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神誓の儀がもたらした衝撃はウェザリオ王国の政治的な力学にも大きな変化をもたらした。
その中心にいたのはシャールの一歳年下の弟、マーキス第二王子であった。
マーキスは兄であるシャールとは対照的な気性の持ち主だ。
燃えるような赤毛に、挑戦的な光を宿した鋭い眼光。
幼い頃から活発で、負けん気が強い。
更にマーキスは神誓の儀において、父王オルドヴァイン三世譲りの強力な火の魔力を発現させていた。
粗暴で短慮な面も指摘されてはいたが、その一方で騎士団の訓練においては兵士たちを鼓舞し、時に強引ながらも統率する才能の片鱗を見せている。
炎を自在に操り、模擬戦では年上の騎士をも圧倒することさえあったという。
そんな折、ウェザリオ王国の東方に位置する隣国ヴェイル帝国との間で、国境線を巡る緊張がにわかに高まり始めていた。
ヴェイル帝国は強力な土の魔力を持つ皇帝の下、近年急速に軍事力を拡大させており、その野心的な動きは周辺諸国に警戒感を抱かせていた。
国境付近での小競り合いが頻発し、大規模な衝突も時間の問題ではないかという憶測が王宮内でも囁かれるようになっていたのである。
このような不穏な情勢の中、王国の貴族や軍部の一部からは「強力な魔力を持つ力強い指導者」を待望する声が上がり始めていた。
それは暗に「無の魔力」しか持たないシャール王太子への不満と、強力な火の魔力を持つマーキス第二王子への期待を示すものであった。
「有事の際に、国を守れるのは火の魔力を持つ者だ」
「王家の血筋を示すのは、やはり強力な属性魔力でなくては」
「マーキス王子こそ、次代の王にふさわしいのではないか」
そうした声は日増しに大きくなっていった。
当初は長子相続の原則を重んじる意見も根強かったが、帝国の脅威が現実味を帯びるにつれ、世論は急速にマーキス支持へと傾いていったのである。
そして、ついに運命の日が訪れた。
◆
国王オルドヴァイン三世は重臣たちを招集した評議会の席で──
「現下の情勢に鑑み、また、王国の安寧を第一に考え……第一王太子シャールに代わり、第二王子マーキスを新たに王太子として指名する」
そう宣言したのだ。
父王オルドヴァイン三世の表情は硬く、その声はざらついている。
彼自身、シャールの「無の魔力」という結果に深く失望しており、ヴェイル帝国の脅威が現実のものとなるにつれ、より強力な指導者を求める気持ちが強くなっていたのだ。
これはシャールにとって、事実上の廃嫡宣告に等しかった。
父王の口からその決定が告げられた時、シャールはただ静かに頭を垂れるしかなかった。
その表情からは感情を読み取ることは難しかったが、シャールの心の内でどれほどの絶望と無力感が渦巻いていたかは想像に難くない。
父王の視線はもはやシャールを捉えることなく、ただ冷ややかに、そしてどこか憐れむかのように逸らされるばかりであった。
これ以降、それまで期待と祝福を一身に浴びた第一王子は、今やウェザリオ王国の未来にとって不要な存在であるかのように扱われる事となる。
◆
新たに王太子となったマーキスの権勢は、瞬く間に増大した。
彼は水を得た魚のように、王宮内でその存在感を強めていく。
軍の視察に積極的に赴き、兵士たちの前で火の魔力を誇示しては自らの力をアピールした。
その粗暴な言動を諫める者は少なく、むしろその力強さが頼もしいと評価する声さえあった。
そしてマーキスには王太子の地位を得たことでもう一つ、手に入れたいものがあった。
セフィラである。
マーキスは以前からセフィラの類稀なる美貌と、その知的な雰囲気に密かな憧憬と独占欲を抱いていた。
聡明で、気品があり、それでいてどこか儚げな魅力を湛えた公爵令嬢。
そんな彼女が兄シャールの婚約者であるという事実がマーキスには酷く気に食わない。
