん。あなたは、その“理念”を言えますか?」

 月島が眉をひそめた。少し間を置いて、答える。

「……バスケットボールを通じて多彩な力を結集させ、元気・感動・勇気を届け、笑顔あふれる社会に貢献する、ですね」

「よろしい。ではお聞きします。仮に、今回のような事件の中で、観客の安全が保障できない状況で試合を強行したとしましょう」

 向谷の声に、温度が加わっていく。

「確かに、試合を開催すれば“経済効果”は出るでしょう。話題になるでしょう。スポンサーの顔も立ちます。しかし、もしその最中に、第二の被害者が出たら?」

 会議室の空気が、さらに沈んだ。

「もちろん、“損失”というものは、無観客であれ有観客であれ、必ず発生します。それは単なる収支の話です。ですが——我々が本当に恐れるべきなのは、数字ではなく、“理念が損なわれること”です。

 我々は、ただの金儲けのためにバスケットボールをしているわけではありません。リーグを運営しているのも、数字のためではない。選手は“商品”ではありません。試合は“イベント”ではない。選手には人生があり、夢があり、そして命があります。彼女たちを守れない組織に、競技の未来など託せない。

 仮に“経済的な成功”だけを追うのならば、それはもはや“スポーツ”とは呼べない。選手の価値を、パフォーマンスの数字や動員数でしか測らないのだとしたら、それは“興行”であって、競技ではない。“理念”があるからこそ、我々は応援される。“理念”があるからこそ、あるべき試合の理想を追える。だからそれを見て、子ども達もこうなりたいと憧れる。理念なきリーグなど、ただの看板です。薄っぺらい空洞です。

 そして最後に。最も重い“損失”とは、ファンの信頼を裏切り、選手たちの誇りを傷つけることです。その傷は、数字では換算できません。取り戻すのに何年もかかる。いや、二度と戻らないこともある。特に物理的に治せないんですよ……その覚悟があるのですか?」

 月島は黙って聞いていた。

「もし、あなたが今後“開催を強行することで得た利益”を正当化するなら、その裏で起きたことすべてに責任を負う覚悟があると、ここで明言してください」

 短い沈黙のあと、月島はわずかに顎を引いて、答えた。

「……ええ。もちろん、責任は取ります」

「そうですか。分かりました」

 向谷は、椅子からゆっくりと立ち上がった。

「では、遠山さん。試合当日までは、これまで通り広報部にいてください。最後までやり抜きなさい。その後、総務部へ異動。それは私、向谷奏の正式な人事命令です。特別本部長ではなく、正式に人事権を持つ、理事会の人事担当としての判断です」

 月島の頬がわずかに引きつった。

「以上。今日の定例会はこれで終わりにしてください。遠山さん、あなたは少し残りなさい」

 月島が憮然とした顔で退出する。

 続いて理事たちが口々に軽く挨拶を交わし、部屋を出ていく。重たい沈黙が戻ったのは、それからだった。

 静かにドアが閉まり、会議室に残ったのは、向谷と遠山だけ。

「……すみません。助かりました」

 遠山が小さく頭を下げた。姿勢は真っすぐだったが、声には明らかな疲労が滲んでいる。「謝る必要はありませんよ。全く、バカバカしい話です」

 向谷は苦笑しながら言った。椅子に深く腰を下ろし、顎に手を当てたまま天井を見上げる。

「……今回の件ですか」

「いや、事件自体は深刻です。そこは誤解しないでほしい。選手やスタッフだけじゃない。観客にまで被害が及ぶ可能性があるのなら、それは最も重く、最も優先すべきリスクです。だが――」

 言いかけて、少し間を置く。

「その大前提があるにもかかわらず、あの会議でやっていたのは何ですか? 自分の立場と影響力を拡大するための人事とマウント取りばかり。まるで政争ごっこです」

 吐き捨てるような口調になったが、すぐに静かな声音に戻る。

「私はね、遠山さん。こういうときにこそ、“組織の器”が出ると思ってる。だからこそ、あなたがあの中で一人だけ、選手や現場の声を聞こうとしていた姿勢に、私は希望を感じました。……いや、まだ、希望を託せると、そう思っています」

