享保年間の江戸、日本橋の賑わいから少し離れた一角に、料亭「菊乃井」はあった。石畳の小道の先に佇むその建物は、松の木々に囲まれ、まるで別世界のように静謐だ。旗本や大名の御用達として知られ、庶民には縁遠い高級な店。そこに、佐久間宗太郎が招かれた。
宗太郎は、簡素な藍色の着物をまとい、腰に筆と紙の入った袋を提げて菊乃井の門をくぐった。彼の名声は、深川の屋台や神田の蕎麦屋での評を通じて、すでに江戸中の権力者の耳に届いていた。ある旗本が、宗太郎の舌を試したいと招待状を送ったのだ。宗太郎は内心で警戒しつつも、食への好奇心を抑えきれなかった。
店内は、畳の香りと檜の柱が織りなす落ち着いた空間。宗太郎は奥の座敷に通され、豪華な会席料理が並ぶ膳を前にした。料理長の勘助、40歳ほどの厳つい顔の男が、恭しく挨拶する。
「佐久間殿、ようこそ。拙者の料理、存分に味わってくだされ。」
宗太郎は軽く頷き、膳を見渡した。鯛の塩焼き、季節の野菜の炊き合わせ、吸い物、刺身の盛り合わせ。どの品も、見た目からして精緻だ。彼はまず、鯛の塩焼きに箸を伸ばした。皮はパリッと焼き上がり、身は白く輝いている。宗太郎は一切れを口に運び、ゆっくりと噛みしめた。
瞬間、彼の舌が動き出した。塩の粒が舌の上で弾け、鯛の甘みがじんわりと広がる。焼き加減は、表面の香ばしさと身のしっとりさを完璧に保っている。宗太郎の目は鋭く光り、つぶやく。
「この塩焼き…塩は対馬の海塩、焼き時間は十と二刻(約二十四分)。絶妙だ。」
勘助の目が一瞬揺れた。宗太郎の言葉は、まるで料理の裏側を暴く刃のようだった。彼は次に吸い物に手を伸ばす。椀を開けると、湯気が立ち上り、柚子の香りが鼻をくすぐる。出汁は透き通っており、具材の海老と三つ葉が繊細に浮かんでいる。宗太郎は一口啜り、目を閉じた。
「出汁は、土佐の鰹と利尻の昆布。海老は伊勢のものだな。柚子の皮は、わずかに若い果実のもの。見事な調和だ。」
座敷にいた旗本の供の者たちが、宗太郎の言葉にざわついた。勘助は笑顔を保ちつつ、内心で冷や汗をかいていた。宗太郎の舌は、菊乃井の秘密を一瞬で看破していたのだ。彼は一品一品を味わい、すべての料理に隠された技と素材を見抜いた。会席を終えた宗太郎は、筆を取り、評を書き始めた。
菊乃井の会席、豪華にして繊細。鯛の塩焼きは海の息吹を閉じ込め、吸い物は出汁の深さに心を奪う。一品ごとに職人の魂が宿るが、味の裏に隠された意図は、果たして純粋か。この膳、江戸の権力を映す鏡なり。
評を書き終えた宗太郎は、旗本に礼を述べ、菊乃井を後にした。だが、彼の言葉は、予想を超える波紋を呼んだ。宗太郎の評は版元を通じて広まり、菊乃井の名はさらに高まった。しかし、「味の裏の意図」という一文が、勘助の心に刺さった。宗太郎の舌が、店の秘密を暴く危険性を、彼は本能的に感じていた。
数日後、宗太郎の評は大名の耳に届き、彼の名は一層高まった。旗本たちは、宗太郎を「江戸の味を極めし者」と呼び、こぞって彼の評を求めた。だが、菊乃井の裏では、暗い企みが動き始めていた。勘助は、宗太郎の舌が店の評判を脅かすと恐れ、店の秘密を守るため、ある決断を下す。
勘助は、松葉屋の主人・藤兵衛と密かに会った。藤兵衛は、宗太郎の名声が自分の店を脅かすことに苛立ち、すでに彼を排除する策を練っていた。二人は酒を酌み交わし、声を潜めて囁く。
「佐久間宗太郎の舌、ちと厄介だ。あの男の筆を封じるには、どうすればいい?」
藤兵衛はにやりと笑い、言った。
「簡単だ。奴の舌を黙らせりゃいい。菊乃井の名を使って、奴を罠に嵌めるんだ。」
勘助は一瞬躊躇したが、店の存亡を思えば仕方ないと自分を納得させた。彼は、宗太郎を再び菊乃井に招き、特別な膳を用意する計画を立てる。その膳には、宗太郎の舌を試すと同時に、彼の名声を貶める仕掛けが隠されていた。
一方、宗太郎は日本橋の路地を歩き、次の店を探していた。彼の鼻は、どこからか漂う胡麻油の香りを捉える。だが、心のどこかで、菊乃井での出来事が引っかかっていた。あの会席の味は完璧だったが、勘助の目に宿る不自然な緊張が、宗太郎の直感を刺激していた。
その夜、宗太郎は宿に戻り、筆を走らせた。彼は、菊乃井の料理に感じた「意図」を記録する。味の裏に隠された何か。それは、権力者の思惑か、料理人の嫉妬か。宗太郎は知らなかったが、彼の筆は、すでに危険な領域に踏み込んでいた。
路地の闇の中、怪しい影が宗太郎の宿を見張っていた。影の主は、藤兵衛の手下、ならず者の弥蔵だ。弥蔵は、宗太郎の動向を逐一報告し、次の機会を窺っていた。宗太郎の舌と筆が、江戸の食文化を変える一方で、彼の命を狙う罠が、静かに迫っていた。