本所の裏通り、夏の名残が漂う夕暮れ。佐久間宗太郎は、うなぎ屋「柳川」の暖簾をくぐった。享保年間の江戸で、うなぎの蒲焼は庶民の贅沢として愛され、夏の暑さを乗り切る力の源だった。宗太郎は、両国の鮨清で握り寿司と創作の秋握りを評し、江戸中の話題となった今、うなぎの濃厚な味わいを求めて舌を研ぎ澄ませていた。だが、松葉屋の藤兵衛が流した偽の評や、弥蔵の尾行が、彼の心に暗い影を落としていた。
柳川は、隅田川から少し離れた路地に佇む小さな店だ。木の看板には「蒲焼」の文字が墨で刻まれ、店内には炭火の煙とタレの甘い香りが漂う。店主の辰蔵は、50歳を過ぎた頑強な男で、額に汗を浮かべ、うなぎを串に刺す手つきは職人の誇りに満ちている。宗太郎はカウンターの隅に腰を下ろし、辰蔵の動きを観察した。炭火の赤い輝き、うなぎの脂が滴る音。それは、江戸の夏を凝縮した光景だった。
「辰蔵殿、蒲焼を一串。それと、白焼きを一品頼む。」
辰蔵は無言で頷き、炭火に串を置いた。うなぎがジュッと音を立て、脂が炎を高く上げる。宗太郎は、煙の香りを深く吸い込んだ。店の客は、職人や船頭たちが中心だ。皆が蒲焼を頬張り、酒を酌み交わしながら笑い合う。宗太郎は、そんな光景に江戸庶民のたくましさを感じていた。だが、鮨清での偽の評、松平忠勝の屋敷での味醂の偽装、藤兵衛の陰謀が、彼の直感を刺激していた。彼の筆は、食文化を変える一方で、危険な敵を増やしていた。
やがて、蒲焼と白焼きが運ばれてきた。蒲焼は、タレの光沢が琥珀のように輝き、うなぎの身はふっくらと焼き上がっている。白焼きは、塩と炭火の香りだけが際立ち、シンプルながら存在感を放つ。宗太郎はまず蒲焼を手に取り、タレの香りを鼻に近づけた。醤油と味醂の甘みが、炭火の苦みと混じる。彼は一口噛み、目を閉じた。
瞬間、舌が歓喜した。うなぎの脂の濃厚な旨味が、タレの甘みと絡み合い、舌の上で溶ける。身のふっくらとした食感は、まるで夏の川の流れを思わせた。タレは、辰蔵の秘伝の配合だ。醤油の塩気、味醂の甘み、酒の深みが絶妙に調和し、炭火の香りが味を締める。宗太郎の眉が上がり、つぶやく。
「この蒲焼は、江戸の夏の魂だ。脂とタレが、命の炎を燃やす。」
辰蔵は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に白焼きを味わった。塩だけで焼き上げたうなぎは、脂の甘みがストレートに響く。炭火のほのかな苦みが、うなぎの旨味を引き立てる。宗太郎は、辰蔵の技に心から感服していた。
「辰蔵殿、白焼きはうなぎの真髄だ。塩と火だけで、こんな味を引き出すなんて、ただ者じゃねえ。」
辰蔵は照れくさそうに笑い、そっと言った。
「佐久間殿、俺のうなぎをそう評してくれるなら、試作の一品を味わってみねえか?」
宗太郎は目を輝かせ、頷いた。辰蔵は奥から小さな皿を取り出し、うなぎの白焼きに山椒の酢漬けを添えた一品を差し出した。山椒の葉を酢で軽く漬け、細かく刻んで白焼きに散らしたものだ。宗太郎は「山椒酢の白焼き」と名付けられたこの創作料理を手に取り、じっと見つめた。うなぎの白い身に、緑の山椒が鮮やかに映える。彼は一口噛み、味を解剖した。
舌が驚いた。うなぎの脂の甘みが、塩のキレと調和し、山椒の酢漬けがピリッとした刺激と清涼な酸味を添える。山椒の香りは、鼻腔を抜け、夏の山の風を連想させた。酢の酸味は、うなぎの重さを軽やかにし、全体を調和させる。宗太郎は目を閉じ、味の層を一つ一つ味わった。この一品は、蒲焼の豪快さとは異なる、繊細なうなぎの物語だった。
「辰蔵殿、この山椒酢の白焼きは、夏の山と川が一つになる。こんなうなぎ、江戸のどこにもねえ。」
客たちがどよめき、辰蔵は目を輝かせた。宗太郎はさらに、辰蔵が用意したもう一つの創作料理を試した。うなぎの肝を軽く焼き、胡麻と醤油で和えた「肝の胡麻焼き」だ。小さな皿に盛られた肝は、ほろ苦く、胡麻の香ばしさがアクセント。宗太郎は「夏の苦み」と呼び、こう評した。
「肝の苦みは、夏の暑さの証。胡麻の香りは、庶民の知恵。この一品、江戸の力を握る。」
食事を終えた宗太郎は、店の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、うなぎの濃厚さと創作の繊細さを映し出す。
