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第5話「血の夜」

 ◆


 あの夜、エルデ公爵邸の庭園でセフィラと再会し、互いの意志を確認し合うまでの数日間──シャールは決して無為に過ごしていたわけではなかった。


 むしろ王宮内における彼自身の存在感が希薄になったことを逆手に取り、来るべき逃亡のための準備を密かに、そして周到に進めていたのである。


 かつての王太子としての立場であればその一挙手一投足が監視され、このような計画はたちまち頓挫していたであろう。


 しかし今のシャールは「無能の王子」として、良くも悪くも周囲から無視される存在となっていた。


 侍従たちの数も減らされ、彼の私室を訪れる者もほとんどいない。


 その孤独と屈辱が、皮肉にも彼に自由な時間と行動の余地を与えたのだった。


 シャールが集められたものは決して多くはない。


 かつて母である王妃から贈られたいくつかの宝石、数枚の金貨、そして最低限の防寒具。


 さらに護身用として、そして時には道具としても使えるようにと手入れを続けてきた一振りの短剣。


 それは騎士たちが佩く長剣に比べれば頼りないものであったが、今の彼にとっては数少ない武器の一つであった。


 これらの品々を彼は目立たぬよう小さな革袋と背負い袋に分け、自室に隠した。


 全てはセフィラと共にこの息詰まる王宮を、そしてウェザリオ王国を脱出するために。


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 そして、運命の夜。


 エルデ公爵邸の庭園でセフィラと固く抱き合った後、二人は言葉少なに行動を開始した。


 幸い二人は貴族教育の一環として、幼い頃から乗馬の手ほどきを受けていた。


 エルデ公爵家の厩舎から出来るだけ目立たぬよう、夜陰に紛れやすい漆黒の毛並みを持つ二頭の馬を密かに選び出し手綱を握る。


 シャールは動きやすいように平民の若者が着るような丈夫なシャツと革のズボンを、セフィラもまた侍女の服を借り受け、髪を頭巾で隠していた。


 その姿はもはや王子と公爵令嬢のそれではなかったが、二人ともすでには捨てている。


 王都の城壁を抜けるのは容易ではなかったが、シャールが事前に調べておいた古い水路の存在が彼らを助けた。


 今は使われていないその水路は外部へと通じており、二人は汚泥に塗れることも厭わずそこを通り抜けたのである。


 自由な空気を胸いっぱいに吸い込んだ時、東の空がわずかに白み始めていた。


 追っ手が迫るまで、時間的猶予はほとんどないであろう。


 二人は馬に鞭を入れ、一路、隣国との国境へと続く森を目指して疾走した。


 ◆


 どれほどの時間を駆けたであろうか。


 背後から迫る複数の馬蹄の音が、ついに二人の耳朶を打った。


 マーキスが送り出した追手、王国の第二騎士団の一隊であった。


 長距離を長く、そして速く駆けられる軍馬とただの乗馬用の馬では機動力に雲泥の差がある。


 森の中の比較的開けた場所に追い詰められ、二人は馬を止め、静かに振り返った。


 十数騎の騎士たちが、抜き身の剣を月明かりに煌めかせながら、二人を取り囲むように布陣していた。


 その先頭に立つのは屈強な体躯を持つ中年の騎士、隊長のオズワルド。


 彼はかつてシャールの剣術指南役を務めたこともあり、シャールの幼少時を知る人物の一人である。


「シャール殿下、セフィラ様。ご無事なご様子、何よりに存じます。このような場所でお会いしとうはございませんでしたが、王命です。王都へお戻りいただきます」


 シャールは静かに馬から下り、セフィラをその背に庇うようにして立った。


「オズワルド隊長。久しいな」


 その声は落ち着いていたが、どこか遠く響くような響きを持っていた。


「だが──断る。ここは見逃してはくれぬか」


 オズワルドはわずかに眉をひそめた。


「殿下、それはなりません。おとなしく捕まっていただきたい。もし抵抗されるというのであれば、我々も力を用いざるを得ませぬ。殺しはしませんが、少々痛い目に遭っていただくことになりましょう。……シャール殿下、あなたが幼少の頃より剣の鍛錬に励んでおられたことは存じておりますが、その様な腰の短剣で、我々騎士団にどう立ち向かうおつもりですかな?」


