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第6話

 羽田から事務所に戻ると、相変わらずメディアの人だかりはすごかった。しかし、中の様子は明らかに違っていた。人の気配が、ほぼない。

「はあ?」

 遠山は思わず声に出しそうになった。どういうことだ。みんな、どこに行ったのか。

 そんな疑問が頭をよぎった矢先、入り口のドアが静かに開いた。顔見知りが一人入ってきた。広報の佐々木だ。遠山より一歳若いが、バスケットボール好きの女性社員で、名古屋の名門校でバスケをしていた。バスケやリーグ運営に関しては、遠山よりもノウハウがあると自負しているが、あくまでも遠山を立てる姿勢は変わらない。

「佐々木、みんなは?」

 遠山は真っ先に尋ねた。

 佐々木は一瞬言葉を詰まらせた。何とも言えない表情が彼女の顔に浮かぶ。遠山は即座に、いくつかの最悪のシナリオを想定した。しかし心のどこかで、まだ一番悪い事態ではないと願っていた。

「えっと、その……」

 彼女は言葉を選びながら続けた。

「実は、あの演出の件で、今、汐留の方で急遽打ち合わせをしていて……」

「汐留?」

 遠山の脳裏に、一瞬にして広告代理店の名前が浮かぶ。胸の奥で嫌な予感が膨らむ。

「月島か?」

「はい……そうです。月島さんが『こんなところにいたら埒が明かない。メディアもうるさいし、広告代理店さんの会議室を借りて、そこで演出の諸々を決めよう』と言い出しまして」

「ったく、何考えてんだ、あいつは……」

 遠山はその場で近くにあったゴミ箱を蹴飛ばしそうになった。腹の底から怒りが湧き上がる。

 今日もだ。羽田コアラーズの選手たちは、外野の騒ぎなど気に留めることなく練習に励んでいた。アップから細かく、入念に身体をほぐす。しかし時折見せる、どこかあどけない不安の表情に、遠山は胸が痛んだ。

 体育館の外には数人の警察官がいて、地元のサポーターや商店街の人たちもボランティアでパトロールを続けている。あの姿には素直に心を打たれた。

 だというのに、あいつは何をしているんだ。

 それでも、どんなに苛立っても。

「遠山さん、お願いします」

 前田さんの顔が浮かぶ。現状で何もできずにもどかしい自分に、再び焦りが込み上げた。

「遠山さん……」

「……ああ、悪かったな。佐々木に当たっても仕方ないよな」

 遠山は深く息をつき、肩の力を抜いた。

「いえいえ。ただ、もうこれ、めちゃくちゃですよ……」

 佐々木が俯き気味にそう言う。声には困惑と疲れが滲んでいた。

「演出のプランは、もう決まったのか?」

「はい……」

 佐々木は周囲に人がいないことを確認すると、そっと遠山にプリントを差し出した。ざっと目を通すと、その短時間でまとめたとは思えないほど、かなり作り込まれている。異常なほど完成度が高い。

「これ、この短時間で?」

「いや、元々、似たような演出プランがあったようで、広告代理店側から急きょいただいたものです」

「なるほど……」

 プリントを見ながら、佐々木が説明を始める。

「犯人が要求しているマッチングを、当日に急遽やりますって発表。第一試合――三菱と羽田の試合となります。が、内々にそれぞれのチームに対して、これはエキシビションマッチとして、伝えておく。そして第一クオーターのみ試合をさせます」

 佐々木はプリントの一枚目をめくりながら続ける。

「そして第一クオーター中に、客席最前列から男性が飛び込んで、DJブースに入り込みマイクを奪う。そして選手たちに襲いかかる。だけどそこで、月島さんが新しく契約した警備会社のスタッフが飛び込み、その男を取り押さえる」

 遠山の胸が締めつけられる。

「その後、月島さんが前に出て、こう言うんです。『こういう事態になっても、我々は万全の準備をしています。さあ、本当の試合はここからです。会場の皆さん、今日は一緒に選手を応援しましょう!』って」

 遠山は思わず吐き捨てた。

「くそだな……」

 正直、それしか言いようがなかった。

 月島の狙いは分かる。バズることだけを考えている。

 野球の始球式のようなサプライズ演出で、注目を集めてしまおうという魂胆だろう。確かに華やかだが、プロ野球でもこんなひどい演出はないだろう。

「遠山さん、どう思いますか?」

 佐々木が不安そうに問いかける。目が揺れている。

「アウトだろうな……。これ、炎上必至だ」

 遠山は迷いなく答えた。

「ですよね? 私もそう思います」

「そもそも、みんなナーバスになっている状況だ。そんな時に、これをやったら……」

 遠山は言葉を続ける。

「ウケるどころか、リーグとしてのコンプライアンスを疑われるだろう。ましてや襲いかかったその時に、もし本当の犯人が便乗して何かしたらどうする? それに何より、選手たちのことを考えろよ。……もう順位が決まる大事な時期なんだ。一部、二部の入れ替え戦も固まってくる。選手たちは必死に戦っているのに、こんな茶番は耐えられないはずだ」

