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第18話 長崎の海、九州の食探求


長崎の港、春の陽光が波に映える昼下がり。佐藤宗次こと佐久間宗太郎は、弟子の太郎を連れ、長崎の市場を歩いていた。享保年間の九州、博多を拠点に新たな食の探求を始めた宗太郎は、海風亭や潮騒軒の評で博多の食文化を高めていた。偽名「佐藤宗次」を名乗り、江戸での暗殺未遂を逃れた宗太郎だったが、松葉屋の藤兵衛と博多の権力者・黒崎藤十郎の陰謀が、刺客・弥蔵を通じて迫っていた。母・雪乃の煮込み、江戸の焼き鳥やうなぎ、博多の鯖や豚骨の記憶が、彼の舌を支え、太郎の初評が筆を後押ししていた。腕の傷は癒え、宗太郎と太郎は博多を拠点に九州全域で活動を始め、長崎の異国情緒漂う食文化に挑もうとしていた。



長崎の市場は、博多とは異なる活気で満ちていた。南蛮船がもたらす異国の香辛料、唐辛子や胡椒が魚介の匂いと混じる。宗太郎は、腰に筆と紙を携え、長崎の海の香りに鼻を動かした。太郎は、漁師の息子らしい好奇心で、市場の珍しい食材を指差した。



「宗次さん、この魚、見たことねえ! なんか赤くて、江戸の鯛より派手だぜ!」



宗太郎は笑い、太郎の目を褒めた。それは、南蛮船が運んだ赤魚(メバル)だった。市場の奥、屋台「波濤軒」に足を止めた。店主の康次は、45歳ほどの元船乗りで、長崎の魚介と南蛮の調味料を組み合わせた料理を出す。康次の目は、海を渡った男の深みと、食への情熱を宿していた。宗太郎は、カウンターに腰を下ろし、康次に声をかけた。



「康次殿、赤魚の焼き物を一品。それと、魚介の南蛮煮を頼む。」



康次は頷き、炭火に赤魚を並べ、鍋で煮込みを始めた。宗太郎は、魚の焼ける香りと南蛮のスパイスの刺激に鼻をくすぐられた。屋台は、漁師、商人、南蛮船の乗組員で賑わう。宗太郎は、長崎の異国と日本の融合に心を弾ませた。だが、藤十郎の監視と、弥蔵が放ったスパイの気配が、市場の片隅で蠢いていることを感じていた。



やがて、赤魚の焼き物と魚介の南蛮煮が運ばれてきた。赤魚の焼き物は、塩と胡椒で焼き上げられ、身がふっくらと輝く。南蛮煮は、イカと鯖に唐辛子と酢を効かせ、赤いスープが食欲をそそる。宗太郎はまず赤魚の焼き物を手に取り、香りを嗅いだ。塩のキレと胡椒の刺激が、魚の甘みと混じる。彼は一口噛み、目を閉じた。



舌が喜んだ。赤魚の繊細な旨味が、塩と胡椒で引き締まり、炭火の苦みが調和する。宗太郎は、博多の鯖との違いを感じ、つぶやく。



「この赤魚、長崎の海の詩だ。胡椒の刺激が、異国の風を閉じ込める。」



康次は手を止め、宗太郎をじっと見た。客たちの視線が集まる。宗太郎は次に魚介の南蛮煮を啜った。イカの弾力と鯖の脂が、唐辛子の辛味と酢の酸味に抱かれ、舌の上で踊る。宗太郎は、康次の技に感服していた。



「康次殿、この南蛮煮は、長崎の港の魂だ。唐辛子の火が、海の味を燃やす。」



康次は微笑み、そっと言った。



「佐藤殿、うちの料理をそう評してくれるなら、試作の一品を食ってみねえか?」



宗太郎は目を輝かせ、頷いた。康次は奥から小さな皿を取り出し、赤魚を唐辛子と柚子胡椒で焼き、刻みネギを散らした「赤魚の南蛮焼き」を差し出した。さらに、イカと豚を南蛮酢で煮込んだ「イカ豚の南蛮漬け」を用意した。宗太郎は二つの創作料理を手に取り、じっと見つめた。



赤魚の南蛮焼きは、赤魚の身に唐辛子の赤と柚子胡椒の緑が映え、炭火の香りが漂う。イカ豚の南蛮漬けは、イカの白と豚の脂が、南蛮酢の赤いスープに泳ぐ。宗太郎はまず赤魚の南蛮焼きを口に運んだ。



舌が驚いた。赤魚の甘みが、唐辛子の辛味と柚子胡椒の清涼感に調和し、ネギの香りが味を締める。宗太郎は目を閉じ、味の層を解剖した。この一品は、長崎の海と南蛮の風が交錯する、康次の創造だった。



