お昼前、特急かいじに揺られて甲府に着いた。
車内では佐々木が、ノートパソコンに向かって黙々と作業を続けていた。Excelの表に数字を打ち込み、メールをいくつも送信していくその姿には、まるで休息の余白がなかった。
遠山は何度か「もうやめとけ」と声をかけたが、その度に佐々木は、にこりと笑ってこう返す。
「それでも、今の自分にできることですから」
その笑顔は、不思議な温かさと切実さを帯びていて、遠山は結局それ以上何も言えなかった。
窓の外に目をやる。三月の光を浴びた富士山が、まだ白い雪をいただいたまま、悠然と構えていた。
陽の角度のせいか、その白が眩しく輝いて見えた。
車窓が広がるたび、自然が濃くなっていく。ぶどう畑が波のように続き、その合間に点在する農家の赤い屋根が、どこか懐かしさを誘う。
やがて、石垣だけが残る城跡が遠くに見えた瞬間、特急かいじは静かにその足を止めた。
「おい、佐々木。行こうか」
二人は改札を抜け、甲府駅南口のエスカレーターを降りる。
眼前にはまっすぐに伸びる平和通り。その名とは裏腹に、どこか雑多で、時代の層を重ねたまま眠っているような街並みだ。
風に揺れる看板、日に焼けたショーウィンドウ、そして昭和のまま時間が止まったような古びたビル。
その四階に、山梨キングビートルズの事務所があった。
まだ練習時間には早いのか、事務所はひっそりとしていた。
佐々木が声をかける。
「すみません。リーグの者ですが」
返事はない。薄暗い事務所に、声が虚しく反響する。
「すーみーまーせーん!」
その声に呼応するように、奥のドアがゆっくりと開いた。
現れたのは、ジャージ姿の中年男性だった。
髪の毛は薄くなっていたが、それ以上にその表情からは、活力というものが抜け落ちていた。
「あ、あの……どちら様でしょうか?」
現れた男は目をしばたたかせ、戸惑いを隠せない様子だった。
「すみません。リーグの遠山と言います。こちらは広報担当の佐々木です」
「佐々木です。どうも」
佐々木が一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。その姿に、男は「あ……ああ」と声を漏らした。何かに気づいたような顔つき。そして、その目に一瞬だけ浮かんだもの――驚きより、どこか含みのある色。
「ああ、なるほど。あなたが……」
その言葉尻に、微かに引っかかるものがあった。おそらく、良くない噂や偏見が、すでにどこかで流れているのだろう。だが、遠山にとって、それをいちいち気にしている余裕はなかった。
「ええ、そうですけど。それが何か?」
「いえ、いや……何でもありません。それで、ご用件は?」
言葉を濁した男に対し、遠山は少しだけ間を取って答える。
「前日に、そちらの広報の方に連絡は差し上げていますが……」
「あ……あ! はいはい。そうでした、ええ。あっ、思い出しました。たしか、チームの状況を確認されるとか……そんなご予定でしたよね?」
曖昧に笑いながら言うその態度に、遠山はわずかな不安を覚えた。
佐々木もまた、その場の空気に微妙な違和感を感じ取ったのだろう。ちらりと遠山に視線を送る。その目には「この人で大丈夫でしょうか?」という言葉が透けていた。
だが遠山は、あえてその視線を無視した。今は、人を疑っている場合ではない。進めるべき話がある。
「ええ。では、いきなりで失礼ですが――どうして、こんなに誰もいないんですか?」
「あ、いえ。その……」
「何か、問題でも?」
「いやいや、決してそういう訳ではなくてですね……ええと、実はですね、一部の選手たちとスタッフが、今、小学校の方にチャリティーで伺っておりまして」
「……は?」
思わず口から漏れた一言に、男は「ひっ」と肩をすくめた。驚いたような、怯えたような目で遠山を見つめる。
佐々木が小さく溜息をつき、遠山の方へ目線を送った。
(遠山さん……さすがに、今のは……)
その視線に促されるように、遠山は一度だけ大きく息を吐き、男の方へ向き直る。
「すみません……。それでもチャリティーですか。こんなシーズン終盤に?」
「ええ。まあ、その……」
男性は言葉を選ぶように口ごもる。
「まさか、週末の事件があったからって、今更“売名”のようなことを……」
