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第5話

 残り五日。

 リーグ、チーム、警察、警備会社――関係各所は緊急会議を開き、メールと電話が飛び交っていた。特に広報部は混乱の渦中にあり、ほとんど寝ていない職員もいるという。

 だが遠山はその嵐の中をするりとすり抜け、満員電車を乗り継いで京浜東北線に揺られていた。向かうのは品川。

 昨日まで自分に群がっていたメディアは、恐ろしいほどの速度で手のひらを返し、今は別の対象に食いついているようだった。事務所から出るときも、記者の目線は別の話題に向いていた。自分は一瞬で「興味の外」に押しやられたらしい。

 だがそれで良いのかもしれなかった。今の自分は、もはや部外者に近い存在だ。そう思いながらも、遠山は足を止めない。「何かできることがあるなら、動くべきだ」その一心で、羽田。羽田コアラーズの拠点へと向かっていた。

 JR品川駅の改札を抜け、ロータリーへと向かうと、見覚えのある長身の女性が待っていた。パンツスーツのシルエットが風に揺れ、柔らかく光る髪が夕陽を受けて赤みを帯びている。筋肉質な肩と、まっすぐな視線。前田早苗だ。

 彼女は遠山に気づくと、小さく頭を下げた。

「お久しぶりです」

「こちらこそ。でも、変わってないですね」

「……どういう意味ですか、それ」

「いや、選手時代と変わらないなって。大抵の人は引退したら筋肉落ちるじゃないですか。でも、前田さんは全然」

「ふふ。まあ、選手たちと一緒に練習してるんですよ。ケガの状態を試す意味でも、ある種、自分が実験台みたいなもので」

 アルファードの助手席に乗り込むと、エンジンの低い音とともに、車はゆっくりと羽田方面へと滑り出した。

「でも、やっぱり長時間のプレーは無理ですね。古傷って、完全には戻らないですし。日常生活には問題なくても、プロレベルの負荷には耐えられない」

「……それでも、前向きですね」

 遠山が言うと、前田は信号で止まった瞬間、ちらりと横目でこちらを見て、にっと笑った。

「前向きか後ろ向きかなんて、意識の違いだけですよ。どうせなら、前向きでいた方が得した気分になるでしょ?」

「……たしかに」

「遠山さんは、相変わらずのような気がしますけど」

「え?」

「ほら、ちょっと暗いっていうか。背負ってる感じ、変わってないなあって」

「……そうですか?」

「私が初めてリーグの試合に出た日、遠山さん、最前列で見てましたよね。めちゃくちゃ緊張してた私よりも、さらに暗い顔してて……ちょっと笑っちゃいましたよ」

「……あー……そんなことも、ありましたね」

「ありましたよ、バッチリ。あのとき『この人、どうしてそんな顔してるの?』って思いましたもん。まさかその人が、今やリーグの運営に関わってるなんて……人生って不思議ですね」

 不意に差し込んだ西日が、車内を柔らかく染めた。

 不思議な巡り合わせだ、と遠山は思う。

 遠山は、もともと部活動に熱中するタイプの学生ではなかった。

「コスパ」と「タイパ」――効率こそが正義。限られた時間の中で、最も投資対効果の高い行動を選ぶ。それが、彼の信条だった。

 人生に必要なのは学歴と地頭、そして計画性。部活のような、終わりの見えない努力や、結果が運にも左右される活動は、彼の中で“やって損はないが、費用対効果が低すぎる”カテゴリに属していた。

 だから、淡々と勉強し、模試の結果をデータのように分析し、大学入試もロジックとパターンで突破した。それなりの大学を出て、就職活動も周到に準備した。内定を複数獲得し、最終的に選んだのは、誰もが羨む大手の総合商社だった。

 遠山の人生は、他人から見れば「成功」のレールの上を着実に走っているように見えただろう。

 だが――。

 社会に出て数年後、そのレールの先が、まるで霧の中に消えていくように見えた。

「このまま、どこへ向かうのか?」

 彼は食料品部門に配属された。メーカーが作った商品を、どう効率的に流通させるかを考える仕事。理屈は理解していたし、仕事もできた。でも、実際に流通させるのは現場のドライバーたち。自分自身が、何か大きな価値を生み出し、世間に貢献しているようには思えなかった。

