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第8話

 神崎ほのかが都内の大学に進学したのは、特待生としての推薦によるものだった。

 その輝かしい道のりに、どこか救いを見たのかもしれない。母と弟と三人、北の都を離れ、東京に移り住むことになった。

 家計が楽だったわけではない。だが、それ以上に――家族にとって、神崎ほのかのバスケは、未来への希望だった。

 暗い日々を一筋の光で照らすように、彼女の活躍は確かにあった。

 高校時代、ウインターカップでの鮮烈なデビュー。あの一戦で名を馳せ、技術も心も一気に開花した。

 同級生たちの証言では「成長曲線が一人だけ違っていた」という。突如現れた新星。その名に恥じぬ活躍を大学時代も続け、ついには山梨ビートルズへの入団を果たした。

 しかし、その入団が、一つの軋轢を生むことになる。

 山梨に拠点を移すと聞き、母は当然のように言った。「私たちも引っ越そう」と。

 娘を支えたい、そばにいたい――母親として自然な感情だった。だが、その判断が、家族のもう一人を苦しめた。

 弟、神崎勇。当時高校二年生。

 ようやく東京の生活に慣れ、サッカー部でも中心選手になりつつあった。

 都内の大学進学を目標に、成績も維持してきた。なのに突然、母の決定で見知らぬ土地へ転校することになる。

 何もかもが失われた。

 仲間も、目標も、日々の景色も。新しいクラスには友人もおらず、山梨での生活に馴染むには、もう遅すぎた。

 そのまま決定権は無く、山梨の大学に進学し、気づけば姉のプロ二年目のシーズンを、どこか遠巻きに見つめるようになっていた。

 では、彼は姉を恨んでいたのだろうか。

 ――それが、簡単には言い切れない。

 神崎勇は、神崎ほのかを慕っていた。

 たった一人の姉であり、憧れの存在だった。あのウインターカップのコートを、すぐ隣で見上げていた。彼もサッカーをしていたからこそ、アスリートとしても、どこか誇りに思っていたのだろう。