「でも、もう……」

「もう決定か?」

「はい。それで、皆さん景気づけに飲みに行きましょうって話になってるんです」

「はあ?」

 遠山は思わず声が上ずった。

「演出関連はもう事務スタッフでできるし、何より犯人に打ち勝つ――そのために宴が必要だって。ほら、戦国時代だって戦の前には宴を開いたじゃないかって。しかも一部の理事やスポンサーの皆様も一緒で」

 遠山は苦笑を浮かべた。

「あの人たちには通常の感覚が無いのか。いや、無いからこそ、そうなってるのかもしれないが」

「いえ、正直、理事の何人かはさすがに違和感を感じて遠慮してますよ。どうやら遠山さんみたいに、チームを回って落ち着かせている方もいるとか」

 佐々木は言葉を選びながら続ける。

「でも実質、最終意思決定者を月島さんが抱えてしまっているし、今は月島さんがお財布の紐を握っている……」

 遠山は深いため息をついた。

「もう手立てがないな……」

 すると佐々木が、まっすぐな目でぴしゃりと言い放った。

「そんなこと、遠山さんが言わないで下さい。まだ、まだですよ。遠山さんからそんな言葉、聞きたくないです」

 純粋な彼女の言葉に、遠山は一瞬戸惑った。普段から彼女は、遠山の言葉を、冗談なのか本気なのか、判断ができない。

「ああ……まあ、そうだな。でも本当に手はあるのか?」

「いや、思ったんですけど……」

 佐々木は少し時計を気にしたように目を泳がせた。遠山はじっと待つ。

「そもそも、試合までにはまだ時間がありますよね?」

「まあ、そうだな。時間は少ないけど。あと五日しかない」

「なら、その前にさっさと犯人を見つけてしまえばいいんじゃないですか?」

「おま……まあ、そうだけど、それは……」

 遠山の胸の中でもその考えは巡っていた。

 今の混乱、スポンサーや月島の暴走は、この事件が引き金になっている。事件がなければ、政権交代も起きなかっただろうし、こんな苦労もなかったはずだ。ならば、事件そのものを解決してしまえば安全が戻る。何より、月島が仕掛けようとしていることも瓦解するだろう。犯人を捕まえた後で、あの演出をしても意味がない。

 そんな思考のなかで、ふと遠山は手元の書類から目を上げた。

「ん……あれ?」

 遠山がぼんやりと声を漏らした。

「遠山さん、どうしました?」

「……」

 遠山はしばらく言葉を詰まらせた。

「あの……」

「……」

「おーい、遠山さん?」

 佐々木が少し戸惑いながら声をかける。

「佐々木、ちょっと聞きたいんだが、どう思う?」

「え? 何がですか?」

「月島の態度、どう感じる?」

 佐々木は眉をひそめて答えた。

「どうって…まあ、横柄というか、まるで天下を取ったかのような振る舞いですね。キャバクラではしゃぐ、おじって感じで」

 遠山は首を振る。

「そうじゃないんだ。なぜ、あいつは焦っていないんだ?」

「焦っていないですか?」

「そうだ。おかしいんだ、これがすごく変なんだ」

 佐々木は戸惑いを隠せず言う。

「すみません、遠山さん、どういう意味でですか?」

 遠山はふっと表情を変え、言葉を続けた。

「なあ、佐々木。お前、前に三菱やデンソー、トヨタ、姫路とか、各チームを相手にして、ストリートバスケの企画をしたよな?」

「ああ、はい。名古屋に新しくストリートバスケの公園ができたので。でもあれは正直、当日までずっとヒヤヒヤでした。雨が降りそうで降りそうで、天気予報とにらめっこでしたから」

 遠山は声を大きくして言った。

「そうそう、それだよ!」

 佐々木はびっくりして顔を見上げる。

「な、何ですか?」

「普通はそうだろうって話だ。こういう大きな企画の責任者なら、当日までずっとヒヤヒヤしているのが当たり前だ。俺だってそうだ。たとえ慣れても、その緊張感は消えない」

「本当ですか? 遠山さんはいつも落ち着いてる印象がありますが」

「それはな、責任者が焦っている様子を周囲に見せないだけでな。しかも不安要素はかなり前から徹底的に潰して、成功確率をぎりぎりまで上げているからだ」

 遠山は手にしたプリントを指差した。

「でも、今回の月島の演出案は、急遽の案。さらに明らかに大きな不安要素を抱えている。天気予報でいうなら、大嵐が来るかもしれないレベルの爆弾だ」

「それって……犯人が捕まれば、そもそも演出も意味をなさなくなるってことですか?」

「そういうことだ」

 遠山は重々しくうなずいた。

「かけた金も労力も全部無駄になる。全てパーだ」

「……なるほど、確かに言われてみればそうですね」

「そうだ。そもそも、俺が手配した警備会社からもっと高いランクの業者に替えたし、今回は広告代理店もしっかり使っている。クラウドファンディングで資金も集めたらしいじゃないか」

