セドリックとの出会いは、レティアにとって心の安らぎをもたらすものであり、彼との時間は忙しい日々の中で唯一穏やかな瞬間となっていた。市場を訪れるたびに交わされる会話、彼の優しい眼差し、そして彼が手渡してくれる小さな贈り物の数々。それらはレティアの心に、少しずつではあるが確実に癒しをもたらしていた。
しかし、レティアはその感情にすぐに飛び込むことはなかった。
---
ある日、セドリックが彼女に言った。
「レティアさん、あなたは本当に素晴らしい人だ。こんなに一生懸命に人のために働いている姿を見ていると、僕ももっと頑張らなきゃと思うんです。」
その言葉に、レティアは微笑みながらも複雑な気持ちを抱いた。かつて公爵家での冷たい結婚生活を経た彼女は、愛という感情に対して慎重にならざるを得なかった。あの時のように、誰かに利用されるのではないか、また心を傷つけられるのではないかという恐れが、彼女の胸の奥に潜んでいた。
「ありがとう、セドリックさん。でも、私はまだ自分のことで精一杯なの。」
そう言葉を選びながら返すレティアの表情には、かつての傷が影を落としていた。セドリックは彼女の心情を察したのか、それ以上踏み込むことはせず、優しく微笑んだ。
「分かります。でも、僕はいつでもあなたの味方です。」
その言葉に、レティアは胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
---
レティアは自室で一人、彼の言葉を反芻していた。
「味方…。」
公爵家での生活の中で、彼女に「味方」と呼べる存在はほとんどいなかった。利用され、冷たくあしらわれる日々の中で、彼女は常に孤独を感じていた。しかし、セドリックの言葉には何の打算もなく、純粋に彼女を支えたいという気持ちが込められているように感じられた。
「でも、私はまだ彼の気持ちに応える準備ができていない。」
レティアは深く息を吐きながら、自分の心の整理がつくまで焦らないことを決めた。
---
その後も、セドリックとの交流は続いた。ある日、彼が市場で新しい陶器を披露している時、レティアはそっと立ち寄った。彼は彼女の姿に気づくと、少し照れくさそうに笑った。
「今日は新しい技術を試してみたんです。この花瓶、見てもらえますか?」
セドリックが手渡してきた花瓶は、柔らかな青色と白い模様が美しく融合したもので、その繊細さにレティアは思わず息を呑んだ。
「素敵ね。本当に綺麗だわ。」
そう言いながら、彼女はその花瓶を手に取り、光に透かして眺めた。セドリックの器には彼自身の誠実さが映し出されているように感じられた。
「こんなふうに物を作れる人は素晴らしいわ。」
その言葉に、セドリックは少し顔を赤らめた。
「ありがとうございます。でも、僕にとっては、誰かの心に少しでも温かい気持ちを届けられたら、それで十分なんです。」
その言葉を聞いたレティアは、彼の純粋さにまた心が揺れるのを感じた。
---
しかし、彼女は慎重だった。かつての傷が完全に癒えたわけではなく、自分自身の気持ちがまだ確かなものではないことを理解していたからだ。
「私は、この感情を急いで結論づける必要はない。自分の意思で、時間をかけて決めればいい。」
彼女の心にはそうした冷静さがあった。それは、過去の経験から学び取った大切な教訓だった。
---
ある夜、彼女は父エリオット侯爵と夕食をとりながら、ふと問いかけた。
「お父様、あなたはお母様とどうして結婚を決めたのですか?」
エリオット侯爵は少し驚いたようだったが、静かに答えた。
「そうだな…お前の母は、私がどんなに未熟でもいつも支えてくれた。それが本当にありがたかったんだ。私は、彼女のように信じられる人を得られたことが人生の誇りだ。」
その言葉に、レティアは自分自身の未来について考えさせられた。
---
数日後、セドリックが彼女に一輪の花を手渡しながら言った。
「この花は、あなたを見ているときに思い浮かびました。強さの中にある優しさが、花に似ていると思ったんです。」
その言葉に、レティアは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。彼の言葉には偽りがなく、心からの想いが込められていると感じた。
---
彼女はまだ決断を急ぐつもりはなかったが、一つだけ確信していることがあった。それは、今感じているこの穏やかな時間こそが、彼女が本当に求めていたものだということだ。
「私はもう、誰かに決められる人生を歩むつもりはない。この愛を選ぶかどうかも、私自身が決める。」
その夜、レティアは窓の外を見つめながら静かにそう呟いた。彼女の中に芽生えた愛情は、焦ることなく、時間をかけて確かなものになっていくのだろうと、彼女自身も感じていた。