「俺たち、ただの交通整理じゃないか……?」

 ふとしたときに、そんな疑念が頭をもたげる。

 さらに上司の顔色をうかがい、無難な発言を繰り返すだけで評価されていく同僚たちを見て、遠山の心は静かに軋んだ。学業なら相手は“問題用紙”という無機質な存在だった。だが、会社という世界では、評価は人間の主観に支配される。能力ではなく、媚びへつらいで出世する姿が、彼にはどうしても“醜い”ものに映った。

「この程度の人間に、俺はへりくだらなきゃならないのか?」

 胸の奥にわだかまる黒い感情。自分でもそれが嫉妬なのか、プライドなのか、疲弊なのか、うまく言語化できなかった。ただ一つ確かなのは――そのままの自分で、これ以上ここには居続けられない、ということだった。

 そんなある日、取引先の小さな食品メーカーの店主――江戸前の海苔を代々扱ってきた老舗の五代目が、彼に声をかけた。

「兄ちゃん、ちょっと息抜きでしようか。バスケのチケットがある。スポンサーやっているんだけど、まあ暇だったら、ついて来い」

 まるで、遠山の煮詰まった顔を見抜いたかのような自然な誘いだった。

 気乗りはしなかった。そもそもスポーツ観戦は興味が薄かった。野球もJリーグも、ニュースで流れる程度の知識。バスケットボールに至っては、ルールもよく知らない。読んだのは『黒子のバスケ』を数冊程度。まして女子のプロリーグなど、名前さえ知らなかった。

 それでも、その日は断る気力もなかった。

 試合会場は、大田区総合体育館。試合開始の一時間前。客入りはまばらで、ガランとしたアリーナに、少し居心地の悪さを感じた。

(収益、成り立ってるのか……?)

 つい、ビジネスマンとしての目線で収支を弾いてしまう。チケット代、広告費、運営コスト。頭の中に、勝手に損益分岐点のグラフが浮かぶ。

 しかし、試合が始まると――彼は、それまでの思考が音を立てて崩れていくのを感じた。

 商店街連合の熱狂的な応援団が、どっと声を上げる。

 声援は素朴で、飾り気など一切ない。だが、その一つひとつが、まるで選手の背中を押すような真っ直ぐな情熱に満ちていた。

「ナイスディフェンス! その調子、その調子!」

「翔子ー! 見えてるよーっ! 次、いけるいける!」

 声に混じって、手拍子が響く。名前を呼ぶ声、チーム名を連呼する声――それらが体育館の空間を震わせ、観客席の空気をじんわりと熱くする。

(こんなに選手って近いのか……)

 驚きだった。

 目の前で、選手たちが走っている。呼吸の音、シューズの擦れる音、ベンチから飛ぶ指示の声……すべてが手に取るように感じられた。

(ていうか……最前列より前に席あるじゃん。って、もう“席”って言っていいのか? ほぼコートじゃないか)

 プレーが目の前を一瞬で駆け抜ける。ドリブルのテンポ、パスの鋭さ、ディフェンスの動き。バスケのスピード感に、思わず目が釘付けになる。

(うわ……攻守の切り替え、速っ! てか運動量、えぐい……)

 目が追いつかないほどの攻防。だが、不思議と“目まぐるしい”というよりも、“すごい”という感情の方が勝っていた。

 次々と選手が交代する。そのたびに、戦術もフォーメーションも変わっていく。誰がどこでどう動いて、どんな意図があるのか……わからない。でも、その“わからなさ”すら、むしろ心地良かった。

 そして、もう一つ気になったことがあった。

(……え? BGM変わった?)