 遠山は指先で資料の端を軽くはたきながら、低い声で続けた。

「それなのに、あいつはなぜここまで余裕ぶっているんだ……」

 沈黙が少しだけ流れ、佐々木が息をのむように問いかけた。

「おそらく、成功を確信しているんでしょうか?」

「……その通りだ」

 遠山の目に確信の光が宿る。

「あいつにとって、この販促がどれほどの好影響を与えるか、もうわかっているんだ。演出も大成功。当日は犯人乱入のトラブルもない。そして、そもそも……試合当日まで犯人が捕まらないことを確信している。そういうことだろう……」

「まさか……」

 佐々木の声が小さく震えた。

「そう、言わない方がいいが……」

「あの、月島さんが……」

 遠山が首を振る。

「いや、やめておけ。まだ確証はない」

「でも……」

「おそらく、な」

 遠山は息をついて言葉を濁した。

 月島は決してバカではない。あの男がただの脳筋で、余裕ぶっているだけだなんてありえない。

 よく“脳筋”なんて言葉があるけど、実際に全国レベルで戦ったスポーツ経験者は、単なる体力だけでなく、自分で考え、状況を読み、工夫を重ねられる奴がほとんどだ。つまり、頭の切れる奴らだ。

 そう考えると、あいつは計算ずくでやっている可能性が高い。

 でもあいつが完璧な黒幕なのか。何者なのか、はっきりしない。

 遠山の感情も混ざっていて、見たいように見ている節も否めなかった。

 しかし、犯人が捕まらない確証を持っているということ自体、普通じゃない。日本の警察は初動が遅いと言われるが、それでも優秀な捜査官たちが動いている。それでもなお“捕まらない”と確信できる何かがあるとすれば……。いや、あいつが警察を動かせるような権力を持っているとは到底思えない。

(スポンサーの営業部長とか、誰かか?)

 自問しても、どれも筋が通らない。あまりにもリスクが高すぎる。

 そして、そもそもなぜ神崎選手なのか。

 彼女には悪いが、もっと注目度の高い日本代表クラスの選手を狙うほうが話題になるはずだ。俺が犯人で、話題を作りたいなら、まずそうするだろう。

 そして……犯人からの投稿はまだ二通だけ。

 やる気がないのか、それとも何か別の計画に沿って動いているのか。

 劇場型犯罪者だと思ったが、その演出はどこかいい加減で、計算されたものの裏に甘さを感じる。言い方は悪いが、この事件への思い入れを感じない。

「あ、あの遠山さん……」

 佐々木がためらいながら声をかける。

「黙っていられるか?」

「は、はい……」

 佐々木の表情に、心配の色がにじむ。これは仕方がない。

「佐々木、明日俺は山梨に行く。山梨キングビートルズだ」

「そうなんですね」

「ついてこい」

「え? でも仕事が……なにせ月島さんが……」

「もうだいたい片付いているだろ。あとは広告代理店に任せればいい。それがあの人らの仕事だ。そして、お前は元々広報だ。月島には、週末の試合に望む選手の様子をインスタにあげたいとか、適当な嘘をついて、ついてこい」

「ええ! そんなの本当にあげるんですか?」

「いや、あげない。選手が嫌がったでいい。それに……」

 遠山の目が鋭くなる。

 もし月島が黒幕なら、変に関われば共犯者になるかもしれない。佐々木はまだ純粋だ。命令に従うだけの無垢な存在。しかし、無垢なままで巻き込まれてはたまらない。だからこそ、彼女を守りたい。

 この状況を考えると、哲学者ハンナ・アーレントが提唱した「アイヒマンの悪」を思い出す。アイヒマンはナチスのユダヤ人虐殺に加担した人物だが、彼は「上からの命令にただ従っただけ」と話した。つまり、ユダヤ人に対して特に何の感情を持っていなかったという。しかしその盲目的な服従が、大きな悲劇を生み出したのだ。遠山は、誰かの指示に無批判に従うことの恐ろしさを身近に感じている。自分の考えを失い、流されてしまえば、誰もが加害者にも被害者にもなり得る。

 だからこそ、今できるのは目の前の人を守り、小さくても確実に自分ができることをやることだ。それこそが、何よりも大切だと遠山は強く思っていた。

「わかりました。遠山さんの指示通りに動きます」

 佐々木の声に、遠山は微かにほっと息をついた。

「よし。明日、新宿駅に集合な」

 遠山の覚悟が、静かに部屋を満たした。


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