「……恐縮です」

 遠山は再び頭を下げる。その礼はさっきよりも深く、声はわずかに震えていた。

「別に誉めているわけじゃないです。事実を言ってるだけ。君がすべきことは、感謝じゃない。答えを見つけることです」

「……はい」

「で? 何か分かった?」

 向谷の声が、少しだけ低くなった。

「君がただ暇つぶしに現場を嗅ぎ回っていたとは思っていない。そういう男じゃない。何か――掴んでるんでしょう?」

「お気づきでしたか」

「何年、君を見てきたと思っているの。こういう非常時こそ、黙って耐えることができないのが、君です。自分に何もできないと感じることが、いちばん堪える性分」

 遠山はふっと、短く笑った。

「……ええ。さすがです。嘘をついても仕方がないので、はっきり申し上げます。今回の件、月島が何らかの形で関わっている可能性が高いと見ています」

「証拠は?」

 即答だった。問いは短く、鋭く、容赦がなかった。

「……いえ。今のところ、決定的な証拠は掴めていません。あくまでも状況証拠にすぎません」

「……話にならないね」

 向谷はすぐに立ち上がり、背中を向けたまま窓の外を見た。雨がガラスを細く叩いていた。無言の時間が、数秒続く。

「でも――」

 遠山が口を開く。向谷は振り返らない。

「“でも”?」

「まず月島という身内の人名に驚かず、さらに証拠を尋ねてきたということは……理事ご自身にも、思い当たる節があるのではないですか?」

 わずかな沈黙ののち、向谷は肩をすくめるようにして振り返った。苦笑混じりの表情だったが、その目は決して笑っていなかった。

「……まったく。そういうところは、よく考えが及ぶくせに、社交辞令とか建前のやりとりは本当に苦手ですね」

 向谷は、遠山を見据えて微かに笑った。

「だからこそ、民間企業では向いていなかったんです」

 遠山は苦笑しながらも頷いた。

「ふふ、まあいいわ。私も様々な現場をいくつか回ってみましたが、おそらく月島は黒でしょうね。あの人だけじゃない。スポンサーの一部もグレーどころか、黒に近い。あまりにもガサツで、雑すぎる作戦よ」

「そう思いますか?」

「これ、見たことある?」

 向谷はそう言って、分厚いファイルの中から一枚のレポートを取り出した。

「株価ですか?」

「そう。最近のうちの主要スポンサーの株価推移よ。そして、月島が契約した警備会社のもの」

 遠山はレポートを覗き込み、眉をひそめた。

「……あからさまですね」

「株価を不当に吊り上げようとしている。これは普通に罪になるわ。なのに、本人たちはばれないと信じ切っている。馬鹿げているわ。数字だけを追いかけて倫理観が欠如しているのよ。ルールの中なら、どんな手段でも許されると思い込んでいる。でも、そのルールすら、まともに把握していないの。どうせすぐに漏れるでしょうね。キャバクラかどこかで自慢話して、あっという間に」

 向谷は冷ややかに吐き捨てるように言った。

「でも、問題はそこじゃない」

「そこじゃない?」

 遠山は顔を上げ、向谷の言葉を待った。

「早川って警察官、覚えている?」

「ええ、もちろんです」

「さっき早川から聞いた話だけど、SNSの投稿者とか、秘密裏に逮捕されてるらしいですよ」

「え……?」

「闇バイトの連中だそうです。テレグラム経由で動いているらしいよ。あの事件の日、リーグ事務所に入ってきた刑事も、ホテルで張り込んでいた刑事も、ぶつかった外国人も、みんな闇バイトだそうです」

「そんなこと、全く気づかなかった……」

「ホテルで監視役をしていた刑事が焦ったみたいなんだ。あまりにも派手にぶつかったため、言われた以上に動いてしまった。心配になったんだろうね」

 向谷は薄く笑みを浮かべたが、その目は険しい。

「で、早川たちの推測では、月島たちもその“闇バイト”的な立ち位置なんじゃないか、ってことだ」

「闇バイト……ですか?」

「ニュアンスは違うけど、ようするに今回の騒動のネタは外部から流れ込んできて、それを月島たちが利用しているんだ。話題になることを狙ってね。で、事態がその通りに進んでいるから、月島たちはよほど安心しきっているんだろう」

「最悪ですね……」

「いや、違う。問題は、その黒幕が誰なのかってことです」

 遠山が声を潜めて訊いた。

「警察はどうするつもりなんですか?」

「その特定には時間がかかるそうですね。試合当日まで、もう残り四日。いや、実質三日しかない。だから警察はまだ様子を見ている。静観しているようです」

「ということは……」

「表向きは無観客試合を口にしているけど、犯人を捕まえたいからこのまま見守っているんでしょうね。泳がせて、ぼろが出るのを待つってこと。そうでなければ、この混乱は収まらない」

 向谷の目が鋭く光った。

「月島たちはおそらく、金儲けの話を持ちかけられて動いている。指示に従って動いているだけ。最終的に一番危ないのは選手やスタッフ、そして観客です。それだけは間違いありません」

