両国の川沿い、隅田川の水面が夕陽に赤く染まる頃、佐久間宗太郎は寿司屋「鮨清」の暖簾をくぐった。享保年間の江戸で、握り寿司はまだ新しい食として広まりつつあった。米と魚が掌で一つになるそのシンプルな一品は、屋台の喧騒や料亭の豪華さとは異なる、江戸庶民の新たな誇りだった。宗太郎は、深川の焼き鳥、神田の蕎麦、菊乃井の会席を評し、江戸中の話題となった今、寿司の新風を味わうべく、舌を研ぎ澄ませていた。
鮨清は、川辺に佇む小さな店だ。木のカウンターが磨き上げられ、提灯の明かりがほのかに揺れる。店内には、胡麻油の残り香と酢飯の酸味が漂い、隅田川の水音が遠く響く。店主の清次は、30歳ほどの精悍な男だ。浅黒い肌に、魚をさばく手つきはまるで剣士のよう。宗太郎はカウンターの隅に腰を下ろし、清次の動きを観察した。米を握る指先、包丁の刃が魚を薄く切り分けるリズム。それは、職人の魂が宿る舞だった。
「清次殿、握り寿司を五貫。マグロ、鯛、海老、穴子、玉子で頼む。」
清次は無言で頷き、米を握り始めた。宗太郎は、酢飯の香りが立ち上るたびに、鼻を軽く動かした。店の客は、船頭、行商人、芝居小屋の役者たちが中心だ。皆が寿司を頬張り、酒を酌み交わしながら笑い合う。宗太郎は、そんな光景に江戸の活気を感じていた。だが、心のどこかで、松平忠勝の屋敷での偽装された椀物、藤兵衛の影、弥蔵の尾行が引っかかっていた。彼の評は、食文化を変える一方で、危険な敵を呼び寄せていた。
やがて、五貫の握り寿司が並んだ。マグロは血のような赤で輝き、鯛は白く澄んでいる。海老は艶やかに茹で上がり、穴子はタレの甘い香りが漂う。玉子はふっくらと焼き上がり、黄金色に光る。宗太郎はまずマグロを手に取り、醤油を軽くつけて口に運んだ。
瞬間、舌が歓喜した。マグロの濃厚な旨味が、酢飯の酸味と溶け合い、舌の上で消える。米粒は一つ一つがほぐれ、歯ごたえは軽やかだ。醤油の塩気が、味を鋭く引き締める。宗太郎の目が光り、つぶやく。
「このマグロは、江戸前の海そのものだ。血と波が、米に抱かれてる。」
清次は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に鯛を味わった。鯛の繊細な甘みが、酢飯の酸味に抱かれ、口の中で静かに溶ける。海老のプリッとした食感は、まるで波の弾ける音を思わせた。穴子のタレは、甘みと焦げの苦みが絶妙に絡み合い、玉子のふんわりした口当たりは、母の温もりを連想させた。宗太郎は、清次の技に心から感服していた。
「清次殿、握り寿司は、江戸の新風だ。海と米が、掌で一つになる。」
清次の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。彼は宗太郎の言葉を噛みしめ、そっと言った。
「佐久間殿、俺の寿司をそう評してくれるなら、特別な一品を握ってみようか。」
宗太郎は目を輝かせ、頷いた。清次は奥の桶から、珍しい食材を取り出した。蓮根と鯉の切り身、そして菊花の酢漬けだ。宗太郎は眉を上げ、興味をそそられた。清次は説明する。
「これは俺の試みだ。蓮根は薄く切って軽く蒸し、鯉は川魚の臭みを抜いて塩で締めた。菊花は秋の香りを添える。江戸の海だけじゃねえ、川と畑の恵みも寿司にしてみたんだ。」
清次は米を握り、蓮根と鯉を重ね、菊花をそっと乗せた。出来上がったのは、まるで小さな絵画のような握り寿司だ。宗太郎は「蓮根と鯉の秋握り」と名付けられた一品を手に取り、じっと見つめた。蓮根の白と鯉の淡いピンク、菊花の黄色が、酢飯の上で調和している。彼は醤油を控えめに垂らし、口に運んだ。
舌が驚いた。蓮根のシャキッとした食感が、鯉の柔らかな旨味を引き立てる。鯉のほのかな甘みは、塩締めで引き締まり、酢飯の酸味と調和する。菊花の酢漬けは、秋の清涼な香りを添え、舌に微かな苦みを残した。宗太郎は目を閉じ、味の層を一つ一つ解剖した。この握りは、海の寿司とは異なる、江戸の大地と川の物語だった。
「清次殿、この秋握りは、江戸の魂そのものだ。海だけじゃねえ、川と畑が一つになる。こんな寿司、俺は初めて食った。」
客たちがどよめき、清次は照れくさそうに頭をかいた。宗太郎はさらに、菊花だけの小さな握りを試した。菊花の酢漬けが米に乗り、塩を一振りされた一品は、まるで秋の風を閉じ込めたようだった。宗太郎は「菊花の風寿司」と呼び、こう評した。
「菊花の苦みは、秋の哀愁。米の甘みは、庶民の希望。この一貫、江戸の心を握る。」
食事を終えた宗太郎は、店の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、寿司のシンプルさと創作の奥深さを映し出す。