 チームが攻めに転じた瞬間、場内に流れるBGMが切り替わる。エレクトロ、ヒップホップ、時には和太鼓を交えたものまで――チームごとに異なるテーマ曲のようなものがあるらしい。

 DJブースには、ヘッドホンを片耳にかけた男性がリズムを刻みながら、選手の動きに合わせて音楽をミックスしていた。

(DJ? なにそれ……)

 ルールも戦術も分からない。でも、不思議と試合に引き込まれていく。気づけば、遠山は前のめりになってコートを見つめていた。

 その中で、一人の選手が目に留まった。

 背番号七。ルーキーのポイントガード、前田早苗。

 彼女のプレーは、派手ではない。豪快なダンクやスリーポイントで沸かせるタイプでもない。だが、誰よりも視野が広く、タイミングと判断力に優れ、チームを静かに、しかし確実に機能させていた。

 彼女が一歩前に出るたび、コートの空気が変わるのが分かった。

(この子……すごいな)

 まぶしかった。

 その時だった。

 遠山は、人生で初めて、「理解」ではなく、「面白い」という感情を体感した。

 意味を考える前に、心が動いていた。

 帰宅してから、彼はすぐにノートパソコンを開いた。

 今日訪れた会場のキャパシティ、平均動員数、チケット単価。照明設備、演出、アリーナの利活用率。スポンサー広告の枠数、SNSでの反応。すべてを可能な限り洗い出し、収支モデルを組んでみる。

(……やっぱり、まだ伸びしろがある)

 Wリーグの試合は、面白かった。観客を惹きつける力があった。市場としては、プロ野球やJリーグとは比べものにならないほど小さい。が、潜在的な市場規模としては、バスケはかなり大きいし、男子バスケのBリーグは一定の成果も出ている。つまり、まだWリーグは、「成長の余地が大きい」ということでもある。

 そして何より、今日あの場で見た――選手たちの必死なプレー、地域の人々の応援、それらが交錯して生まれた“熱量”が、ずっと胸に残っていた。

(自分の手で、このリーグをもっと大きくできたら――面白いかもしれない)

 その瞬間、思いが一気に溢れてきた。

 自分は、もちろんバスケのノウハウもないし、ボールやユニフォームの開発にも興味はない。でも、“あのハコ”を設計し、支え、仕組みを整えることなら、自分にできるかもしれない。

 地味だけど、誰よりも全体を見渡し、誰よりも試合を組み立てる存在。

(向いてるのかもしれないな……)

 心の声に出してみて、少し照れくさくなった。でも、口元には自然と笑みが浮かんでいた。

「でも、遠山さん、あのあとすごかったですよね」

 前田のその言葉に、助手席の遠山は思わず視線を運転席に戻した。

「え?」

「ほら、試合を初めて観に来たあと。すぐにお勤め先辞めて、Wリーグに入社しようとしたじゃないですか」

「ああ……まあ、若かったんですよ。思い立ったら即行動、みたいな。恥ずかしい話だけど。でも、最初、見事にだめでした。履歴書、書いた時点で門前払い。あの時のスタッフの方々、驚いてましたよ。『本気で言ってる? 何で会社やめるの?』って顔していました」

 前田は、フフッと笑った。

「でも、諦めなかった。ボランティアスタッフとして地道に活動を始めて、イベント会場の誘導や広報資料の配布とか。誰よりも現場を見て、勉強して……。だから今、こうしてリーグ運営の中枢にいる。皆、驚いてますよ」

 遠山は、嬉しさ半分、照れくささ半分の表情で頬を掻いた。

 しかし――。

 その喜びを押しとどめるように、昨日の月島との会話が脳裏をよぎった。

「……でも、どれだけ自分が貢献できたのかは、正直分かりませんよ」

「え?」

 前田の声に、遠山は応えず、車内のラジオに手を伸ばした。

 ダイヤルを回す。どうせ、どのチャンネルも似たような内容を扱っているだろうと思った。やはり、ある番組のパーソナリティが、勢いよく語り始める。

『で、やっぱ今週末、一番ホットなのはWリーグですよね! 犯人からの予告があった中で、試合をやるっていうんだから、そりゃすごいですよ。普通なら中止。でも、あえてやる。ちょっとリスキー。でも……かっこいいよね。特にリーグの月島さん。あの人、すごいよ。選手が本気で頑張ってるからこそ、試合をやる意味があるって。犯人に負けないって、リーグ全体で立ち向かおうって。そう言ってたんですよ。いやー、痺れるわー』