「ち、違います! そもそも、これは選手発案の話でして!」
「え!」
突然の語気の強さと共に、その事実に遠山は驚く。
男性の目は、怯えながらも必死だった。
「そうですか……」
わずかにトーンを落とした遠山に、男は観念したように苦笑し、「立ちっぱなしも何ですし」と手近な応接席を指し示す。
佐々木がそっと遠山に目配せし、二人で腰を下ろすと、男は「少しお待ちください」と小走りに奥へ引っ込んでいった。
「遠山さん」
佐々木が声をかけてくる。真顔だが、その目にはどこかからかいの色が滲んでいた。
「……なに?」
「ちょっと、敏感すぎです」
「……ごめん」
遠山の素直な謝罪に、佐々木は一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと口元をゆるめた。
そして、いたずらを仕掛けた子どものように、唇の端を持ち上げる。
――どや顔。
明らかに「してやったり」の表情である。
遠山が呆れたように眉をひそめるのをよそに、佐々木は黙ってその顔をキープしている。
うるさい。とにかく表情がうるさい。こういうところが、佐々木の悪いところではある。が……。
「あはは……」
戻ってきた男が、佐々木の顔を見た瞬間、堪えきれずに吹き出した。
「すみません、佐々木さんって……愉快な方ですね」
目線を向けると、男性が持つお盆には、湯呑みと素朴なお茶菓子。そして、その脇に控えめに重ねられた数枚のファイル。
不意に、遠山は諸々のせいで、少しばかり恐縮した。
「すみません……」
「いえいえ。こういう時だからこそ、そういう元気な方がいてくれるのは、ありがたいです」
「ほんとうですか?」
佐々木の目がぱっと明るくなる。
素直すぎる――それが彼女の長所であり、短所でもある。相手を疑わない。褒められればすぐ心を許す。ノウハウも実力もあるのに、いつももう一歩、抜け出せない。遠山はそんな彼女の“惜しさ”を、もどかしく感じる。
「本当ですよ。……というか、私、自己紹介がまだでしたね。毀滅と申します」
「ええっ!? “きめつ”さん!? かっこいい名前ですね!」
「でしょう〜」
そのやり取りで、遠山はようやく確信する。――この男、毀滅もまた、佐々木と同類だ。
どこか抜けていて、人懐っこく、空気をほぐすことにかけては天性の何かを持っている。そして……シンプルにうるさいタイプ。
「てか、毀滅さん。この黒いお菓子って……」
「ああ、“くろ玉”って言うんです。山梨の名物なんですよ。甘くて、うまいですよ」
「やったー!」
二人はまるで旧知の友人か、女子会のノリのようにきゃっきゃと盛り上がり始める。こういうタイプは放置すると、銀河の彼方まで行ってしまう。止めてやるのも、一般人として生まれた我々の義務だろう。
遠山はわざとらしく、深く咳払いをした。
――ゴホンッ。
さすがに空気を読んだのか、二人は揃って「すみません」と言いながら顔を引き締め……ようとしながらも、どこか照れ笑いを浮かべていた。いたずらがばれた子どものような顔。
遠山は内心、ため息をつきながらも、声を落ち着けて切り出す。
「では、毀滅さん。――さっきの件ですが」
「はい。まあ、これなんですが」
毀滅はファイルを開き、一枚の紙を差し出した。
そこには、丸くたどたどしい文字で書かれた手紙。小学生――おそらく低学年のものだろう。字は不揃いで、ところどころ漢字もひらがなに変わっていたが、その拙さが逆に、子どものまっすぐな気持ちを真っすぐに伝えていた。
「今回の件について……地元の小学生から、手紙が届いたんです。“ぜったいにはんにんにまけないで。わたしもまけない。だから、がんばって!”って。わざわざ、この事務所宛に」
遠山は黙って手紙を見つめた。
ひとつひとつの文字が、まるで鉛筆で必死に書かれたように、力強く、でもどこか不安げだった。
「で、学校に確認したところですね。この子はもともとうちのチームの熱心なファンで……それだけじゃなくて」
「それだけじゃなくて?」
佐々木が首を傾げた。毀滅は言葉を選ぶように、少し口を噤む。そして低く、しかしはっきりと言った。
「……あまり大声では言えませんが。被害者のご家族でもあるそうで」