ただ父王の寵愛を一身に受けるシャールにはさすがのマーキスも手出しをすることはできなかった。
しかし、状況は一変した。
シャールは「無能」の烙印を押され、王太子の座から引きずり下ろされた。
今や、自分が次期国王なのだ。
マーキスは父王オルドヴァイン三世に対し、正妃は国王の意向に従って有力貴族の娘を迎えることを了承した。
しかし、その上で彼は一つの条件を出した。
「側妃には、セフィラ・イラ・エルデを迎え入れたい」
オルドヴァイン三世は、一瞬眉をひそめた。
セフィラがシャールと深い絆で結ばれていることは、彼も知っていたからだ。
しかし、マーキスの強い要望と、「エルデ公爵家との繋がりを保つため」というもっともらしい理由を前に、最終的にはそれを黙認した。
失意のシャールへの配慮よりも、新たに王太子となったマーキスの機嫌を損ねることの方がオルドヴァイン三世にとっては重要だったのかもしれない。
マーキスはほくそ笑んだ。
兄から全てを奪い取る。
王位も、そして婚約者も。
マーキスは早速エルデ公爵に使者を送り、セフィラを側妃として迎え入れたい旨を伝えた。
それはもはや要請ではなく、決定事項としての通達に近いものであった。
◆
エルデ公爵家の書斎。
セフィラの父であるエルデ公爵は娘セフィラに向かい合っていた。
「マーキス王太子殿下より、お前を側妃に迎えたいとの、正式な申し入れがあった。当家はそれを受ける。セフィラよ、これは決定事項だ」
公爵の声は冷然としている。
神誓の儀以降、エルデ公爵家の立場も微妙なものとなっていた。
「無の魔力」の娘を持つ家として、他の貴族からの風当たりは強い。
ここで王太子からの縁談を断れば、公爵家そのものの存続すら危うくなる可能性があった。
「……セフィラ。これも、エルデ家のため、そしてお前自身の将来のためだ」
公爵にも娘の幸せを願う気持ちがないではなかったが、それ以上に家を守らねばならぬという責務があった。
貴族とはそういうものなのだ。
家門を守る──それが貴族の責務である。
エルデ公爵も聡明なセフィラがよもや断るまいと思っていた。
しかし。
セフィラの返答は明確だった。
「お断りいたします、お父様。私の心はシャール殿下と共にあります。殿下の御心が私の全てですわ」
「セフィラ! 分かっているのか! シャール殿下はもはや王太子ではないのだぞ! マーキス殿下の意向に逆らえば、我々はどうなるか……!」
公爵は声を荒げたが、セフィラは静かに首を横に振った。
「エルデ家の誇りは、権力に媚びることではございません。ましてや、愛する方を裏切ってまで得る安寧など私には不要です」
セフィラは自身の意思が家の決定に優先されるとは思っていなかった。
しかし、表明しないでは居られなかったのだ。
「シャール殿下の意志が変わらぬ限り私の答えも変わりません」
父娘の対立は平行線を辿るばかりだった。
一方、シャールもまた無力感に打ちひしがれていた。
彼は父王に何度も謁見を求め、セフィラとの婚約を継続させてほしい、マーキスの要求はあまりにも理不尽だと必死に訴えた。
しかしオルドヴァイン三世は、もはやシャールの言葉に耳を貸そうとはしなかった。
「決定は覆らん。お前は、もはや王太子ではないのだ。セフィラ嬢の将来を考えるならば、身を引くのが道理であろう」
冷たく突き放され、シャールは為す術もなかった。
他の貴族に口添えを頼もうにも、今のシャールに頼れる大人はいない。
かつて彼に向けられていた周囲の敬意は消え失せ、今や誰もが彼を過去の人として扱っていたからである。
王宮の中で、シャールは完全に孤立していた。
◆
夜ごと、シャールは深い懊悩に苛まれた。
セフィラをこのままマーキスの手に渡してしまっていいのか。
そんな自問を何度となく投げかけるが答えは決まっている。
──ぜったいに嫌だ
ならば、どうする?
セフィラを連れてこの国を出るか?