 ラジオの音声が響く中、前田は黙ったまま、ハンドルを持つ手に力が入る。

「……有観客でやるんですよね」

「はい」

「……」

「怒ってますか?」

「……難しいですよ、この判断は。遠山さんの気持ちも分かります」

「そうですか……」

「でもおそらく……今は月島さんが主体になってるんですよね、意思決定も」

「その通りです」

 前田は、少し口元を引き締めてから、静かに言った。

「正直……不安です」

「というと?」

「月島さんがリーグに入られたばかりの頃、チームにもよく顔を出されてました。現場を大事にしてくれてるのかな、とは思いましたけど……」

「……何かありましたか?」

「アドバイスを色々いただいたんですが、内容がどれも“バズり狙い”みたいなバラエティ寄りで……少し、私たち選手や、応援してくれてる地域の人たち、スポンサーを軽んじてるように感じられることもあって……」

 遠山は、小さく息を吸い、言葉を探した。

「……すみません。それはまったく把握していなかったです」

「いえ。遠山さんを責めてるわけじゃないです。チームによっては、月島さんのアイデアを上手く活かして、観客を増やしているところもある。それは事実です。ただ……不安はあります」

「分かります。私も……同感です」

 しばらく、ラジオのノイズ混じりの音が、車内に流れる。

「特に……私たち、神崎選手の件のあと、すごく怖かったんです。さらに、我々自身、お騒がせしてしまいましたし……」

「ホテルの件ですよね? あれは……驚きました」

 前田は信号待ちでブレーキを踏みながら、ちらりと遠山を見やった。

「……すみません、詩織には、きつく言ってあります。でも……あれも少し、おかしいと思いませんか?」

「おかしい?」

「はい」

「どういうことです?」

 遠山が問い返すと、前田は言葉を選びながら答えた。

「なんで、詩織が倒れたあそこに、警察がいたのかって。あのタイミングで」

「は?」

 遠山は眉をひそめた。

「待ってください。それ本当ですか?」

「ええ。聞いていないんですか?」

「はい……。警察がそこにいたって、あれはホテルが通報したんじゃ?」

「救急車は、もちろんホテルが呼びました。けど……詩織がエレベーター前で観光客とぶつかって倒れたあと、騒ぎになって、すぐに“警察です”って人が来たんですよ」

 遠山は、正面を見つめたまま小さく息を吸った。

「どなたか、覚えています?」

「……すみません。あのときは皆パニックでしたから。でも、黒いスーツの刑事さんでした。制服じゃなくて」

「……なるほど。その人、何かしましたか?」

「ええ。詩織の介抱をしていたら、焦った様子で来て、“大丈夫か?”って聞かれて。で、そこから、なぜかさらに色々聞かれたから、私たちも“どなたですか?”と聞いて……。そうしたら、警察手帳は見せてくれたんですよ。表紙だけでしたけど。中身は……確認できませんでした」

「それで、そのあと?」

「救急車が到着したときには、もういなくなってたんですよ。不思議ですよね。で、そのあと制服の警察官が来たから、“さっきスーツの方が来てましたよ”って言ったら──“え? そんな人の報告はない”って。顔を見合わせちゃいました。まあ、たまたま、プライベートでホテルにいたのかもしれませんね」

 遠山の中で、思考が加速する。

 山名詩織選手が外国人観光客とぶつかって意識を失ったのは、神崎選手襲撃事件の三時間後、午前一時過ぎ。

 新潟県内で、警察の初動が整っていたとは到底思えない時間帯だ。

 あの日、リーグ、チーム、スポンサー関係者の大半は都内のホテルで行われた会合に出席していた。遠山自身も、そこで事件の一報を聞いて、皆で事務所へ移動した。

 警視庁の刑事が事務所に姿を現したのは、犯人が声明文を送りつけてきて以降──つまり事件の二時間後。午前〇時くらいである。

 しかし、あれもよく考えたら変だ。

 新潟のチーム事務所には、もちろん警察がすぐに来たという。それは理解できる。神崎選手を狙った犯行だからだ。でも、なぜあの刑事はWリーグの事務所にそんなに早く来たのか。しかも一人で。いくらSNSで犯人の犯行声明らしきものが投稿されても、リーグ全体を狙った犯行と完全に断言できない段階である。そして、さらにホテルの現場には、“名乗らぬ刑事”がいた。

