万葉歌人ギルド『月詠(つくよみ)の庵』。
その名が示す通り、剣と魔法が日常を彩るこの世界『アストラルディア』において、ひときわ異彩を、というよりかなり斜め上の彩りを放つギルドである。主な業務は、歌の力を用いた諸問題の解決、祝詞の代筆、迷える子羊への人生相談という名のただの雑談、それに、たまの近所の猫探し(成功率は著しく低い)だ。
そんな、ある意味で非常に専門性の高い(?)ギルドの受付で、今日も一人の嬢が、凍てつくような無表情という名の強固な結界を張り巡らせて座っていた。
彼女の名は水月(みづき)。
腰まで届く濡羽色の髪は、ギルドに差し込む朝陽を吸い込んでは、どこか別の次元へ放出しているかのようだ。切れ長の瞳は深海の底のように静まり返り、一切の感情を映さない。強いて言うなら、「面倒くさい」という感情の化石が、マリアナ海溝のさらに奥底に沈んでいるくらいだろうか。
制服は巫女装束をベースにしたオリジナルのもので、紫紺の袴に白の小袖。ところが、彼女が着ると、なぜか最新鋭の戦闘服のように見えるから不思議だった。今日も今日とて、彼女の周囲には半径三メートルほどの「絶対零度フィールド」が展開され、訪れる者を精神的に凍えさせている。
「あの……すみません。依頼を……」
朝一番の訪問者は、小太りの行商人風の男だった。額に汗を滲ませ、水月の前に立つだけで謎のプレッシャーに押しつぶされそうになっている。
水月は視線を行商人に向けることもなく、手元の木簡(このギルドではいまだに木簡が主流である。エコかアナクロか、判断に迷う)から顔も上げずに応じる。その声は鈴を振るようでありながら、温度はマイナス百度ほどだった。
「ご依頼内容をどうぞ。簡潔にお願いいたします。詳細を語り始めましたら、問答無用で強制的に五七五七七のリズムに整えさせていただきます」
「ひっ!?」
行商人は小さく悲鳴を上げた。ここの受付嬢が、言葉巧みに、あるいは物理的に、依頼内容を和歌の形式に変換して記録するという噂はかねがね耳にしていたが、まさかこれほどとは。
「え、ええとですね、我が家の庭にですね、夜な夜な、こう、ええと、詩を詠む花が……」
「左様でございますか。それで?」
水月の声は、まるでブリザードの擬人化だ。行商人はゴクリと唾を飲み込んだ。
「その花がですね、どうも、恋の歌ばかり詠むもので、その……お恥ずかしながら、うちの奥方が感化されてしまいまして……」
「奥方が歌人に目覚められたと?」
「いえ! それならまだしも! そうではなくてですね! 若い頃の情熱を思い出されたとかで、毎晩のように熱烈なアプローチを! 私に! ひぃっ! もう体力も気力も限界でして! なんとかあの花をですね、こう、静かにさせるか、あるいはもっとこう、健康的な、例えば『今日も一日頑張ろう、筋肉万歳!』みたいな歌を詠むようにですね……」
必死の形相で訴える行商人に、水月は初めて顔を上げた。その瞳はやはり何の感情も映していなかったものの、ほんのわずかに、ミジンコのアクビほどの興味を示したように見えなくもなかった。
「なるほど。恋愛ポエムフラワーによる家庭内ロマンス過多案件、と。承知いたしました。では、一句」
水月はすっと筆(普通の筆だが、彼女が持つとなぜか名刀のように見える)を取り、目の前の木簡にするすると何かを書きつけた。
春の野に 咲き乱れたる 恋歌(こひうた)の 熱情(ねつじやう)騒ぎて 夫(つま)は逃げ出す
「……これでよろしいでしょうか?」
「え? あ、はい……って、私の心情が的確に表現されているような、いないような……というか、これで何が解決するんでしょうか!?」
行商人の魂の叫びにも似た問いかけに、水月は小さく、本当にごく小さく、一ミリほど首を傾げた。その仕草ですら、絶対零度の空気をわずかに揺らすのみである。
「ご依頼内容の確認と、当ギルドの対応方針の基盤となるものでございます。この歌に基づき、担当歌人を選定し、派遣いたします。花に対しては……そうですね、鎮魂歌を詠むか、あるいは『もっと生産的な趣味を見つけなさい』という内容の説教歌をぶつけることになるかと存じます」
