駅のホームに、夕暮れの光が差し込んでいた。
低くなった陽の角度が、アスファルトをオレンジに染め、時間の流れをやんわりと告げている。
遠山は、ふと気がついた。今日は、昼を食べていなかった。
横を見ると、佐々木が売店のショーケースをじっと見つめていた。
並んでいるのは、丸政の駅弁。天むすに、高原野菜のお弁当に、元気甲斐という謎弁当。見ているだけで、空腹が増すようだ。
「……腹、減ったか?」
遠山が笑うと、佐々木ははっとして目をそらした。
だが次の瞬間には、期待を隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「買ってやるよ。今日は、付き合わせちまったしな」
「いいんですかっ!?」
目を輝かせる佐々木の反応に、遠山は苦笑した。
確かに今日は強引だった。彼女を連れてこなければ、毀滅との会話もなかったかもしれない。小さな感謝の気持ちを込めて、名物の「山賊焼き弁当」を一つ、手に取った。
ほんのり湯気がこもった包みを受け取ると、佐々木は子どものようにはしゃいだ。
風に乗って、甘辛いにんにく醤油の香りが漂ってくる。
冷たいホームの空気と相まって、その香りが一層食欲を刺激した。
「でも……いいんですか?」
「何が? 弁当か?」
「あ、それもありますが……、古木選手に会わなくていいんですか?」
佐々木は弁当を抱えたまま、少しだけ真顔になる。
さっきまで毀滅が言っていたように、もう少しすれば選手たちが学校から戻ってくるらしい。
遠山は一瞬、視線を遠くにやった。ホームの端から、あずさの接近を知らせるアナウンスが響く。
「まあ、彼女にいきなり会っても、教えてくれるとは思えない。チームスタッフが知らない話を、初対面のうちらには話さないだろう。それに……」
「それに?」
「こういう話をするには……やっぱタイミングが悪いな。先に戻ってきたスタッフの方も、疲労感あったな。今は皆、ナーバスになってるだろう。やはり、特に選手とは、距離を取っておいた方がいいかもね」
どこか寂しげに、遠山は言った。
人と人の距離は、近すぎても、届かないことがある。
そのとき、線路の向こうから、ゆっくりと特急あずさが滑り込んできた。
車体が風を運び、ホームの空気が一気に揺れる。
その風に吹かれた瞬間、遠山は自分が少し疲れていることを自覚した。
心のどこかで、重い扉が軋むような感覚。
ポケットのスマートフォンが震えた。
画面には「事務所」の文字。
遠山は、短く息を吐いて通話ボタンを押した。
「……はい」
「遠山さんですか?」
すぐに聞こえてきたのは、今一番聞きたくない声だった。
「……はい」
「お元気なさそうですね?」
「何かご用でしょう。そちらはお忙しいでしょうに」
抑えたつもりの声が、自然ととげを帯びる。
相手の月島は、それがむしろ嬉しいのか、あっけらかんと笑った。
「あはは。まあまあですね。遠山さんの“自分探しの旅”を気にかける余裕くらいはありますよ」
「……あなたね」
「そんなことより、あなた――何か聞きましたか?」
「何を、ですか」
「キングビートルズの件ですよ。毀滅っていう変なスタッフ、会ったでしょ?」
「……ええ、会いました」
「で、何を聞いた?」
「だから……何を、ですか?」
一拍の沈黙。
「……まあ、いっか」
その中途半端な余韻に、遠山の苛立ちがわずかに膨らんだ。
「月島さん。その訳の分からない確認のためだけに電話してきたんですか?」
ちょうどそのとき、ホームに特急あずさが滑り込んできた。
ドアが開き、スーツケースを引く人々や観光客が、一斉に出口へと流れていく。
「とんでもない」
月島の声が、ひときわ明るくなる。
「さっき決まったばかりなんですよ」
「何が、です?」
「あなたの“処遇”です」
一瞬、遠山の指先に冷たい風が吹き抜けた気がした。
「……私の、ですか」
「ええ。今のあなたの“内省と放浪”に、事務所としてお金を出し続ける理由があるか、議論しましてね」
「……それで?」
「結論は、今夜の定例会で発表されます。楽しみにしていてくださいね。それじゃ、でわ♪」
あっけなく通話が切れる。
スマホをしまうと、佐々木が不安そうにこちらを見ていた。
口には出さないが、彼女の視線は「大丈夫ですか」と言っていた。
遠山は小さく笑い、軽く手を振った。
「――遅れるな」
そう言って、特急の車内に乗り込む。
席に着いた途端、佐々木は待ってましたとばかりに、身を乗り出してきた。
「今の……」
「――聞こえていた?」
少しの間を置いて、佐々木は首を横に振った。
「……いいえ」
けれど、その表情がすべてを物語っていた。
「本当にいいんですか、それで」
その問いは、思った以上にまっすぐだった。
遠山は、わずかに目を伏せる。
「……いや、それを決めるのは、俺じゃない。上の判断だ。それに……」
言葉を続けようとするが、途中で喉が詰まる。
遠山は苦虫を噛み潰したような表情で、うっすらと唇を噛んだ。
「……今、俺たちの持っているカードじゃ、どうやっても――月島には勝てない」
「でも……」
佐々木は何か言いかけたが、言葉にならなかった。
その不満げな顔を見て、遠山はあえて視線を外した。
今は、ぶつけ合う時ではない。
