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第9話

 駅のホームに、夕暮れの光が差し込んでいた。

 低くなった陽の角度が、アスファルトをオレンジに染め、時間の流れをやんわりと告げている。

 遠山は、ふと気がついた。今日は、昼を食べていなかった。

 横を見ると、佐々木が売店のショーケースをじっと見つめていた。

 並んでいるのは、丸政の駅弁。天むすに、高原野菜のお弁当に、元気甲斐という謎弁当。見ているだけで、空腹が増すようだ。

「……腹、減ったか?」

 遠山が笑うと、佐々木ははっとして目をそらした。

 だが次の瞬間には、期待を隠しきれない笑みが浮かんでいた。

「買ってやるよ。今日は、付き合わせちまったしな」

「いいんですかっ!?」

 目を輝かせる佐々木の反応に、遠山は苦笑した。

 確かに今日は強引だった。彼女を連れてこなければ、毀滅との会話もなかったかもしれない。小さな感謝の気持ちを込めて、名物の「山賊焼き弁当」を一つ、手に取った。

 ほんのり湯気がこもった包みを受け取ると、佐々木は子どものようにはしゃいだ。

 風に乗って、甘辛いにんにく醤油の香りが漂ってくる。

 冷たいホームの空気と相まって、その香りが一層食欲を刺激した。

「でも……いいんですか?」

「何が? 弁当か?」

「あ、それもありますが……、古木選手に会わなくていいんですか?」

 佐々木は弁当を抱えたまま、少しだけ真顔になる。

 さっきまで毀滅が言っていたように、もう少しすれば選手たちが学校から戻ってくるらしい。

 遠山は一瞬、視線を遠くにやった。ホームの端から、あずさの接近を知らせるアナウンスが響く。

「まあ、彼女にいきなり会っても、教えてくれるとは思えない。チームスタッフが知らない話を、初対面のうちらには話さないだろう。それに……」

「それに?」

「こういう話をするには……やっぱタイミングが悪いな。先に戻ってきたスタッフの方も、疲労感あったな。今は皆、ナーバスになってるだろう。やはり、特に選手とは、距離を取っておいた方がいいかもね」

