神崎ほのかが都内の大学に進学したのは、特待生としての推薦によるものだった。
その輝かしい道のりに、どこか救いを見たのかもしれない。母と弟と三人、北の都を離れ、東京に移り住むことになった。
家計が楽だったわけではない。だが、それ以上に――家族にとって、神崎ほのかのバスケは、未来への希望だった。
暗い日々を一筋の光で照らすように、彼女の活躍は確かにあった。
高校時代、ウインターカップでの鮮烈なデビュー。あの一戦で名を馳せ、技術も心も一気に開花した。
同級生たちの証言では「成長曲線が一人だけ違っていた」という。突如現れた新星。その名に恥じぬ活躍を大学時代も続け、ついには山梨ビートルズへの入団を果たした。
しかし、その入団が、一つの軋轢を生むことになる。
山梨に拠点を移すと聞き、母は当然のように言った。「私たちも引っ越そう」と。
娘を支えたい、そばにいたい――母親として自然な感情だった。だが、その判断が、家族のもう一人を苦しめた。
弟、神崎勇。当時高校二年生。
ようやく東京の生活に慣れ、サッカー部でも中心選手になりつつあった。
都内の大学進学を目標に、成績も維持してきた。なのに突然、母の決定で見知らぬ土地へ転校することになる。
何もかもが失われた。
仲間も、目標も、日々の景色も。新しいクラスには友人もおらず、山梨での生活に馴染むには、もう遅すぎた。
そのまま決定権は無く、山梨の大学に進学し、気づけば姉のプロ二年目のシーズンを、どこか遠巻きに見つめるようになっていた。
では、彼は姉を恨んでいたのだろうか。
――それが、簡単には言い切れない。
神崎勇は、神崎ほのかを慕っていた。
たった一人の姉であり、憧れの存在だった。あのウインターカップのコートを、すぐ隣で見上げていた。彼もサッカーをしていたからこそ、アスリートとしても、どこか誇りに思っていたのだろう。
だが、その憧れにすがるほど、自分の人生は脇道へと追いやられていった。
北海道を離れ、サッカーを諦め、東京をようやく受け入れた矢先に、また別の選択を迫られる。
何もかもが、“姉のため”だった。
それが、ただひたすらに、悲しかった。
その複雑な感情を忘れようとするかのように、神崎勇は、自室に閉じこもった。
その中で、彼が唯一、心を注げたものがあった。――小説だった。
家族に、姉に、憎しみを抱いていたわけではない。
だが、自分の人生が狂ってしまったという事実は、否応なく胸に突き刺さっていた。
いったい、何がいけなかったのか。
神崎勇は考えた。何度も、何度も。
だが、優しかった彼には、人間に対して怒りを向けることができなかった。
どうしても人を憎むには、ピュア過ぎた。
そうして思考の迷路を彷徨った末、たどり着いた一つの答え。
――バスケットボールが、悪いんだ。
姉を変えてしまったもの。
家族の運命を狂わせたもの。
自分を、孤独へと導いたもの。
その憎しみを、彼は文字に刻みつけていった。まるで熱にうなされるように、病的なまでの集中力で、原稿用紙に言葉を叩きつけた。
作品の名は『汚職のインコート』。
それは、現在のバスケットボール界を精緻に分析し、その根幹から崩壊させる――シミュレーション小説だった。
大学で学んだ経営知識や法律、社会構造への理解をフルに活かし、リーグの脆弱性や政治的な綻びを論理的に突き、どうすれば“劇的に潰せるか”を描いていた。
だが、それは単なる空想では終わらなかった。
彼は、その物語を“計画”として実行しようとしたのだ。
頼りにしたのは、東京時代の旧友たちだった。
進学校で共に学び、今や警視庁や中央官庁を目指す優秀な人間たち。
久々の再会に笑顔を交わしながら、神崎勇は彼らにその“小説”を差し出した。
「読んでほしい」と。
友人たちは、沈黙した。
そして、拒否した。
あまりに危険すぎる。現実と虚構の境界が、あの明るかった同級生から消えている。
彼らの目に映ったのは、かつての神崎勇ではなかった。