「――気にするな。それでも、この事件は、最後までやる。あと四日だ」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
佐々木は頷きながらも、納得はしていない。眉間の皺が消えないままだ。
だから、遠山は無理に話題を変えることにした。
「で、問題は……やっぱり“あの小説”だな」
「……はい」
渋々といった様子で、佐々木がスマートフォンを取り出す。
不満そうな表情は崩さないが、親指はしっかりと画面を操作している。
「たしか、タイトルは……」
「『汚染のインコート』」
遠山が口にすると、佐々木も「あ、そうだ」と声を上げ、検索欄に文字を打ち込む。
数秒の沈黙のあと、画面にページの履歴が浮かび上がる。
「……あった。これだ!」
佐々木が小さく声を上げ、画面をタップする。
だが――思った通りだった。
表示されたページには、無情な文字列が並んでいた。
『この作品は、投稿者により削除されました』
「……まあ、だろうな」
遠山が呟く。
肩の力が、ほんのわずかに抜けたようだった。
「でも、毀滅さんが言っていた、あの最近流行ってるネット小説と似てるとか……あれ、なんなんですかね?」
佐々木の疑問に、遠山は無言のままスマートフォンを取り出した。
既に一応調べてはいた。
数枚のスクリーンショットを表示し、その一枚を指で拡大する。
「これ、見てみろ」
佐々木が画面を覗き込む。
すぐに「あっ」と短く声を漏らした。
「このタイトル……」
「『汚染のオフコート』。事件が起きた直後、SNSの一部で話題になった。『似ている小説がある』ってな。最初は偶然だと思っていたが、毀滅さんの話を聞いて、確信に変わった」
「確信?」
「ああ。これは――神崎勇が書いていた『汚染のインコート』と、何らかの形でつながっている。あるいは、模倣されたものかもしれない」
佐々木がスマホを持ったまま眉をひそめる。
「つまり、パクリですか?」
「断定はできないが、可能性はある。『汚染のインコート』はもう読めない。だからこそ、似た構造を持った『オフコート』に気づいた記者がいた……そう考えれば辻褄は合う」
「野良の記者って、毀滅さんが言ってた人ですよね」
「おそらくは。所属も名乗らずに連絡してきたって話だしな。独自に嗅ぎつけた情報に飛びついたんだろう」
電車の揺れがしばし沈黙を満たす。
遠山が画面をスワイプしながら、静かに続ける。
「だが――話題になった、『汚染のオフコート』は未完だ。しかも、実際の事件といくつか相違点もある。基本的にはリーグの刷新を狙い、SNSで犯行声明を出すところは同じ。そして、八百長を求めるところもだ。
だが、この作品の舞台はWリーグじゃなくてBリーグ。犯人も一人の現役選手で、その選手がリーグスタッフに次々と手を下していくストーリーになっている」
「じゃあ……今回の事件とは全く違いますよね? だって、実際に狙われてるのは……選手たちのほうですし」
佐々木の声には、戸惑いと苛立ちが混ざっていた。
遠山は苦い顔で頷く。
「そうだ。だからあくまでも似ている程度の話。話題と言っても、万バズまではいっていない。無理やりくっつけようとすれば、くっつけられる程度だ。
だが、神崎勇の話を聞いたら、全く事態は変わる。相違点があったとしても、大筋でどこか重なっているのではないか。だからこそ、気味が悪い」
「んー……なんか、頭がおかしくなってきそうですね……」
佐々木がスマホを手に眉間を揉む。その様子を見て、遠山もシートの背もたれに身を沈めた。窓の外では、夕暮れの光が山並みに長く影を落としている。
もし神崎勇の未発表小説に沿った事件が、現実に起きているのだとしたら――誰が、何のために?
メリットはあるのか。目的は、復讐か、あるいは模倣か。
仮に、月島がすべての黒幕だとしても、彼が神崎勇の“消えた”小説を持っているというのは、あまりに不自然だ。
さらに不可解なのは、『汚染のオフコート』と題された、よく似てはいるが完全には一致しない、未完のネット小説が存在するという事実だ。
模倣犯の手がかりか? あるいは陽動か――
流石の遠山も、思考が徐々に濁っていくのを感じていた。
「……まあ、ネット小説の件については、警察側もすでに把握している」
「え?」
佐々木が顔を上げる。
遠山はポケットからスマホを取り出し、確認するように画面をひと撫でする。
「早川さんにも情報は共有済みだ」
「早川さん……あの、遠山さんが新潟の病院で会った刑事さんですよね?」
「ああ。あの時は名乗らず、説明もせず、唐突に電話をかけてくる謎の刑事。俺が外されてからは、連絡はほとんどなくなったがな。けど、こっちが何かを掴むと、なぜかタイミングよく連絡をよこす。まったく、付き合いづらい男だ」
「……ふふっ」
佐々木が、つい笑ってしまった。
長引く事件、曖昧な証拠、失われた小説――。
混迷を極める状況のなかで、わずかにこぼれる笑いが、かえって人間らしく感じられる。
考えたところで、今の手札では見えてこないこともある。
現実とフィクションが交錯するパズルに、無理やり答えを当てはめるわけにはいかない。
特急は静かに動き出す。
甲府の駅をあとにして、都へと向かうレールを滑るように走っていく。
遠山は黙って窓の外に目を向けた。
このままでは終われない――その思いだけを、胸の奥に残して。