「説教歌……花に……?」
行商人の理解が追いつかない。それもそうだろう。このギルドでは、それが日常なのだから。
「では、受付は完了いたしました。費用は成功報酬となりますが、出張費としてギルド所属歌人の好物である『みたらし団子三本』を先払いしていただきます。なお、団子の餡の照り具合によっては、歌人のモチベーションに著しい影響が出る場合がございますので、吟味されることをお勧めいたします」
「だ、団子……?」
もう何を言っても無駄だと悟ったのか、行商人はふらふらと懐から銅貨を取り出し、震える手でカウンターに置いた。水月はそれを無感動に受け取り、木箱にしまう。
「結果につきましては、担当歌人より後日、歌で報告が上がります。解読が必要な場合は、別途解読料(大福三個)を申し受けますので、あらかじめご了承ください」
「……ありがとうございました……」
行商人は、もはや抜け殻のようになってギルドを後にした。彼の背中に、水月はそっと心のなかで(たぶん)エールを送った。「武運を祈る(特に奥方との夜に)」と。
やれやれ、と水月がため息をつく間もなく、ギルドの奥から、けたたましい銅鑼の音と共に、大柄な男が飛び出してきた。
「水月殿! 緊急事態だ! 我が創作の泉が! 泉が枯渇したーっ!」
男の名は岩鉄(がんてつ)。元鍛冶屋という異色の経歴を持つ万葉歌人で、力強い作風(物理的にも力強い歌を詠む。詠んだ歌が実体化して相手を殴り飛ばすこともある)で知られている。
「岩鉄様、おはようございます。またですか。先週も枯渇されて、特製『ひらめき饅頭・激辛わさび風味』を三個も召し上がったばかりではございませんか」
水月の塩対応は、ギルドメンバーに対しても一切揺るがない。
「う、うむ! あの饅頭の刺激で一時は滔々と歌が溢れ出たのだが、昨夜、うっかり月見酒をしこたま飲んでな。そしたら今朝、泉どころか砂漠! サハラ砂漠! 我が脳内は今、不毛の大地!」
「左様で。それは大変遺憾なことでございますね」
水月は表情一つ変えず、さらりと言う。内心では(あー、またこのパターンか。酒と饅頭で無限ループしてないか、この人)と思っていた。
「で、ではどうすれば……! 新たな饅頭を! いや、ここはひとつ、劇薬を……!」
「劇薬は取り扱っておりません。岩鉄様の場合、だいたい美味しいものを食べれば回復される傾向にございます。厨房のあやめさんに、何か甘いものでも作っていただくよう手配いたしましょうか? 今日は新作の『あんみつ風ぜんざいパフェ・追い鰹節トッピング』を試作中だと伺っておりますが」
「おお! それはまことか! 月詠の庵の厨房は、時に歌よりも奇跡を生み出すと聞く! あんみつ風ぜんざいパフェ……追い鰹節……ゴクリ」
岩鉄の目は、先程までの絶望が嘘のように輝き始めた。単純な男である。
「では、手配いたします。ですが、その前に執務室の掃除当番、本日岩鉄様のはずですが、お忘れでは?」
「はっ! い、いかーん! 完全に忘却の彼方であった! すぐさま取り掛かる!」
そう言うや否や、岩鉄は巨大な箒(彼の歌の力で強化されており、並の魔物なら一掃できる威力を持つ)を掴み、嵐のような勢いで執務室へ向かった。巻き起こった風で、受付の書類が数枚ひらひらと舞った。
水月はそれを無言で見送り、舞い落ちた書類を拾い上げながら、また一句。
筆(ふで)よりも 箒(ははき)を握りて 勇む武士(もののふ) 歌の泉は 甘味(あまみ)にありけり
(……我ながら、的確な分析だわ)
心の中で小さく自画自賛する水月。彼女の脳内では、奇想天レンダーがカラカラと音を立てて回り、次々とゆるふわな妄想を紡ぎ出していた。例えば、岩鉄の脳内サハラ砂漠に巨大なあんみつオアシスが出現し、そこから和歌の妖精たちが羽ばたいていくファンタジーな光景とか、そういう類のものだ。
ギルドの中は、朝からこんな調子でいつも騒がしい。