ただの犯罪予備軍であった。
それに対して、裏切られたと感じた勇は、彼らと絶交した。
そして、孤独の中でさらに深く、沈んでいった。
最期は、本当に突然だった。
人に頼らず、何か新しい手立てはないか。
その“作品”をネットの小説投稿掲示板にアップし、その反響から新しい作戦を考えていた矢先のことだった。
久しぶりの外出中、飲酒運転の車に撥ねられ、即死。
まるで神が、その手を止めたかのように――。
彼の死後、姉・神崎ほのかはひどく打ちひしがれたという。
弟の遺品のPCから、小説と、その設計図のようなファイルが見つかったのだ。
内容は、バスケそのものを徹底的に憎むものだった。
神崎ほのかは、自分がどれだけ“自分のため”にバスケをしていたかに気づいた。
そして、どれだけ身近な存在の痛みに、目を向けていなかったかに。
それが、何よりも彼女を打ちのめした。
最終的に、家族は神崎勇の遺した小説を、ネットの投稿サイトから削除した。
葬儀のあと、母と姉が何日もかけて管理者と連絡を取り合い、ログを消してもらったのだという。
神崎ほのかは、それ以降、何も語らなかった。
だが、彼女のプレースタイルは、明らかに変わった。
試合中は、まるで“忘れた”かのように、躍動した。
荒々しく、攻撃的に、徹底的に。
だが、日常のどこかに、いつも影があった。
ふとした拍子に、どこかで何かを背負っているような、沈黙の気配が纏わりついていた。
「だからこそ、我々は心機一転も含め、彼女を新潟に移籍させました。新潟側も事情を理解してくれましたし、何より才能ある選手を潰すのは勿体ない。私が知っているのは、そのくらいです……」
語り終えた毀滅は、ふう、と深く息をついた。
気づけば、午後の二時をとうに回っていた。
遠山と佐々木は、しばらく言葉を失っていた。
静寂の中に、重苦しい空気だけが流れていた。
「……そうですか」
ようやく発した遠山の声には、どこか乾いた響きがあった。
彼にとって、それはあまりに皮肉な話だった。
自分は、バスケットという競技に出会ったことで、生き方を見つけ、道を拓いた。
だが、神崎勇は――同じバスケによって、全てを失った。いや、実際はどうなのかは分からないが、恨んでしまった。それが、ただ悲しく、そして虚しかった。
「ちなみに……」
佐々木が、おずおずと口を開いた。場違いな自覚があるのだろう。だが、どうしても抑えられなかったのだ。純粋な、しかし残酷なまでの好奇心が。
「その小説って、どんな話だったんでしょうか……? どうやって、リーグを壊すって……?」
毀滅は、やや困ったように苦笑いを浮かべた。
「いやいやいや、私どもも、そこまでは知りませんよ」
と、肩をすくめる。
「今日お話ししたのも、神崎選手に何度かヒアリングする中で、ぽつぽつと語られた内容です。ごく限られた人しか知らない話で、小説の原稿自体、もう存在しないかもしれません。あ、でも……ああ、そういえば」
そこでふと、何かを思い出したように、毀滅はスマートフォンを取り出した。
「最近、それについて聞いてきた記者がいたんです。確か……どこの社かは名乗らなかったな。いきなり電話をかけてきてね」
「記者……ですか?」
遠山の声に、微かな警戒の色が混じった。
「ええ。“神崎選手の弟が書いた小説は、本当に消されたのか”って。なんでも、最近ネットで話題になってる小説が、その内容にそっくりだって言うんですよ」
遠山と佐々木は、顔を見合わせた。
毀滅は、小さく首をすくめるように続けた。
「うちとしては、もう神崎選手は新潟に移籍されましたし、情報も少ないので“直接、新潟か、神崎選手に尋ねてください”とだけ伝えておきました。……でも、正直、気味が悪かったですよ。あの記者の声、なんだか、ぞっとするほど冷たくてね」
そう言いながらも、毀滅の表情には、寂しさがにじんでいた。
その寂しさが何に由来するものか、遠山には、なんとなく分かる気がした。