 何かがおかしい。いや、全てが変だ。

 そもそも、ぶつかっただけで、あれだけ鍛えられたバスケット選手が意識を失うというのも奇妙だ。余程狙ってタックルでもしないと、厳しいだろう。

 そして人通りの少ない時間帯。混雑しているわけでもないエレベーターホール。普通なら避けられたはずの接触事故。

 そういえば、なぜかホテル前には、記者もいたという。夜間になぜ、張っていた。あれは本当に偶然だったのか?

「遠山さん、何か?」

 前田の問いに、遠山は小さく笑って首を振った。

「ああ、いえ。すみません。でも……驚きですね。そんな“たまたま”があるなんて」

 一瞬、車内の空気が静まる。無言の時間が、かえって緊張を際立たせる。

 そのとき、ラジオから軽快なパーソナリティの声が響いた。

『で、今回の有観客開催を踏まえ、リーグとして警備体制を抜本的に強化するとか。でも、お金ってかかるじゃないですか。そしたらなんと、有志によるクラウドファンディングが始まって──リーグに直接お金を寄付する動きになったんですよ! すごいですよね! 僕も支援しましたよ。見に行けなくても応援できる。それが大切だと思うんです!』

 前田が、ラジオにかき消されるような小さな声で言った。

「遠山さん」

「はい」

「必ず……選手たちを守ってください」

 真っ直ぐな瞳だった。その目を見て、遠山は言葉を一瞬ためらった。

「……今の私には、できるかどうか……」

「いえ。あなたは、できます。私にそうしてくれたように、きっと」

 遠山は目を伏せた。思い出すのは、かつて前田が古傷を再発したときの、あの対応。誰もが表面的に励ましながら、真実を見ていなかった。

「……はい」

 窓の外、京急蒲田駅の案内板が近づいてくる。羽田コアラーズの練習場はもうすぐだ。

「ちなみにですが遠山さん。今後の日程は?」

 運転席の前田が、信号待ちの合間に問いかけた。

「ええ、明日は山梨に行こうかと考えています」

「キングビートルズ?」

「はい。今回のように、チーム周りをして、現場の状況や不安要素を確認しておこうかと。何かあれば、早めに対応できますし」

「そうですか……キングビートルズ……」

 前田の声が少し曇った。ワイパーがフロントガラスに静かな軌跡を描いている。

「何か引っかかることでも?」

 遠山が尋ねると、前田は少し笑って首を横に振った。

「いえ。ただ──思い出したんです。神崎選手。彼女も昔、山梨にいたでしょう?」

「ええ。四年間はキングビートルズに在籍していたと聞いています」

「ですよね……。昔、私が現役だった頃にオールスターで一度彼女と会ったんですよ」

 前田は、少し懐かしげに言った。

「あの頃から、コートではものすごい存在感でしたけど、控室では驚くほど静かで。礼儀正しくて、声も小さくて。まるで別人のようだったのを覚えています」

「……ああ、たしかに。インコートの彼女は爆発力がありますからね。あれとのギャップは、周りも驚きますよね」

「でも──昔は少し違っていたという話も、聞いたことがあります」

「え? そうなんですか?」

 遠山が眉をひそめた。意外だった、というよりも、まるでピースの合わないパズルが手元でくすぶるような表情だ。

「まあ、私も伝え聞いた話ですが。現役時代、キングビートルズからコアラーズに移籍してきた選手が言っていました。神崎選手、かなり……難しい時期があったと」

「難しい、というと?」

「いや、流石にそこまでは分かりませんが、何かあったようです」

 ラジオからは、天気予報に切り替わる音楽が流れていた。明日は曇りのち雨、山梨も東京も似たような空模様らしい。


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