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第5話 権力の膳、隠された偽り



享保年間の江戸、秋風がそよぐ日本橋の武家屋敷街。佐久間宗太郎は、旗本・松平忠勝の屋敷に招かれていた。忠勝は50歳ほどの落ち着いた男で、菊乃井の会席を絶賛した宗太郎の評を読み、彼の舌に興味を持った。招待状には、「我が屋敷の膳を味わい、その真髄を評してほしい」とあった。宗太郎は、菊乃井の料理長・勘助の不自然な視線や、浅草での尾行の気配を思い出し、警戒しつつも、食への好奇心を抑えきれなかった。




屋敷の門をくぐると、松の庭と池が広がり、静謐な空気が漂う。宗太郎は藍色の着物に身を包み、腰の筆と紙の袋を握りしめた。案内された座敷は、豪華な屏風と畳の香りに満ち、膳にはすでに料理が並んでいる。忠勝は宗太郎を上座に招き、穏やかに言った。




「佐久間殿、噂の舌を試したくてな。今日の膳は、菊乃井が特別に用意した。存分に味わってくれ。」




宗太郎は一礼し、膳を見渡した。鮎の塩焼き、松茸の土瓶蒸し、鱧の椀物、鴨の炙り刺し。どの品も精緻で、菊乃井の技が光る。だが、宗太郎の直感がざわついた。勘助の目、松葉屋の藤兵衛の影。宗太郎は心を落ち着け、まず鮎の塩焼きに箸を伸ばした。




鮎の皮はカリッと焼き上がり、身はふっくら。宗太郎は一口噛み、塩の粒が弾ける感触と、鮎のほのかな苦みを捉えた。塩は淡路のもの、焼き時間は絶妙。彼は頷き、次に松茸の土瓶蒸しを味わう。湯気が立ち上り、松茸の濃厚な香りが鼻をくすぐる。出汁は透き通っており、松茸と白身魚が調和している。宗太郎は一口啜り、満足げに目を閉じた。




だが、鱧の椀物に箸を伸ばした瞬間、宗太郎の舌が異変を察知した。椀を開けると、鱧の切り身と三つ葉が浮かぶ澄んだ出汁。見た目は美しいが、味に不自然な甘みが混じる。宗太郎はスープを一口啜り、即座に看破した。それは、鱧の出汁に紛れた、安物の味醂の甘みだった。本来の菊乃井の技なら、こんな粗雑な味はあり得ない。宗太郎の目は鋭く光り、椼をそっと置いた。




「この椀物、鱧の鮮度は申し分ないが、出汁に安物の味醂が混じる。菊乃井の名にそぐわぬ偽りだ。」




座敷にいた忠勝の家臣たちがざわついた。忠勝は目を細め、宗太郎をじっと見つめた。宗太郎は平静を装いつつ、状況を分析していた。味醂の偽装は、宗太郎の舌を試し、彼の評を貶めるための策略だ。菊乃井の勘助が、藤兵衛の指示で意図的に手を抜いた可能性が高い。宗太郎は箸を置き、静かに言った。




「松平様、菊乃井の膳は見事だが、この椀物は私の舌を試したかったようだ。真の味を隠すには、鱧の鮮度が良すぎた。」




忠勝は一瞬沈黙したが、やがて笑みを浮かべた。




「佐久間殿、さすがの舌だ。この膳は、菊乃井の新作として用意されたもの。だが、確かに何か不備があったようだ。詮索はせぬが、貴殿の評を聞きたい。」




宗太郎は忠勝の言葉に、微かな二面性を感じた。忠勝は宗太郎の舌を試したかっただけなのか、それとも藤兵衛の策略に無自覚に加担しているのか。宗太郎は残りの料理を丁寧に味わい、評を書き始めた。





松平殿の膳、菊乃井の技が冴える。鮎は夏の川を閉じ込め、松茸は秋の山を歌う。だが、鱧の椀物に隠れた偽りの甘みは、味の裏に潜む意図を暴く。この膳、権力の光と影なり。






評を書き終えた宗太郎は、忠勝に礼を述べ、屋敷を後にした。彼の文章は版元を通じて広まり、江戸中の話題となった。だが、「偽りの甘み」という言葉は、勘助と藤兵衛の心に刺さった。宗太郎の舌が、菊乃井の策略を看破し、権力者の思惑に触れたのだ。






数日後、宗太郎は菊乃井を訪れ、勘助と対峙した。店の裏で、宗太郎は単刀直入に切り出した。




「勘助殿、松平殿の椼に安物の味醂を混ぜたのは貴殿だな? 菊乃井の名を汚すには、ちと稚拙すぎる。」




勘助は顔を青ざめさせ、否定した。だが、宗太郎の目は鋭く、彼の嘘を見抜いていた。宗太郎は、味醂の偽装が宗太郎の評を貶めるための策略だと推測。勘助は、藤兵衛の圧力と、宗太郎の評が店の秘密を暴く恐れから、偽装に手を染めたことを白状した。宗太郎は静かに頷き、言った。




「貴殿の料理は、江戸の誇りだ。それを汚すのは、藤兵衛の嫉妬だ。次は、真の味で勝負しろ。」




勘助は目を伏せ、宗太郎の言葉に心を動かされた。だが、宗太郎は知っていた。藤兵衛の陰謀は、これで終わらない。勘助を通じて、彼は松葉屋と菊乃井の裏で動く企みを確信した。






その夜、宗太郎は宿に戻り、筆を走らせた。彼は、松平の膳に感じた「偽りの甘み」を記録する。だが、路地の闇で、藤兵衛の手下・弥蔵と浅草の源次の手下が彼の宿を見張っていた。藤兵衛は、宗太郎の評を貶める策略が失敗した今、より直接的な手段を検討し始めていた。宗太郎は窓の外の気配を感じ、筆を止めた。彼の命が、静かに狙われていることを悟った。




宗太郎は筆を握り、次の店を思い描く。両国の寿司屋、鮨清の噂が耳に入っていた。彼の舌は、江戸の新風を追い求めることをやめなかった。だが、藤兵衛の影は、ますます濃くなっていた。

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