 向谷は椅子に座ると、ゆっくりと背もたれに体を預けた。薄く唇を結び、目を閉じる。その横顔には、年輪を刻んだだけの重みと、理事としての覚悟が滲んでいた。

 やがて彼女は目を開け、静かに言葉を紡いだ。

「……遠山さん。いいですか。警察は、確実に動いています。早川さんたちは優秀ですし、黒幕の特定も時間の問題でしょう。でも、試合当日までに逮捕までこぎつけるのは──おそらく、難しい」

 彼女の口調は淡々としていたが、そこには確かな重みがあった。

「だから、私は覚悟しています。試合当日に起きる何かと、今の月島の暴走を止められなければ……リーグ理事の私が、責任を取るべきです。辞任は避けられません。けれど、その前に、どうしてもケリをつけたい。せめて、未然に事件を防ぎたい。犯人を、この手で引きずり出しておきたいのです」

 向谷は机の上の指を、ぎゅっと握った。

「私はね。今後の日本の女子バスケに──いえ、場合によっては日本のバスケそのものに、禍根を残すようなことはしたくない。こんな事件で、人々の記憶に“バスケの暗黒時代”を刻まれるなんて、あってはならないことです。だから、残りわずかの時間ですが……必死に動いてください、遠山さん」

 遠山は目を伏せた。そこに込められた想いの強さに、返す言葉をすぐには見つけられなかった。

「……お気持ちは、痛いほど分かります。でも……それでも、今のところ、決定打となるヒントが……」

 その時、向谷がふっと苦笑した。歳月が刻んだ目尻の皺が、やや深くなる。

「神崎勇の小説でしょうね」

「え?」

「神崎ほのかに、新潟経由でヒアリングしたけど……彼女はまだまともに話せる状態じゃないです。母親は既に他界していて、事情を知る者はいない。唯一のヒントは、公開されている“あのパチモノ”──あの小説、読んでみたけど、まったくひどい。幼稚で支離滅裂。お世辞にも文学とは言えない。だけど……」

「……ヒントにはなります。内容自体に、何か“意図”がある気がして」

「うん。私もそう思っています。だからこそ──その投稿者本人が、こっちのリーグに、直接、手紙を送ってきたんです」

「えっ、本当ですか!?」

 思わず前のめりになった遠山の目が見開かれる。向谷はため息まじりに目を細めた。

「まあ、いいわ。それより、これを見て」

「……手書き、ですね」

「そう。私宛に届いた。封は開けたけど、まだ誰にも見せていない。他の理事たちも、この存在すら知らない。遠山さん。私の代わりに、この差出人に会いに行って。真実を確かめてきて」

 封筒の端には、細い筆跡で書かれたペンネームのような名前と、簡単な差出人住所だけが記されていた。奇妙に思えるほど整った文字。その静かな佇まいに、逆に不気味な意図がにじんでいるようにも見えた。

 遠山が封筒に指をかけようとした瞬間、向谷が表情を引き締めて言った。

「気をつけて。月島に邪魔されちゃだめよ。それと──警察に知られてもいけない」

「……どうしてですか? 彼らも犯人を追っているのでは?」

「もちろん、犯人逮捕を目指してはいる。でもね、それ以外は、どうでもいいと考えている節があるの。事件が解決すれば、選手が何人倒れようと、試合が台無しになろうと構わない。極端な話、次に何かが起きるまで泳がせておいた方が、証拠も揃いやすいし、逮捕も確実だってね」

「……」

「私が聞いた限り、警視庁の中でも、色々と水面下で綱引きをしているらしいの。特に話題の事件だし、誰の手柄にするかってことよ。だから現場で判断が遅れる。すぐ動いてくれるとは限らない」

 向谷の目が、ぐっと鋭くなる。

「いい? ここからは、時間との勝負よ。何が起きているのか、何が起きようとしているのか、あなた自身の目で、早く状況を掴んで。選手たちを、守りなさい」

 その瞳の奥に、一瞬だけ揺れるものがあった。後悔──消せない過去の記憶。

「羽田の……前田選手を守れなかったときみたいなのは、もう無しよ」

 その名を聞いた瞬間、遠山の中に、はっきりと感情が目を覚ました。

 ケガを抱えていた前田早苗は、それでもコートに立ち続けようとしていた。チームの期待、エースとしての責任感、リーグの年間MVP。周囲もその姿勢に安心して、任せてしまった──それが、結果として選手生命を絶たせることになった。

 あのとき、何もできなかった自分。誰よりも近くにいたのに、守れなかった悔しさ。叫びたいほどの後悔。今でも夜、ふとした瞬間に胸を突く記憶。

 だからこそ、今度は──。

 遠山は静かに手紙を受け取り、視線をしっかりと上げて向谷を見据えた。そして、深く一礼する。

「……必ず、守ります」


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