本所柳川の蒲焼、江戸の夏の魂を焼きし一品。脂の旨味はタレに抱かれ、炭火の香りは命を燃やす。山椒酢の白焼きは、川と山の風を閉じ込め、肝の胡麻焼きは夏の苦みを歌う。この味、庶民の誇りなり。
その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には本所の茶屋や芝居小屋に広まった。柳川はたちまち客で溢れ、辰蔵は目を丸くした。宗太郎の筆は、うなぎを江戸の夏の名物に押し上げ、山椒酢の白焼きは「辰蔵の創作」として話題となった。辰蔵は宗太郎に頭を下げ、感謝の言葉を並べた。
「佐久間殿、あんたの言葉で、俺のうなぎが江戸中に知られた。山椒酢まで評してくれるなんて…どう礼を言えばいいか。」
「礼なら、親父の次のうなぎでいい。どんな一品を考えてる?」
宗太郎の笑顔に、辰蔵は目を輝かせた。
「実はな、うなぎの骨を揚げて、塩と山椒で仕上げる一品を試してる。佐久間殿、食べてみねえか?」
宗太郎は頷き、食の旅を続ける決意を新たにした。だが、彼の名声が高まるにつれ、暗い影がさらに濃くなっていた。
数日後、宗太郎の評は江戸中の話題となり、柳川は「宗太郎のうなぎ屋」と呼ばれ、夜な夜な賑わう名所に変わった。山椒酢の白焼きは、船頭たちの間で「夏の風うなぎ」として愛され、肝の胡麻焼きは職人たちの酒の肴として評判となった。だが、宗太郎の影響力は、新たな敵を呼び寄せていた。
神田の料理屋「松葉屋」の主人・藤兵衛は、宗太郎の評が自分の店を脅かすことに苛立ちを極めていた。菊乃井の料理長・勘助も、宗太郎の舌が店の秘密を暴く危険性を恐れ、藤兵衛と手を組んでいた。鮨清での偽の評の策略が失敗に終わった今、藤兵衛は新たな敵を巻き込んだ。本所の別のうなぎ屋「川柳」の主人・平蔵だ。平蔵は、柳川の繁盛に客を奪われ、宗太郎を恨んでいた。
藤兵衛は、平蔵と密かに会った。薄暗い蔵の中で、藤兵衛は酒を注ぎながら囁いた。
「佐久間宗太郎の筆、ちと厄介だ。柳川ばかりが目立って、俺たちの店が霞む。どうにかならねえか?」
平蔵は目を細め、頷いた。
「簡単だ。奴の評をさらに貶めるか、でなけりゃ奴の舌を黙らせる。川柳の名にかけて、俺も手を貸すぜ。」
二人の会話は、闇に溶けていった。藤兵衛は、平蔵と協力し、宗太郎を陥れる新たな策略を練った。それは、柳川のうなぎを偽装し、宗太郎の評を疑わせるものだった。平蔵は、川柳の粗悪なうなぎを柳川の名で宗太郎に提供する計画を立て、藤兵衛は弥蔵を使い、その偽装を広める準備を進めた。
数日後、宗太郎は柳川を再訪し、辰蔵の新作「うなぎの骨揚げ」を試食した。骨をカリッと揚げ、塩と山椒で仕上げた一品は、まるで夏の雷のような力強さだった。宗太郎は「夏の雷骨」と呼び、こう評した。
「骨の歯ごたえは、夏の雷鳴。山椒の刺激は、江戸の闘志。この一品、庶民の力を揚げる。」
だが、その帰り道、宗太郎は本所の路地で、怪しい気配を感じた。振り返ると、弥蔵と平蔵の手下らしき男が尾行している。宗太郎の直感が警鐘を鳴らし、彼は路地裏に身を隠した。船頭たちの喧騒にまぎれ、宗太郎は難を逃れたが、背筋に冷たい汗が流れた。藤兵衛の策略は、偽の評を超え、直接的な脅威に変わりつつあった。
宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、柳川のうなぎに感じた「夏の魂」を記録し、辰蔵の創作を称賛する新たな評を準備した。だが、翌日、柳川に届いた一通の手紙が、宗太郎の心をざわつかせた。手紙には、「柳川の名で粗悪なうなぎが提供される」との匿名の手紙だった。宗太郎は、藤兵衛と平蔵の新たな策略を予感した。
その夜、宗太郎は柳川を訪れ、辰蔵に手紙を見せた。辰蔵は目を丸くし、憤慨した。
「佐久間殿、俺のうなぎを偽るなんて、許せねえ! 誰がこんな真似を…。」
宗太郎は冷静に答えた。
「辰蔵殿、こいつは俺の評を貶める策略だ。松葉屋の藤兵衛と、川柳の平蔵が怪しい。俺の舌は、柳川のうなぎを信じてる。必ず真相を暴く。」
宗太郎は、辰蔵と協力し、偽装のうなぎを突き止める計画を立てた。彼は、柳川の名で提供されるうなぎを試食し、偽装を見破る決意を固めた。だが、路地の闇の中、弥蔵と平蔵の手下は、宗太郎の宿を見張っていた。藤兵衛は、偽装の策略が成功すれば、宗太郎の評を完全に失墜させられると確信していた。
宗太郎は筆を握り、次の店を思い描く。本所のうなぎの香りが、舌に残っていた。だが、その先には、藤兵衛と平蔵の罠が待っていた。