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第16話 博多の市場、偽名の評


博多の港、春の潮風が魚の香りを運ぶ昼下がり。佐藤宗次と名乗る佐久間宗太郎は、17歳の弟子・太郎を連れ、博多の市場を歩いていた。享保年間、九州の博多は、江戸とは異なる活気と食文化を持つ港町だ。宗太郎は、江戸での暗殺未遂を逃れ、偽名を使って新たな食の探求を始めた。藤兵衛の刺客の影は遠ざかったが、宗太郎の鋭い舌と筆は、博多の市場で新たな波紋を広げようとしていた。母・雪乃の煮込み、深川の焼き鳥、柳川のうなぎ、佃の佃煮の記憶が、彼の心を支えていた。太郎は、漁師の息子らしい浅黒い肌に、宗太郎の評を継ぐ決意を宿していた。



博多の市場は、鯖やイカ、タイの鮮魚が並び、屋台から豚骨の濃厚な香りが漂う。宗太郎は、腰に筆と紙を携え、市場の喧騒に耳を澄ませた。江戸の隅田川とは異なる、博多湾の潮の匂いが鼻をくすぐる。彼は、博多の食が持つ力強さと素朴さに、江戸とは異なる魂を感じていた。太郎は、宗太郎の横で目を輝かせ、市場の魚を指差した。



「宗次さん、この鯖、めっちゃ活きてる! 江戸のイワシより脂が乗ってるぜ!」



宗太郎は笑い、太郎の鼻を褒めた。市場の片隅、屋台「海風亭」に足を止めた。店主の弥平は、50歳ほどの漁師上がりの男で、焼いた魚と煮込みを出す屋台を営む。弥平の目は、博多の海の厳しさと優しさを宿していた。宗太郎は、カウンターに腰を下ろし、弥平に声をかけた。



「弥平殿、鯖の塩焼きを一品。それと、豚骨煮込みを頼む。」



弥平は無言で頷き、炭火に鯖を並べ、鍋で豚骨を煮込んだ。宗太郎は、魚の焼ける音と煮込みの香りに鼻を動かした。客は漁師や商人、港の女衆たちだ。笑い声と箸の音が響き、博多の活気が屋台を包む。宗太郎は、江戸の屋台街を思い出しつつ、博多の新たな味に期待を膨らませた。だが、江戸での藤兵衛の陰謀、刺客の刃が、かすかに胸をよぎる。



やがて、鯖の塩焼きと豚骨煮込みが運ばれてきた。鯖の塩焼きは、皮がカリッと焼き上がり、身は脂で輝く。豚骨煮込みは、白濁したスープに豚のほぐれ肉と野菜が浮かぶ。宗太郎はまず鯖の塩焼きを手に取り、香りを嗅いだ。塩のキレと、博多湾の魚の甘みが混じる。彼は一口噛み、目を閉じた。



舌が喜んだ。鯖の脂の濃厚な甘みが、塩の鋭さで引き締まり、炭火の苦みが調和する。宗太郎は、江戸のイワシとの違いを感じ、つぶやく。



「この鯖、博多の海の鼓動だ。脂の甘みが、塩に抱かれて響く。」



弥平は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線も集まる。宗太郎は次に豚骨煮込みを啜った。スープの濃厚な旨味が、舌の上で溶け、豚肉の柔らかさと野菜の甘みが絡む。宗太郎は、弥平の技に感服していた。



「弥平殿、この豚骨煮込みは、博多の港の魂だ。スープの深みが、漁師の汗を煮込む。」



弥平はかすかに微笑み、言った。



「佐藤殿、うちの料理をそう評してくれるなら、試作の一品を食ってみねえか?」



宗太郎は目を輝かせ、頷いた。弥平は奥から小さな皿を取り出し、鯖を柚子胡椒で焼き、刻み海苔を散らした「鯖の柚子焼き」を差し出した。さらに、イカの肝を煮込み、味噌で仕上げた「イカ肝の味噌煮」を用意した。宗太郎は二つの創作料理を手に取り、じっと見つめた。



鯖の柚子焼きは、鯖の青い皮に柚子胡椒の緑が映え、炭火の香りが漂う。イカ肝の味噌煮は、肝の濃厚な香りと味噌の甘みが混じる。宗太郎はまず鯖の柚子焼きを口に運んだ。



舌が驚いた。鯖の脂の甘みが、柚子胡椒のピリッとした刺激と調和し、海苔の磯の香りが味を締める。宗太郎は目を閉じ、味の層を解剖した。この一品は、博多の海と山が交錯する、弥平の創造だった。