 シャールの戯言などは無視して即座に捕縛にかかればよいものを、オズワルドは珍しく言葉を紡ぐ。


 そこにはかつての教え子に対する憐憫があった。


 シャールは短剣の柄に手をかけ、ゆっくりと引き抜く。


 月光を鈍く反射する、ただの短い刃。


「私はもう殿下ではない。ただのシャールだ」


 シャールの声は、森の静寂に吸い込まれるように響いた。


「国よりも、ただ一人の愛する女を選んだ、愚かな男だ。だから──」


 次の瞬間、シャールは短剣の切っ先を自らの左肩のやや前方に向けて構える。


 これは威嚇の構えではない。


 の構えである。


 シャールは見えざる何かを断ち切るかのように、足を踏み込み、腰を鋭く回転させて──振り抜いた。


 するとシャールの意思に呼応するかのように、彼の周囲の大気に漂っていた微細な塵芥や、馬蹄によって舞い上がった砂の粒子、さらには木々の葉から滴り落ちた夜露までもが一瞬にして凝縮する。


 それはまさしく死神の鎌であった。


 シャールが振るった短剣の軌跡をなぞるように極限まで薄く、そして恐ろしく長い刃がオズワルド達を一瞬で断ち切ってしまう。


 数名の騎士の首がまるで熟れた果実が枝から落ちるかのように、音もなく胴体から離れ、宙を舞った。


 鮮血が噴水のように吹き上がり、静かな森をおぞましい赤黒色に染め上げる。


 オズワルド隊長もまた、馬上から崩れ落ちるようにして地面に叩きつけられた。


 その目には恐怖もなく警戒もない。


 なにもわからないままオズワルドはシャールによって殺された。


 やや離れた場所に立っていた数騎の騎士は首を深く切り裂かれ、致命的な重傷を負いながらも、かろうじて息があったが、おおむね壊滅といった所である。


 シャールの周囲には、死と血の匂いが立ち込めている。


 極限まで薄く長く引き伸ばされた塵と水の刃は鋼鉄の剣や鎧など比較にならぬほど鋭利であり、そして何よりもその存在を事前に察知することが極めて困難であった。


「……すまない、オズワルド」


 シャールはかつての師であった男の亡骸を見下ろし、静かに呟いた。


「ここでお前たちを見逃すわけにはいかなかったのだ」


 呟き、そして。


 彼はゆっくりとセフィラの方を振り返った。


 その顔は蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。


「私を……軽蔑するか、セフィラ」


 声は微かに震えていた。


 人を殺めた。


 それも、かつて教えを受けた者たちを、自らの手で。


 その事実が重くシャールの心にのしかかっていた。


 セフィラは首を横に振った。


 確かに恐ろしくはある。


 だがその恐怖は、目の前でたやすく人の命を奪ったシャールに向けられたものではなかった。


 むしろ、彼の心がこの過酷な現実に耐えきれず、壊れてしまうのではないかというた恐れであった。


 セフィラはシャールの傍に駆け寄り、彼の震える手を自らの両手で強く包み込んだ。


 そして、言葉もなくシャールの全身を力強く抱きしめた。


 シャールの体は小刻みに震えている。


 セフィラはその震えが自分の心にも伝わってくるのを感じながら、彼の背中を優しく、しかし何度も強く叩いた。


 大丈夫、あなたは一人ではない、と。


 言葉にならない想いを込めて。


 その時であった。


 地面に散らばっていた騎士たちの剣のうち数本が、まるで意思を持ったかのようにふわりと宙に浮き上がった。


 そして次の瞬間には、まだ息のあった数名の騎士たちの体に向けて、容赦なく突き刺さっていった。


 短い呻き声が数度上がり、そして森は再び完全な静寂に包まれる。


 セフィラがやったのだ。


 彼女もまたシャールと同じ「無の魔力」を行使し、生き残った者たちに止めを刺したのである。


 ──人を殺した。でも後悔はない


 シャールの腕の中で顔を上げ、青い瞳をじっと見つめた。


「殿下……いえ、シャール」


 セフィラの声もまたわずかに震えてはいたが、力強い。


「私のことを、軽蔑なさいますか?」


 シャールはセフィラの言葉に目を見開いた。


 そしてゆっくりと首を横に振ると、先程よりも強く、彼女の華奢な体を抱きしめた。

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