 どこか寂しげに、遠山は言った。

 人と人の距離は、近すぎても、届かないことがある。

 そのとき、線路の向こうから、ゆっくりと特急あずさが滑り込んできた。

 車体が風を運び、ホームの空気が一気に揺れる。

 その風に吹かれた瞬間、遠山は自分が少し疲れていることを自覚した。

 心のどこかで、重い扉が軋むような感覚。

 ポケットのスマートフォンが震えた。

 画面には「事務所」の文字。

 遠山は、短く息を吐いて通話ボタンを押した。

「……はい」

「遠山さんですか?」

 すぐに聞こえてきたのは、今一番聞きたくない声だった。

「……はい」

「お元気なさそうですね?」

「何かご用でしょう。そちらはお忙しいでしょうに」

 抑えたつもりの声が、自然ととげを帯びる。

 相手の月島は、それがむしろ嬉しいのか、あっけらかんと笑った。

「あはは。まあまあですね。遠山さんの“自分探しの旅”を気にかける余裕くらいはありますよ」

「……あなたね」

「そんなことより、あなた――何か聞きましたか?」

「何を、ですか」

「キングビートルズの件ですよ。毀滅っていう変なスタッフ、会ったでしょ?」

「……ええ、会いました」

「で、何を聞いた?」

「だから……何を、ですか?」

 一拍の沈黙。

「……まあ、いっか」

 その中途半端な余韻に、遠山の苛立ちがわずかに膨らんだ。

「月島さん。その訳の分からない確認のためだけに電話してきたんですか?」

 ちょうどそのとき、ホームに特急あずさが滑り込んできた。

 ドアが開き、スーツケースを引く人々や観光客が、一斉に出口へと流れていく。

「とんでもない」

 月島の声が、ひときわ明るくなる。

「さっき決まったばかりなんですよ」

「何が、です?」

「あなたの“処遇”です」

 一瞬、遠山の指先に冷たい風が吹き抜けた気がした。

「……私の、ですか」

「ええ。今のあなたの“内省と放浪”に、事務所としてお金を出し続ける理由があるか、議論しましてね」

「……それで?」

「結論は、今夜の定例会で発表されます。楽しみにしていてくださいね。それじゃ、でわ♪」

 あっけなく通話が切れる。

 スマホをしまうと、佐々木が不安そうにこちらを見ていた。

 口には出さないが、彼女の視線は「大丈夫ですか」と言っていた。

 遠山は小さく笑い、軽く手を振った。

「――遅れるな」

 そう言って、特急の車内に乗り込む。

 席に着いた途端、佐々木は待ってましたとばかりに、身を乗り出してきた。

「今の……」

「――聞こえていた?」

 少しの間を置いて、佐々木は首を横に振った。

「……いいえ」

 けれど、その表情がすべてを物語っていた。

「本当にいいんですか、それで」

 その問いは、思った以上にまっすぐだった。

 遠山は、わずかに目を伏せる。

「……いや、それを決めるのは、俺じゃない。上の判断だ。それに……」

 言葉を続けようとするが、途中で喉が詰まる。

 遠山は苦虫を噛み潰したような表情で、うっすらと唇を噛んだ。

「……今、俺たちの持っているカードじゃ、どうやっても――月島には勝てない」

「でも……」

 佐々木は何か言いかけたが、言葉にならなかった。

 その不満げな顔を見て、遠山はあえて視線を外した。

 今は、ぶつけ合う時ではない。

「――気にするな。それでも、この事件は、最後までやる。あと四日だ」

 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。

 佐々木は頷きながらも、納得はしていない。眉間の皺が消えないままだ。

 だから、遠山は無理に話題を変えることにした。

「で、問題は……やっぱり“あの小説”だな」

「……はい」

 渋々といった様子で、佐々木がスマートフォンを取り出す。

 不満そうな表情は崩さないが、親指はしっかりと画面を操作している。

「たしか、タイトルは……」

「『汚染のインコート』」

 遠山が口にすると、佐々木も「あ、そうだ」と声を上げ、検索欄に文字を打ち込む。

 数秒の沈黙のあと、画面にページの履歴が浮かび上がる。

「……あった。これだ!」

 佐々木が小さく声を上げ、画面をタップする。

 だが――思った通りだった。

 表示されたページには、無情な文字列が並んでいた。

『この作品は、投稿者により削除されました』

「……まあ、だろうな」

 遠山が呟く。

 肩の力が、ほんのわずかに抜けたようだった。

「でも、毀滅さんが言っていた、あの最近流行ってるネット小説と似てるとか……あれ、なんなんですかね?」

 佐々木の疑問に、遠山は無言のままスマートフォンを取り出した。

 既に一応調べてはいた。

 数枚のスクリーンショットを表示し、その一枚を指で拡大する。

「これ、見てみろ」

 佐々木が画面を覗き込む。

 すぐに「あっ」と短く声を漏らした。

「このタイトル……」

「『汚染のオフコート』。事件が起きた直後、SNSの一部で話題になった。『似ている小説がある』ってな。最初は偶然だと思っていたが、毀滅さんの話を聞いて、確信に変わった」

「確信?」

「ああ。これは――神崎勇が書いていた『汚染のインコート』と、何らかの形でつながっている。あるいは、模倣されたものかもしれない」

 佐々木がスマホを持ったまま眉をひそめる。

「つまり、パクリですか?」

「断定はできないが、可能性はある。『汚染のインコート』はもう読めない。だからこそ、似た構造を持った『オフコート』に気づいた記者がいた……そう考えれば辻褄は合う」

「野良の記者って、毀滅さんが言ってた人ですよね」

「おそらくは。所属も名乗らずに連絡してきたって話だしな。独自に嗅ぎつけた情報に飛びついたんだろう」

 電車の揺れがしばし沈黙を満たす。

 遠山が画面をスワイプしながら、静かに続ける。

「だが――話題になった、『汚染のオフコート』は未完だ。しかも、実際の事件といくつか相違点もある。基本的にはリーグの刷新を狙い、SNSで犯行声明を出すところは同じ。そして、八百長を求めるところもだ。

 だが、この作品の舞台はWリーグじゃなくてBリーグ。犯人も一人の現役選手で、その選手がリーグスタッフに次々と手を下していくストーリーになっている」

「じゃあ……今回の事件とは全く違いますよね? だって、実際に狙われてるのは……選手たちのほうですし」

 佐々木の声には、戸惑いと苛立ちが混ざっていた。

 遠山は苦い顔で頷く。

「そうだ。だからあくまでも似ている程度の話。話題と言っても、万バズまではいっていない。無理やりくっつけようとすれば、くっつけられる程度だ。

 だが、神崎勇の話を聞いたら、全く事態は変わる。相違点があったとしても、大筋でどこか重なっているのではないか。だからこそ、気味が悪い」

「んー……なんか、頭がおかしくなってきそうですね……」

 佐々木がスマホを手に眉間を揉む。その様子を見て、遠山もシートの背もたれに身を沈めた。窓の外では、夕暮れの光が山並みに長く影を落としている。

 もし神崎勇の未発表小説に沿った事件が、現実に起きているのだとしたら――誰が、何のために?

 メリットはあるのか。目的は、復讐か、あるいは模倣か。

 仮に、月島がすべての黒幕だとしても、彼が神崎勇の“消えた”小説を持っているというのは、あまりに不自然だ。

 さらに不可解なのは、『汚染のオフコート』と題された、よく似てはいるが完全には一致しない、未完のネット小説が存在するという事実だ。

 模倣犯の手がかりか? あるいは陽動か――

 流石の遠山も、思考が徐々に濁っていくのを感じていた。

「……まあ、ネット小説の件については、警察側もすでに把握している」

「え?」

 佐々木が顔を上げる。

 遠山はポケットからスマホを取り出し、確認するように画面をひと撫でする。

「早川さんにも情報は共有済みだ」

「早川さん……あの、遠山さんが新潟の病院で会った刑事さんですよね?」

「ああ。あの時は名乗らず、説明もせず、唐突に電話をかけてくる謎の刑事。俺が外されてからは、連絡はほとんどなくなったがな。けど、こっちが何かを掴むと、なぜかタイミングよく連絡をよこす。まったく、付き合いづらい男だ」

「……ふふっ」

 佐々木が、つい笑ってしまった。

 長引く事件、曖昧な証拠、失われた小説――。

 混迷を極める状況のなかで、わずかにこぼれる笑いが、かえって人間らしく感じられる。

 考えたところで、今の手札では見えてこないこともある。

 現実とフィクションが交錯するパズルに、無理やり答えを当てはめるわけにはいかない。

 特急は静かに動き出す。

 甲府の駅をあとにして、都へと向かうレールを滑るように走っていく。

 遠山は黙って窓の外に目を向けた。

 このままでは終われない――その思いだけを、胸の奥に残して。


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