「康次殿、この赤魚の南蛮焼き、長崎の海と異国の火だ。唐辛子と柚子が、港の鼓動を焼く。」



客たちがどよめき、康次は目を輝かせた。宗太郎は次にイカ豚の南蛮漬けを味わった。イカの弾力と豚の脂が、南蛮酢の酸味と唐辛子の辛味に溶け合う。宗太郎は「海陸の南蛮漬け」と呼び、こう評した。



「イカと豚は、長崎の海と陸の魂。南蛮酢の酸味は、異国の波。この一品、港の誇りを煮込む。」



食事を終えた宗太郎は、屋台の隅で筆を取り、評を書き始めた。太郎は、宗太郎の横で自身の筆を握り、初評を試みた。宗太郎は、太郎に助言しながら、彼の言葉を磨かせた。




長崎波濤軒の料理、九州と南蛮の魂を焼き煮る一品。赤魚の焼き物は海の詩を、南蛮煮は港の火を宿す。赤魚の南蛮焼きは海と異国の鼓動を閉じ込め、イカ豚の南蛮漬けは波と陸の誇りを煮込む。この味、長崎の魂なり。




太郎の初評は、こうだった。




波濤軒の赤魚、めっちゃうまかった! 胡椒がピリッと効いて、海の風だ。南蛮煮は辛えけど、漁師の俺の心に響く。赤魚の南蛮焼きは、まるで船の火だぜ。イカ豚の漬け物は、海と陸が一緒に踊る!




宗太郎は、太郎の評を読み、笑った。



「太郎、言葉は粗いが、味の真を捉えてる。長崎の風を、もっと磨けよ。」



太郎は頷き、目を輝かせた。彼の評は、宗太郎の指導の下、版元を通じて長崎の市場に広まった。波濤軒は客で溢れ、康次は宗太郎と太郎に感謝した。





だが、宗太郎と太郎の評は、黒崎藤十郎の耳に届いていた。藤十郎は、博多の魚市場を牛耳るだけでなく、長崎の南蛮貿易にも手を伸ばす商人だ。宗太郎の評が、長崎の市場の流れを変えることを恐れていた。藤十郎は、藤兵衛からの手紙を受け、弥蔵に新たな指示を出した。



「佐藤宗次、つまり佐久間宗太郎だ。奴の筆が、俺の利権を乱す。弥蔵、刺客を出す前に、スパイで奴の動きを探れ。」



弥蔵はにやりと笑い、頷いた。彼は、長崎の港で宗太郎の宿を突き止め、スパイとして若い船乗りの宗助を潜入させた。宗助は、波濤軒の客を装い、宗太郎と太郎の会話を盗み聞き、宿や市場での動きを監視した。宗助は、市場の片隅で、宗太郎が次の評のために佐賀の海苔屋を訪れる計画を耳にした。



その夜、宗太郎と太郎は、波濤軒を再訪し、康次の新作「赤魚と豚の南蛮麺」を試食した。赤魚と豚の出汁に唐辛子を効かせ、太麺を泳がせた一品は、異国のスパイスと九州の海の旨味が融合していた。宗太郎は「海陸の南蛮麺」と呼び、こう評した。



「赤魚と豚は、長崎の海と陸の鼓動。唐辛子の火が、麺に魂を吹き込む。この一品、九州の春を煮る。」



太郎も筆を握り、初評を書き加えた。




南蛮麺、辛えけどうまかった! 赤魚の味は海で、豚は山だ。唐辛子が、まるで南蛮船の火だぜ!




宗太郎は、太郎の成長に目を細めた。だが、屋台の隅で、宗助が二人を監視していた。宗助は、宗太郎の筆と太郎の初評を手に、藤十郎に報告するため市場を後にした。宗太郎は、客の中に不自然な視線を感じ、太郎に囁いた。



「太郎、市場に妙な目がある。藤十郎のスパイだ。気をつけな。」



太郎は頷き、漁師の勘で周囲を見渡した。彼は、宗助の怪しい動きを捉え、宗太郎に報告した。



「宗次さん、あの船乗り、なんか怪しいぜ。俺、尾けてみるか?」


宗太郎は首を振った。



「まだ動くな、太郎。スパイは泳がせて、藤十郎の次の手を暴く。長崎の味を守るため、俺たちの筆を磨こう。」



宗太郎と太郎は、波濤軒を後にし、宿に戻った。康次は、宗太郎に市場の噂を伝えた。



「佐藤殿、藤十郎の目が厳しくなってる。市場の漁師も、怪しい船乗りがうろついてると言ってるぜ。」



宗太郎は頷き、康次の忠告に感謝した。彼は、九州全域で食文化を守る決意を新たにした。長崎の次は、佐賀の海苔屋、熊本の馬肉屋へと旅を広げる。だが、藤十郎と藤兵衛のスパイが、宗太郎の動きを追い続ける。




宿に戻った宗太郎は、筆を走らせた。彼は、波濤軒の料理に感じた「長崎の魂」を記録し、康次の創作と太郎の初評を称賛した。太郎は、宗太郎の横で筆を握り、自身の評を磨く。



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