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第8話 豆腐の知恵、衝撃の夜



本所の路地を抜け、隅田川の支流が静かに流れる一角、夜の帳が下りる頃、佐久間宗太郎は豆腐屋台「湊豆腐」の前に立っていた。享保年間の江戸で、豆腐は庶民の食卓に欠かせない存在だった。夏の暑さも落ち着き、秋の気配が漂う中、宗太郎は柳川のうなぎとその創作料理を評し、江戸中の話題となった今、豆腐の素朴な味わいを求めて舌を研ぎ澄ませていた。だが、松葉屋の藤兵衛と川柳の平蔵が企む偽装うなぎの策略、弥蔵の尾行が、彼の心に暗い影を落としていた。




湊豆腐は、川辺にぽつんと佇む小さな屋台だ。粗末な木の台に、豆腐が水桶に浮かび、提灯の明かりがほのかに揺れる。店主の菊乃は、40歳ほどの小柄な女で、寡黙ながらも豆腐を切る手つきは繊細だ。彼女の目は、苦労を重ねた庶民の強さを宿していた。宗太郎は屋台の隅に腰を下ろし、菊乃の動きを観察した。豆腐の白さが、夜の闇に浮かび、昆布出汁の香りが鼻をくすぐる。




「菊乃殿、冷や奴を一丁。それと、焼豆腐を一品頼む。」




菊乃は静かに頷き、豆腐を切り始めた。包丁が水面を滑るように動き、豆腐は滑らかに切り分けられる。宗太郎は、屋台の簡素さと、菊乃の丁寧な仕事に、江戸庶民の知恵を感じていた。客は、近隣の職人や船頭、夜遅くまで働く女衆たちだ。皆が豆腐を頬張り、湯気の立つ出汁を啜りながら、ささやかな幸福を分かち合う。宗太郎は、そんな光景に心を温められた。だが、柳川での匿名の手紙、藤兵衛と平蔵の策略が、彼の直感を刺激していた。彼の筆は、食文化を変える一方で、危険な敵を増やしていた。




やがて、冷や奴と焼豆腐が運ばれてきた。冷や奴は、豆腐の表面が水滴で輝き、薬味の葱と生姜が彩りを添える。昆布出汁の小さな椀が添えられ、醤油の香りが漂う。焼豆腐は、炭火で軽く焼き目がつき、表面が香ばしい。宗太郎はまず冷や奴に箸を伸ばし、豆腐を一口切り取った。醤油と出汁を軽く垂らし、口に運ぶ。




瞬間、舌が静かに喜んだ。豆腐の滑らかな食感が、舌の上で溶ける。大豆のほのかな甘みが、昆布出汁の旨味と調和し、葱の辛味と生姜の清涼感がアクセントを添える。シンプルながら、味の層は深い。宗太郎の眉が上がり、つぶやく。




「この冷や奴は、江戸の静けさそのものだ。大豆の甘みが、庶民の心を癒す。」




菊乃は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に焼豆腐を味わった。表面の香ばしい焼き目が、歯ごたえを軽やかにし、豆腐の内側の柔らかさがじんわりと広がる。炭火のほのかな苦みが、醤油の塩気と絡み、味を締める。宗太郎は、菊乃の技に心から感服していた。




「菊乃殿、焼豆腐は豆腐の二つの顔だ。香ばしさと柔らかさが、江戸の暮らしを映す。」




菊乃はかすかに微笑み、そっと言った。




「佐久間殿、うちの豆腐をそう評してくれるなら、試作の一品を味わってみねえか?」




宗太郎は目を輝かせ、頷いた。菊乃は奥から小さな皿を取り出し、豆腐を薄く切り、胡麻をまぶして揚げた一品を差し出した。胡麻の香ばしさと、豆腐の軽い食感が際立つ「胡麻揚げ豆腐」だ。さらに、彼女はもう一品、昆布と干し椎茸の出汁で煮込んだ豆腐に、秋の菊花を散らした「菊出汁豆腐」を用意した。宗太郎は二つの創作料理を手に取り、じっと見つめた。




胡麻揚げ豆腐は、黄金色の胡麻が豆腐に絡み、揚げたての香りが漂う。菊出汁豆腐は、豆腐が透き通った出汁に浮かび、菊花の黄色が秋の風を思わせる。宗太郎はまず胡麻揚げ豆腐を口に運んだ。




舌が驚いた。胡麻の香ばしさが、豆腐の滑らかな甘みを引き立てる。外側のサクッとした食感と、内側の柔らかさが調和し、塩の粒が味を締める。宗太郎は目を閉じ、味の層を解剖した。この一品は、豆腐の素朴さを昇華させた、庶民の知恵の結晶だった。




「菊乃殿、この胡麻揚げ豆腐は、江戸の工夫そのものだ。胡麻の香りが、豆腐に命を吹き込む。」




客たちがどよめき、菊乃は照れくさそうに頭を下げた。宗太郎は次に菊出汁豆腐を味わった。昆布と干し椎茸の出汁が、豆腐に深く染み、菊花のほのかな苦みが秋の清涼感を添える。出汁の旨味は、舌の奥で静かに響き、豆腐の甘みがそれを包み込む。宗太郎は「秋の静豆腐」と呼び、こう評した。




「菊花の苦みは、秋の哀愁。出汁の深みは、庶民の忍耐。この一品、江戸の心を煮込む。」




食事を終えた宗太郎は、屋台の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、豆腐の素朴さと創作の奥深さを映し出す。





本所湊豆腐の冷や奴、江戸の静けさを閉じ込めし一品。大豆の甘みは出汁に抱かれ、葱の辛味は心を刺す。胡麻揚げ豆腐は庶民の工夫を揚げ、菊出汁豆腐は秋の風を煮込む。この味、江戸の知恵なり。