「弥平殿、この鯖の柚子焼き、博多の風そのものだ。柚子胡椒が、海の鼓動を歌う。」



客たちがどよめき、弥平は目を輝かせた。宗太郎は次にイカ肝の味噌煮を味わった。イカの肝の濃厚な旨味が、味噌の甘みと溶け合い、舌の奥で響く。宗太郎は「海の肝煮」と呼び、こう評した。



「イカの肝は、博多湾の深み。味噌の甘さは、漁師の知恵。この一品、港の魂を煮込む。」



食事を終えた宗太郎は、屋台の隅で筆を取り、評を書き始めた。彼の文章は、博多の食の力強さと創作の奥深さを映し出す。



博多海風亭の料理、九州の海の魂を焼き煮る一品。鯖の塩焼きは港の鼓動を、豚骨煮込みは漁師の汗を宿す。鯖の柚子焼きは海と山の風を閉じ込め、イカ肝の味噌煮は湾の深みを煮込む。この味、博多の誇りなり。



太郎は、宗太郎の筆を見つめ、目を輝かせた。彼は、宗太郎の評を学び、漁師の息子としての舌を磨く決意を新たにした。宗太郎は、太郎に微笑み、言った。



「太郎、お前の舌も、博多の味を捉えるぜ。俺の筆を、いつか継いでくれ。」




数日後、宗太郎の評は、博多の版元を通じて市場や茶屋に広まった。海風亭は客で溢れ、弥平は目を丸くした。鯖の柚子焼きは「博多の風焼き」として、イカ肝の味噌煮は「海の肝肴」として、漁師や商人の間で評判となった。宗太郎の偽名「佐藤宗次」は、博多で新たな名声を得始めた。だが、江戸からの暗い影が、博多に忍び寄っていた。



藤兵衛は、宗太郎が生き延び、博多に逃れたことを知り、刺客の弥蔵に新たな指示を出した。藤兵衛は、博多の権力者・黒崎藤十郎と手を組み、宗太郎を追う計画を立てていた。藤十郎は、博多の魚市場を牛耳る商人で、宗太郎の評が自分の利権を脅かすことを恐れていた。弥蔵は、博多の港に潜入し、宗太郎の動きを監視していた。




その夜、宗太郎と太郎は、海風亭を再訪し、弥平の新作「サバの味噌漬け焼き」を試食した。サバを味噌に漬け込み、炭火で焼き上げた一品は、味噌の甘みとサバの脂が調和し、博多の海の深みを閉じ込めていた。宗太郎は「海の味噌魚」と呼び、こう評した。



「サバの脂は、博多湾の波。味噌の甘みは、漁師の忍耐。この一品、九州の春を焼く。」



だが、帰り道、宗太郎は港の路地で怪しい気配を感じた。振り返ると、弥蔵と藤十郎の手下が、刀を手に迫ってくる。宗太郎は太郎を庇い、路地裏に逃げ込んだ。だが、弥蔵の刀が宗太郎の腕をかすめ、血が滴った。太郎は網を投げ、手下を絡め取った。そこに、弥平が漁師仲間を連れて駆けつけ、刺客を追い払った。



「佐藤殿、博多でも敵がいるのか! 俺たち漁師は、お前の味方だぜ!」



弥平の言葉に、宗太郎は感謝した。太郎は、傷の手当てをしながら、目を輝かせた。



「宗次さん、博多でも戦うんだろ? 俺、絶対に負けねえ!」



宗太郎は、太郎の志に心を動かされた。彼は、博多の食文化を守り、評を続ける決意を新たにした。だが、藤兵衛と藤十郎の陰謀は、博多で新たな形を取ろうとしていた。




宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、海風亭の料理に感じた「博多の誇り」を記録し、弥平の創作と太郎の勇気を称賛した。だが、腕の傷が疼き、弥蔵の刃の冷たさが脳裏に蘇る。宗太郎は、博多でも暗殺の影が続くことを悟った。彼の偽名「佐藤宗次」は、新たな食の旅を切り開くが、敵の目は逃れられない。



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