空気が、ふっと冷えた。
佐々木はその意味がすぐには呑み込めなかったようだ。
けれど遠山は、毀滅の言わんとすることをおおよそ推測していた。
おそらく学校側から、信頼のもとで内々に伝えられたのだろう。毀滅自身も、それ以上を語らない。
被害者――つまり、犯罪被害者の家族ってことか。おそらく、きょうだいか、あるいは……。
「だからこそ、こちらも……ぐっときましてね」
毀滅は静かに語る。
「最初は招待チケットを渡したいくらいでしたが……。が、事件のせいで、もうチケットは完売。ネットオークションでは、すごい金額で取り引きされているじゃないですか。
で、諦めようと思っていたところ、うちのキャプテン、古木が手紙を読んで……“それなら直接会いに行きたい”って言い出したんですよ。サプライズで学校を訪ねよう、って」
その瞬間、遠山と佐々木は言葉を失った。
胸の奥を、冷たい指でなぞられたような感覚。
でも、それだけではなかった。
今、目の前で語られた、純粋な善意――
それが、月島たちによって仕組まれた"嘘"から生まれたものかもしれないという事実。
誰かのクソみたいな打算が、誰かのピュアな信じる心を呼び起こしている。その構図が、あまりにも残酷で、それゆえに美しく、そして耐えがたかった。
「どうかしました?」
毀滅の問いかけに、遠山はほんの一拍の沈黙を挟んでから、ゆっくりと顔を上げた。
――今、自分たちにできることは何か。
すべてを暴いて真実をぶつけることが、正解とは限らない。
守るべきは、善意そのものかもしれない。
たとえそれが、嘘に根ざしていたとしても――。
「いえ。我々もしっかり、できることをさせていただきます」
静かに、けれど確かな声でそう言うと、遠山は深く頭を下げた。
佐々木もそれに倣うように、小さく頷く。
毀滅は少し驚いたような表情を浮かべ、けれどすぐに、それが嬉しいとでも言うように目を細めた。
「……ありがとうございます」
毀滅の声は穏やかだった。
その温かさが、遠山の胸を締めつける。
優しさが、こんなにも痛いとは――。
佐々木がこちらを見つめていた。言葉にはしないが、戸惑いと、どこか申し訳なさそうな色が混ざっている。
遠山はその視線に気づきながらも、あえて無視した。
「で、でも、すばらしいですね! こういうことって!」
佐々木がわざとらしく声を張る。その高揚はどこか空回りしていて、まるで中学生の学芸会のようだ。
「私もそう思います! 選手が自発的に動くなんて、本当に驚きましたよ」
毀滅はその学芸会レベルの演技を疑わない。同類コンビ。けど、まあいいか。
「もともと古木選手って、リーグの取材でもインタビューしましたけど、もっと淡々としていて、必要なことだけをストイックに行うイメージでしたが……」
「ああ、まあ……そうなんですけど、今回はね……その、やっぱり“事件”が関わってくると……」
毀滅の言葉はどこか歯切れが悪かった。
遠山の中で、警鐘のような違和感が鳴る。
いや、違和感というのだろうか。いや、むしろ、直感に近い。今まで使ってこなかった、何かが閃いた感触がある。
「……事件、ですか?」
つい身を乗り出していた。
毀滅も、佐々木も、その勢いに目を丸くした。
「え、ええ。古木選手にはちょっと、苦い記憶がありまして……なにせ」
毀滅は言い淀みながら、ファイルの奥から一枚の写真を取り出した。
色あせた、キングビートルズの集合写真。明らかに現在のメンバーではないし、ユニフォームも少し古い。撮られたのは数年前だろう。
「えっ……」
佐々木が小さく息を呑む。それよりわずかに早く、遠山もそこに気づいた。
写真の中央。古木選手のすぐ隣で、満面の笑みを浮かべる少女――
それが、今とはまるで別人のように明るい。
まるで、佐々木のような笑顔を浮かべる。
(神崎ほのか……か?)
「そうなんですよ」
毀滅が懐かしむように、けれどどこか噛みしめるような声音で言った。
「神崎選手の弟さんが、数年前のある事件で巻き込まれて……それから、神崎選手は人が変わってしまった。古木選手は、神崎選手の相棒みたいな存在だったでしょう? それを間近で見ていたから、犯罪というものが許せないんでしょうね」