二人でどこか遠い地へ逃げ延び、静かに暮らす。
それは甘美な誘惑だった。
しかしそれは同時にセフィラから全てを奪うことにもなる。
公爵令嬢としての地位、豊かな生活、家族との繋がり。
それらを捨てさせ、先の見えない逃亡生活に引きずり込むことが果たして彼女の幸せに繋がるのだろうか。
一方、もし彼女がマーキスの側妃となれば物質的には何不自由ない生活が保障されるだろう。
エルデ公爵家も安泰だ。
自分の存在が、彼女の、そして彼女の家の不幸を招いているのではないか。
愛しているからこそ、手放すべきなのかもしれない。
そんな考えも浮かんでくる。
王太子という立場を失った自分に、彼女を守り、幸せにする資格など本当にあるのだろうか。
答えの出ない問いが、頭の中をぐるぐると巡り続けた。
セフィラもまた、眠れぬ夜を過ごしていた。
だが彼女の悩みはシャールのそれとは少し異なり、より現実的で、そして陰鬱な色合いを帯びていた。
どうすればシャールとの婚約を維持できるのか。
父を説得する方法は?
マーキス王太子の心変わりを促す手立ては?
あらゆる可能性を考え、書物を紐解き、知恵を絞ったが、有効な策は見いだせなかった。
状況は絶望的だった。
もし万策尽きて、マーキスの側妃となることが避けられなくなったとしたら……。
セフィラの心には暗い決意が芽生え始めていた。
シャール以外の男に身を委ねるくらいなら、自ら命を絶つ。
彼女の部屋の引き出しの奥には、古美術品として父から譲り受けた美しい装飾の施された小さな短剣が仕舞われている。
ここ最近の彼女はその短剣を手に取り、冷たい感触を確かめる時間が増えていた。
どこをどう刺せば、そしてどれほどの強さで押し込めば人が死ぬかも既に調べてある。
だがその度に、残されるであろうシャールのことが頭をよぎる。
自分が死を選んだとして、彼はどう思うだろうか。
悲しむだろうか。
自分を責めるだろうか。
彼にそんな苦しみを与えたくはない。
──私はシャール殿下と共にこの国を出たい
心の底ではそう願っていた。
たとえ全てを失ったとしても、シャールと一緒ならば、どんな困難も乗り越えられる気がした。
しかし責任感の強い彼に「国を捨てて、私を選んでほしい」とどうして言えるだろうか。
王族としての彼の誇りを、自分が汚すわけにはいかない。
愛するが故に重荷にはなりたくない。
そのようにして、セフィラの心もまた千々に乱れていた。
そうして、時間は無情にも過ぎていく。
マーキスとセフィラの婚約の儀は、着々と準備が進められ、その日は目前に迫っていた。
婚約の儀の前日の夜。
空には細く欠けた月が頼りなげに浮かんでいた。
◆
エルデ公爵邸の庭園。
セフィラはいつものベンチに一人座り、暗い水面のような夜空を見上げていた。
明日のことを考えると、胸が締め付けられるようだった。
もう覚悟を決めなければならない。
死ぬのは怖い、でももしも心にシャールがいてくれたならば少しは恐怖もまぎれるかもしれない。
そう思い、そっと懐に手を入れて短剣を取り出そうとしたその時だった。
背後に、微かな足音がした。
振り返るとそこに立っていたのは、月明かりにシルエットを浮かび上がらせたシャールであった。
ここ数日の心労でやつれていたが、確かにシャールその人である。
セフィラはシャールの姿を見た瞬間、それまで頭の中で巡らせていた全ての考え──懊悩も、絶望も、自害の覚悟さえも、全てが吹き飛んでしまった。
愛しい人が目の前にいる。
それだけで胸がいっぱいになった。
シャールは、ゆっくりとセフィラの元へ歩み寄り彼女の前に立った。
互いに言葉を発しない。
相手の顔を見つめ、その表情から想いを読み取ろうとする。
お互いに相手が何を考えているか知りたいとは思ってはいるものの、それが自分のそれと違う事を恐れていたからだ。
長い長い沈黙の後。
ほとんど同時に、二人は口を開いた。
「セフィラ……全てを捨てて私と一緒に、この国を出てくれないか」
「シャール殿下……この国よりも私を選んでくださいませんか」
言葉は違うが思いは同じ。
他の何を捨ててでも自分を選んでほしいという浅ましく卑しい願いであった。
互いが同じ結論に達していたことを知った瞬間、二人の間に張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
驚きと、安堵と、そして込み上げてくる喜び。
セフィラの瞳から、堪えていた涙がぽろぽろと溢れ出した。
シャールはそっと彼女を抱きしめる。
そうして、どちらからともなく、くすくすと笑い声が漏れた。