ふと見れば、中庭では若手歌人の一人、草太(そうた)が、自身のペットである「歌詠みイタチ」のポンキチと一緒に、新作の歌の練習をしている。ポンキチは、「きゅーきゅきゅー(訳:そこはもっと情熱的に!)」とか「きゅっきゅきゅー!(訳:助詞の使い方が甘い! やり直し!)」などと、なかなか辛辣なダメ出しを飛ばしていた。異世界のイタチは、どうやら文法にも厳しいらしい。
その隣では、ギルド最年長の歌仙(かせん)翁が、縁側でひなたぼっこをしながら、のんびりと筆を動かしている。彼の専門は予言歌。しかし、その予言はあまりにも抽象的すぎたり、数百年後の天気予報だったりすることが多く、実用性は皆無に等しいと専らの評判だった。
「ふむ……今日の昼餉は……おお、見えるぞ……黄金色の衣を纏いし海の幸……ほっくほくの……ふむ」
仙人のような風貌の歌仙翁が、真剣な顔で木簡に何かを書きつけた。
水月がこっそり覗き見ると、そこにはこう記されていた。
白波の 磯辺に揚がりし 海老天の 香(か)に誘われて 猫も集まる
「……歌仙様。本日の日替わりランチは鶏の唐揚げ定食のはずですが」
水月が冷静に指摘すると、歌仙翁は「む? そうであったか? 我が内なる声は海老天と告げておったが……まあ良かろう。唐揚げもまたをかし」と、あっさり予言を撤回した。そのゆるさが、このギルドの真骨頂である。
そんなこんなで時間は流れ、昼休憩が近づいてきた頃、また新たな依頼人がギルドの扉を叩いた。
今度の訪問者は、高そうなローブを纏った若い魔術師風の男だった。しかしその顔色は土気色で、目の下には深い隈が刻まれており、どこか切羽詰まった様子がうかがえる。
「こ、こんにちは! こちらが、あの名高き万葉歌人ギルド『月詠の庵』で間違いないでしょうか!?」
水月は、また木簡から顔も上げぬまま淡々と応じた。
「左様にございます。して、ご依頼は? 世界征服のお手伝いや、恋敵を呪い殺すための呪歌の代筆は、当ギルドのコンプライアンス規定により固くお断りしておりますので、あらかじめご了承ください」
「ち、違います! そんな物騒な話では! わ、私は、カザミと申します! 王都魔術アカデミーで古代魔法言語学を研究している者です!」
カザミと名乗る青年は、緊張のあまりか早口になっている。
「それで、カザミ様。本日はどのようなご用件で?」
「は、はい! 実は……伝説の秘湯『万葉の湯』の源泉が、枯渇しかけているのです!」
ほう、と水月の眉はピクリとも動かなかったが、ほんの少しだけ(本当にミジンコレベルだが)興味の針が振れた。
万葉の湯。それは、古の歌人たちが愛したと伝わる伝説の温泉で、浸かればたちまち文才が向上し、いかなるスランプも解消され、さらには肌もツルツルになるという、夢のような湯だと伝えられている。もっとも、大部分は誇張と妄想の産物だろうと水月は思っていたが。
「その源泉が枯渇、ですか。それはまた、厄介なことになりましたね」
「はい! あの温泉は、古代の歌の力を源泉のエネルギーに変換している特殊な地脈の上にありまして! 最近、どうやらその歌の供給が滞っているようなのです! このままでは、あと数日で完全に枯れてしまうやもしれません!」
カザミは必死の形相で訴えた。彼の研究テーマが、この万葉の湯と古代歌の関連性についてなのかもしれない。だとしたら、死活問題だろう。
「そこで! どうか、万葉歌人ギルドのお力をお借りしたいのです! 歌の力で、源泉を復活させていただけないでしょうか! もちろん、謝礼は弾ませていただきます!」
カザミは深々と頭を下げた。
水月は、ふむ、と短い息を吐くと、ペン立てに差してあった七夕の短冊(なぜか常備されている)を一枚取り出し、そこにさらさらと筆を走らせた。
山深く 湧きいづる湯の 枯れぬとふ 声(こゑ)に驚き 使者(つかひ)は来(く)らし
「……と、いうことでよろしいでしょうか、カザミ様」
「は、はい……? ええと、今のは?」
カザミは、目の前で突如として繰り広げられた短冊への歌の執筆というパフォーマンスに、若干困惑している。
「いえ、別に。ただの現状確認でございます。独り言のようなものとお考えください」
水月はしれっと言い放ち、短冊をひらひらさせながらカザミに向き直った。