両国鮨清の握り寿司、江戸の新時代を告げる一品。マCHANは海の血を、鯛は波の詩を宿す。蓮根と鯉の秋握りは、川と畑の恵みを語り、菊花の風寿司は秋の風を閉じ込める。掌に収まるこの味、江戸の未来なり。
その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には両国の茶屋や本屋に広まった。鮨清はたちまち客で溢れ、清次は目を丸くした。宗太郎の筆は、握り寿司を江戸の新たな名物に押し上げ、蓮根と鯉の秋握りは「清次の創作」として話題となった。清次は宗太郎に頭を下げ、感謝の言葉を並べた。
「佐久間殿、あんたの言葉で、俺の寿司が江戸中に知られた。秋握りまで評してくれるなんて…どう礼を言えばいいか。」
「礼なら、親父の次の握りでいい。秋刀魚の炙りを試してるって言ったな。どんな一品だ?」
宗太郎の笑顔に、清次は目を輝かせた。
「秋刀魚の脂を、軽く炙ってな。塩と酢飯で引き締める。佐久間殿、近いうちに食べてみねえか?」
宗太郎は頷き、食の旅を続ける決意を新たにした。だが、彼の名声が高まるにつれ、暗い影がさらに濃くなっていた。
数日後、宗太郎の評は江戸中の話題となり、鮨清は「宗太郎の寿司屋」と呼ばれ、夜な夜な賑わう名所に変わった。蓮根と鯉の秋握りは、両国の船頭たちの間で「川の寿司」として愛され、菊花の風寿司は女衆の間で評判となった。だが、宗太郎の影響力は、新たな敵を呼び寄せていた。
神田の料理屋「松葉屋」の主人・藤兵衛は、宗太郎の評が自分の店を脅かすことに苛立ちを極めていた。菊乃井の料理長・勘助も、宗太郎の舌が店の秘密を暴く危険性を恐れ、藤兵衛と手を組んでいた。藤兵衛は、松平忠勝の屋敷での味醂の偽装が失敗に終わった今、より巧妙な策略を思いついた。宗太郎の評を貶めるため、偽の評を流布するのだ。
藤兵衛は、ならず者の弥蔵を使い、宗太郎が書いたと偽った粗悪な文章を版元に持ち込んだ。その文章は、鮨清の寿司を「魚の鮮度が悪く、米はベタつく。秋握りは奇をてらっただけの失敗作」と酷評するものだった。偽の評は、両国の茶屋や芝居小屋に密かに広まり、鮨清の客足がわずかに遠のいた。船頭たちは「佐久間がそんなこと書くはずねえ」と訝しんだが、噂は広がり、鮨清の名に影を落とした。
清次は、偽の評に困惑し、宗太郎を訪ねた。両国の川辺、鮨清の裏で、清次は声を震わせて訴えた。
「佐久間殿、あんたが俺の寿司を貶すわけねえ。だが、この評はあんたの名で出てる。秋握りまで酷評されて…どういうことだ?」
宗太郎は偽の評を読み、目を細めた。文体は粗雑で、彼の筆とは明らかに異なる。言葉の端々に、藤兵衛の嫉妬と悪意が滲む。宗太郎は、松平の屋敷での味醂の偽装と繋がり、藤兵衛の策略だと確信した。彼は清次を落ち着かせ、言った。
「清次殿、これは俺の筆じゃねえ。誰かが俺の名を騙り、鮨清を潰そうとしてる。俺の舌は、貴殿の寿司を信じてる。秋握りの味は、江戸の未来だ。必ず真相を暴く。」
宗太郎は、版元の親方・庄兵衛と会い、偽の評の出所を追った。庄兵衛は、弥蔵が夜中に偽の原稿を持ち込んだことを白状。宗太郎は、弥蔵の背後に藤兵衛と、浅草の天ぷら屋「川端屋」の源次がいると推測した。源次は、三浦屋の繁盛に客を奪われ、宗太郎を恨んでいた。宗太郎は、偽の評を打ち消すため、新たな評を書き、清次の寿司を再び称賛する計画を立てた。
その夜、宗太郎は両国の路地を歩きながら、背後に怪しい気配を感じた。振り返ると、暗がりに二つの人影。弥蔵と、源次の手下らしき男だ。宗太郎の直感が警鐘を鳴らし、彼は川沿いの人混みに紛れた。船頭たちの喧騒にまぎれ、宗太郎は路地裏に身を隠し、尾行を振り切った。だが、背筋に冷たい汗が流れた。藤兵衛の策略は、評の偽装を超え、直接的な脅威に変わりつつあった。
宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、鮨清の寿司に感じた「江戸の新風」を記録し、偽の評を打ち消す新たな評を準備した。蓮根と鯉の秋握り、菊花の風寿司。それらは、江戸の食文化の未来を象徴していた。宗太郎は、清次の寿司を信じ、江戸の庶民の誇りを守る決意を新たにした。
だが、路地の闇の中、弥蔵と源次の手下は、宗太郎の宿を見張っていた。彼らの背後には、藤兵衛の新たな計画が蠢く。藤兵衛は、偽の評が宗太郎を止められなかった今、もっと直接的な手段を検討し始めた。宗太郎の舌と筆が、江戸の食の地図を塗り替える中、暗殺の罠が一歩ずつ迫っていた。
宗太郎は窓の外の気配を感じ、筆を止めた。彼の鼻は、どこからか漂う秋刀魚の炙りの香りを捉えた。清次の次の握りが、宗太郎の舌を待っている。だが、その先には、藤兵衛の刃が待っていた。