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第4話 庶民の味、天ぷら革命



浅草の仲見世通りを抜けた裏路地、夕暮れの喧騒が響く中、佐久間宗太郎は小さな天ぷら屋「三浦屋」の前に立っていた。提灯の明かりがほのかに揺れ、胡麻油の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。宗太郎の舌は、すでに次の味を予感していた。彼の評が江戸中の話題となり、深川の焼き鳥屋や神田の蕎麦屋を一躍有名にした今、庶民の食に光を当てる使命感が彼を突き動かしていた。




三浦屋は、粗末な木造の店構えで、客席はわずか十人分。店主の三浦与之助は、40歳ほどの小柄な男だ。額に汗を浮かべ、鍋の油を睨むその目は、職人の執念に満ちている。宗太郎は暖簾をくぐり、カウンターの隅に腰を下ろした。




「親父、海老の天ぷらを二本。それと、季節の野菜を適当に頼む。」




与之助は無言で頷き、鍋に箸を入れた。油がジュッと音を立て、海老が黄金色に染まる。宗太郎は、油の香りと衣の軽やかな音に耳を澄ませた。店の客は、職人や行商人が中心で、皆が天ぷらを頬張りながら笑い合っている。宗太郎はそんな光景に、江戸の庶民の力を感じていた。




やがて、皿に盛られた天ぷらが運ばれてきた。海老は尾までカリッと揚がり、野菜は茄子と蓮根が色鮮やかに並ぶ。宗太郎はまず海老を手に取り、衣の薄さを確認した。まるで紙のように軽い。胡麻油の香りが、鼻腔を刺激する。彼は一口かじり、目を閉じた。




瞬間、舌が歓喜した。衣のサクサクとした食感が、歯を軽やかに弾き、海老の甘みがじんわりと広がる。胡麻油の香ばしさは、控えめながらも存在感を放ち、塩の粒が味を引き締める。宗太郎の眉が上がり、つぶやく。




「この天ぷらは、江戸庶民の笑顔を揚げたようだ。」




与之助は手を止め、宗太郎をじっと見た。その言葉に、客たちの視線も集まる。宗太郎は構わず、茄子の天ぷらに箸を伸ばした。茄子のジューシーな果肉が、衣の中で熱を閉じ込め、一噛みごとに甘みが溢れる。蓮根のシャキッとした歯ごたえも、絶妙な揚げ加減で引き立っている。宗太郎は、与之助の技に心から感服していた。




食事を終えた宗太郎は、店の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、まるで天ぷらの衣のように軽やかで、力強い。






浅草三浦屋の天ぷら、庶民の魂を揚げし一品。海老の甘みは衣に抱かれ、茄子の果肉は熱に歌う。胡麻油の香りは、江戸の路地を彷彿とさせる。塩一振りで完成するこの味、庶民の誇りなり。






その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には浅草の茶屋や本屋に広まった。三浦屋はたちまち客で溢れ、与之助は目を丸くした。宗太郎の筆は、屋台や蕎麦屋に続き、天ぷら屋をも江戸の名店に押し上げた。与之助は宗太郎に頭を下げ、感謝の言葉を並べた。




「佐久間殿、あんたの言葉で、俺の天ぷらが生き返った。どう礼を言えばいいか…。」




「礼なら、親父の次の天ぷらでいい。どんな新作を考えてる?」




宗太郎の笑顔に、与之助は目を輝かせた。




「実はな、キスの天ぷらを、特別な衣で揚げる一品を試してる。佐久間殿、食べてみねえか?」




宗太郎は頷き、食の旅を続ける決意を新たにした。だが、彼の名声が高まるにつれ、暗い影が忍び寄っていた。








数日後、宗太郎の評は江戸中の話題となり、三浦屋は「宗太郎の天ぷら屋」と呼ばれ、夜な夜な賑わう名所に変わった。だが、その影響力は、ライバル店の嫉妬をさらに掻き立てた。神田の料理屋「松葉屋」の主人・藤兵衛は、宗太郎の評が自分の店を脅かすことに苛立ちを募らせていた。菊乃井の料理長・勘助も、宗太郎の舌が店の秘密を暴く危険性を恐れ、藤兵衛と手を組んでいた。




藤兵衛は、浅草の別の天ぷら屋「川端屋」の主人・源次と密かに会った。源次は、三浦屋の繁盛に客を奪われ、宗太郎を恨んでいた。藤兵衛は酒を注ぎながら、源次に囁く。




「佐久間宗太郎の筆、ちと厄介だ。三浦屋ばかりが目立って、俺たちの店が霞む。どうにかならねえか?」




源次は目を細め、頷いた。




「簡単だ。奴の評を貶めるか、でなけりゃ奴自体を消す。川端屋の名にかけて、俺も手を貸すぜ。」




二人の会話は、闇に溶けていった。その夜、宗太郎は浅草の路地を歩きながら、背後に怪しい気配を感じた。振り返ると、暗がりに人影が揺れる。宗太郎の直感が警鐘を鳴らし、彼は素早く路地裏に身を隠した。尾行していたのは、藤兵衛の手下・弥蔵だった。弥蔵は舌打ちし、宗太郎を見失う。




宗太郎は胸をなで下ろしつつ、宿に戻った。彼の心には、菊乃井での不自然な緊張や、尾行の気配が積み重なり、不安が芽生えていた。だが、彼の舌は、江戸の味を追い求めることをやめなかった。宗太郎は筆を握り、次の店を思い描く。胡麻油の香り、海老の甘み、庶民の笑顔。それらが、彼の使命を支えていた。







翌日、宗太郎は三浦屋を再訪し、与之助の新作・キスの天ぷらを試食した。キスの繊細な白身が、薄い衣に包まれ、口の中で溶けるような味わい。宗太郎は「まるで春の風を揚げたようだ」と評し、与之助を喜ばせた。だが、その帰り道、宗太郎は再び尾行の気配を感じた。今度は、弥蔵に加え、源次の手下らしき男がいた。宗太郎は川沿いの人混みに紛れ、難を逃れる。




宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、三浦屋の天ぷらに感じた「庶民の魂」を記録する。だが、心のどこかで、尾行の影と、菊乃井の勘助の目が引っかかっていた。宗太郎の筆は、江戸の食文化を変える一方で、彼の命を危険に晒していた。




路地の闇の中、弥蔵と源次の手下は、宗太郎の宿を見張っていた。彼らの背後には、藤兵衛と勘助の思惑が蠢く。宗太郎の舌と筆が、江戸の食の地図を塗り替える中、暗殺の罠が静かに迫っていた。



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