 だが、その憧れにすがるほど、自分の人生は脇道へと追いやられていった。

 北海道を離れ、サッカーを諦め、東京をようやく受け入れた矢先に、また別の選択を迫られる。

 何もかもが、“姉のため”だった。

 それが、ただひたすらに、悲しかった。

 その複雑な感情を忘れようとするかのように、神崎勇は、自室に閉じこもった。

 その中で、彼が唯一、心を注げたものがあった。――小説だった。

 家族に、姉に、憎しみを抱いていたわけではない。

 だが、自分の人生が狂ってしまったという事実は、否応なく胸に突き刺さっていた。

 いったい、何がいけなかったのか。

 神崎勇は考えた。何度も、何度も。

 だが、優しかった彼には、人間に対して怒りを向けることができなかった。

 どうしても人を憎むには、ピュア過ぎた。

 そうして思考の迷路を彷徨った末、たどり着いた一つの答え。

 ――バスケットボールが、悪いんだ。

 姉を変えてしまったもの。

 家族の運命を狂わせたもの。

 自分を、孤独へと導いたもの。

 その憎しみを、彼は文字に刻みつけていった。まるで熱にうなされるように、病的なまでの集中力で、原稿用紙に言葉を叩きつけた。

 作品の名は『汚職のインコート』。

 それは、現在のバスケットボール界を精緻に分析し、その根幹から崩壊させる――シミュレーション小説だった。

 大学で学んだ経営知識や法律、社会構造への理解をフルに活かし、リーグの脆弱性や政治的な綻びを論理的に突き、どうすれば“劇的に潰せるか”を描いていた。

 だが、それは単なる空想では終わらなかった。

 彼は、その物語を“計画”として実行しようとしたのだ。

 頼りにしたのは、東京時代の旧友たちだった。

 進学校で共に学び、今や警視庁や中央官庁を目指す優秀な人間たち。

 久々の再会に笑顔を交わしながら、神崎勇は彼らにその“小説”を差し出した。

「読んでほしい」と。

 友人たちは、沈黙した。

 そして、拒否した。

 あまりに危険すぎる。現実と虚構の境界が、あの明るかった同級生から消えている。

 彼らの目に映ったのは、かつての神崎勇ではなかった。

 ただの犯罪予備軍であった。

 それに対して、裏切られたと感じた勇は、彼らと絶交した。

 そして、孤独の中でさらに深く、沈んでいった。


 最期は、本当に突然だった。

 人に頼らず、何か新しい手立てはないか。

 その“作品”をネットの小説投稿掲示板にアップし、その反響から新しい作戦を考えていた矢先のことだった。

 久しぶりの外出中、飲酒運転の車に撥ねられ、即死。

 まるで神が、その手を止めたかのように――。

 彼の死後、姉・神崎ほのかはひどく打ちひしがれたという。

 弟の遺品のPCから、小説と、その設計図のようなファイルが見つかったのだ。

 内容は、バスケそのものを徹底的に憎むものだった。

 神崎ほのかは、自分がどれだけ“自分のため”にバスケをしていたかに気づいた。

 そして、どれだけ身近な存在の痛みに、目を向けていなかったかに。

 それが、何よりも彼女を打ちのめした。

 最終的に、家族は神崎勇の遺した小説を、ネットの投稿サイトから削除した。

 葬儀のあと、母と姉が何日もかけて管理者と連絡を取り合い、ログを消してもらったのだという。

 神崎ほのかは、それ以降、何も語らなかった。

 だが、彼女のプレースタイルは、明らかに変わった。

 試合中は、まるで“忘れた”かのように、躍動した。

 荒々しく、攻撃的に、徹底的に。

 だが、日常のどこかに、いつも影があった。

 ふとした拍子に、どこかで何かを背負っているような、沈黙の気配が纏わりついていた。

「だからこそ、我々は心機一転も含め、彼女を新潟に移籍させました。新潟側も事情を理解してくれましたし、何より才能ある選手を潰すのは勿体ない。私が知っているのは、そのくらいです……」

 語り終えた毀滅は、ふう、と深く息をついた。

 気づけば、午後の二時をとうに回っていた。

 遠山と佐々木は、しばらく言葉を失っていた。

 静寂の中に、重苦しい空気だけが流れていた。

「……そうですか」

 ようやく発した遠山の声には、どこか乾いた響きがあった。

 彼にとって、それはあまりに皮肉な話だった。

 自分は、バスケットという競技に出会ったことで、生き方を見つけ、道を拓いた。

 だが、神崎勇は――同じバスケによって、全てを失った。いや、実際はどうなのかは分からないが、恨んでしまった。それが、ただ悲しく、そして虚しかった。

「ちなみに……」

 佐々木が、おずおずと口を開いた。場違いな自覚があるのだろう。だが、どうしても抑えられなかったのだ。純粋な、しかし残酷なまでの好奇心が。

「その小説って、どんな話だったんでしょうか……? どうやって、リーグを壊すって……?」

 毀滅は、やや困ったように苦笑いを浮かべた。

「いやいやいや、私どもも、そこまでは知りませんよ」

 と、肩をすくめる。

「今日お話ししたのも、神崎選手に何度かヒアリングする中で、ぽつぽつと語られた内容です。ごく限られた人しか知らない話で、小説の原稿自体、もう存在しないかもしれません。あ、でも……ああ、そういえば」

 そこでふと、何かを思い出したように、毀滅はスマートフォンを取り出した。

「最近、それについて聞いてきた記者がいたんです。確か……どこの社かは名乗らなかったな。いきなり電話をかけてきてね」

「記者……ですか?」

 遠山の声に、微かな警戒の色が混じった。

「ええ。“神崎選手の弟が書いた小説は、本当に消されたのか”って。なんでも、最近ネットで話題になってる小説が、その内容にそっくりだって言うんですよ」

 遠山と佐々木は、顔を見合わせた。

 毀滅は、小さく首をすくめるように続けた。

「うちとしては、もう神崎選手は新潟に移籍されましたし、情報も少ないので“直接、新潟か、神崎選手に尋ねてください”とだけ伝えておきました。……でも、正直、気味が悪かったですよ。あの記者の声、なんだか、ぞっとするほど冷たくてね」

 そう言いながらも、毀滅の表情には、寂しさがにじんでいた。

 その寂しさが何に由来するものか、遠山には、なんとなく分かる気がした。


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