その夜、宗太郎の評は版元を通じて刷られ、翌日には本所の茶屋や船着き場に広まった。湊豆腐はたちまち客で溢れ、菊乃は目を丸くした。宗太郎の筆は、豆腐を江戸の秋の名物に押し上げ、胡麻揚げ豆腐と菊出汁豆腐は「菊乃の創作」として話題となった。菊乃は宗太郎に頭を下げ、感謝の言葉を並べた。




「佐久間殿、あんたの言葉で、うちの豆腐が江戸中に知られた。胡麻揚げまで評してくれるなんて…どう礼を言えばいいか。」




「礼なら、菊乃殿の次の豆腐でいい。どんな一品を考えてる?」




宗太郎の笑顔に、菊乃は目を輝かせた。




「実はな、豆腐を干して燻した一品を試してる。香ばしさと旨味が、酒の肴に合うんだ。佐久間殿、食べてみねえか?」




宗太郎は頷き、食の旅を続ける決意を新たにした。だが、彼の名声が高まるにつれ、暗い影がさらに濃くなっていた。








数日後、宗太郎の評は江戸中の話題となり、湊豆腐は「宗太郎の豆腐屋」と呼ばれ、夜な夜な賑わう名所に変わった。胡麻揚げ豆腐は船頭たちの間で「秋の香豆腐」として愛され、菊出汁豆腐は女衆の間で「秋の癒し」として評判となった。だが、宗太郎の影響力は、新たな敵を呼び寄せていた。




松葉屋の藤兵衛と川柳の平蔵は、柳川での偽装うなぎの策略を進めていた。平蔵は、川柳の粗悪なうなぎを柳川の名で宗太郎に提供する準備を整え、藤兵衛は弥蔵を使い、その偽装を広める計画を進めた。だが、宗太郎の評が湊豆腐をさらに有名にしたことで、藤兵衛の苛立ちは頂点に達した。彼は、偽装の策略を一旦保留し、宗太郎を直接排除する計画に切り替えた。




藤兵衛は、弥蔵と平蔵の手下を集め、薄暗い蔵で密談した。藤兵衛は酒を注ぎながら、声を潜めて言った。




「佐久間宗太郎の舌、ちと厄介すぎる。偽の評も偽装もうまくいかねえ。そろそろ、奴の筆を永遠に封じる時だ。」




弥蔵はにやりと笑い、頷いた。




「簡単だ。夜道で奴を仕留める。俺に任せな。」




平蔵も目を細め、付け加えた。




「川柳の名も守らねえとな。宗太郎が消えりゃ、柳川も湊豆腐も終わりだ。」




三人の会話は、闇に溶けていった。藤兵衛は、弥蔵に宗太郎を襲撃するよう命じ、平蔵には柳川への偽装を続けるよう指示した。彼らは、宗太郎の宿を突き止め、夜の襲撃を計画した。








その夜、宗太郎は湊豆腐を再訪し、菊乃の新作「燻し豆腐」を試食した。豆腐を干して桜の木で燻した一品は、香ばしさと大豆の旨味が濃縮され、塩を一振りで完成する。宗太郎は「秋の煙豆腐」と呼び、こう評した。




「燻しの香りは、秋の山の息吹。豆腐の旨味は、庶民の忍耐。この一品、江戸の秋を燻す。」




だが、帰り道、宗太郎は本所の路地で、突然の襲撃を受けた。弥蔵と平蔵の手下が、闇の中から刀を抜いて飛びかかってきた。宗太郎は鋭い直感で身をかわし、路地裏に逃げ込んだ。だが、弥蔵の刀が宗太郎の腕をかすめ、血が滴る。宗太郎は痛みを堪え、川沿いの人混みに紛れた。そこに、深川の焼き鳥屋の源蔵が偶然通りかかり、宗太郎を助けた。




源蔵は、宗太郎を自分の屋台に匿い、傷を手当てした。源蔵は目を光らせ、言った。




「佐久間殿、こいつはただのならず者じゃねえ。誰かに雇われた刺客だ。誰があんたを狙ってる?」




宗太郎は、藤兵衛、平蔵、弥蔵の名前を挙げ、偽の評と偽装の策略を説明した。源蔵は拳を握り、憤慨した。




「そんな奴ら、許せねえ! 佐久間殿の筆は、俺たち庶民の誇りだ。俺も力になるぜ。」




宗太郎は源蔵の言葉に心を動かされ、感謝した。源蔵は、宗太郎を安全な宿に移し、刺客の動向を探る約束をした。宗太郎は、源蔵の忠義に、江戸庶民の絆を感じた。








宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、湊豆腐の豆腐に感じた「江戸の知恵」を記録し、菊乃の創作を称賛する新たな評を準備した。だが、腕の傷が疼き、弥蔵の刀の冷たさが脳裏に蘇る。宗太郎は、藤兵衛と平蔵の策略が、単なる嫉妬を超え、命を狙う陰謀に変わったことを悟った。




翌日、宗太郎は柳川の辰蔵と連絡を取り、偽装うなぎの策略を共有した。辰蔵は、宗太郎の傷を見て驚き、協力することを誓った。宗太郎は、辰蔵と菊乃、源蔵の支えを感じ、江戸の食文化を守る決意を新たにした。だが、路地の闇の中、弥蔵と平蔵の手下は、宗太郎の次の動きを窺っていた。




宗太郎は筆を握り、次の店を思い描く。芝の料亭の噂が耳に入っていた。だが、その先には、藤兵衛と平蔵の新たな罠が待っていた。そして、遠からず、宗太郎の評に魅了された若者が、彼の弟子を志願する日が来ることを、宗太郎はまだ知らなかった。

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