「源泉の復活、ですか。前例のない案件ではございますが、歌の力が関わっているとなれば、当ギルドの専門分野と言えなくもございません。ただ……」
水月はそこで言葉を切り、窓の外、ゆるやかに流れる雲を眺めた。その瞳には、やはり何の感情も映っていなかったが、強いて言うならば、「今日の雲は綿菓子のようだ、食べたらどんな味がするだろうか、たぶん無味か、あるいはほんのり甘くて、噛むとシュワッと消えるのだろうか、ああ、でもきっと大量に摂取するとお腹を壊すに違いない」といった、極めてどうでもいい思考が展開されているようにも見えた。
「ただ……何でしょう?」
カザミは不安げに水月の次の言葉を待った。
「非常に、面倒くさそうでございますね」
きっぱりと、一点の曇りもない声で水月は言い切った。
カザミはズコッ、と古典的な擬音と共に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。この受付嬢、噂には聞いていたが、想像以上の塩対応である。いや、塩というより、絶対零度の氷塊を投げつけられている気分だ。
「そ、そこをなんとか! これは、アストラルディアの文化遺産の危機でもあるのです! お願いいたします!」
水月は、カザミの懇願にも眉一つ動かさず、しばらく無言で何かを考えているようだった。あるいは、何も考えていないのかもしれない。彼女の思考回路は、常人には到底理解できない摩訶不思議な迷宮と化しているのだ。
やがて、水月は小さく頷いた。
「承知いたしました。担当歌人を選定し、現地へ派遣する方向で調整いたしましょう。ただ、どの歌人が適任か……『万葉の湯』ともなれば、相応の実力と、そして何よりも温泉への愛が深い者でなければ務まらないでしょう」
水月は、ギルドに所属する変わり者たちの顔を思い浮かべた。
激辛饅頭でスランプを脱する岩鉄。
イタチにダメ出しされる草太。
海老天の予言を外す歌仙翁。
……どいつもこいつも、大丈夫だろうか。いや、大丈夫ではないだろう。だからこそ、このギルドなのだ。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」
カザミは感涙にむせびそうになっている。
水月は、そんなカザミを一瞥し、ふたたび窓の外に視線を移した。空には、奇妙な形をした雲がぷかぷかと浮いている。一つは巨大なプリンのようであり、もう一つは、鼻提灯を膨らませて昼寝する猫のようにも見えた。
彼女は、またしても無意識のうちに、一句口ずさんでいた。唇からこぼれ落ちたそれは、誰に聞かせるともなく、午後の陽光の中に溶けて消えていく。
昼下がり 窓辺に寄りて 詠む歌は プリンか猫か 空に漂ふ
「……して、派遣される歌人の方は、いつ頃に?」
カザミの問いかけに、水月はゆっくりと視線を戻した。
「そうですね……おそらく、明日の今頃には、ギルド内で『誰が行くかジャンケン』が開催されている頃かと存じます。結果が出次第、カラス便にてお知らせいたしますので、本日はこれにて」
「じゃ、ジャンケン!?」
カザミは愕然とした。そんな重要な任務が、ジャンケンで決まっていいのだろうか。
しかし、水月はすでに次の書類に目を通しており、カザミのことなど、もはや記憶の彼方に置き去りにしたかのような素振りだった。
「では、お気をつけてお帰りくださいませ。道中、くれぐれも『自作のポエムを大声で朗読するゴブリン』などに出会われませんよう」
「な、なんですかそのピンポイントな注意喚起は!?」
カザミの悲鳴じみたツッコミも、水月には届かない。
彼女はただ、静かに、そしてクールに、万葉歌人ギルドの受付業務をこなすのみ。
アストラルディアの片隅で、今日もまた、意味のない歌が生まれ、ゆるふわな時間が流れていくのであった。果たして、『万葉の湯』の源泉は復活するのか? そして、水月が次に詠む歌は一体何なのか?
――その答えは、風の中。あるいは、次の瞬間には忘れ去られているのかもしれない。なにしろ、次の展開なんて、誰も気にしていないのだから。