万葉歌人ギルド『月詠(つくよみ)の庵』。アストラルディアの片隅で、今日も今日とて意味のない歌が生まれ、どうでもいい騒動が巻き起こり、ゆるふわな時間が無限ループのように流れ続けている。
受付嬢・水月(みづき)は、相変わらず絶対零度フィールドを展開し、その凍てつく視線の先で、王国騎士団ライオネル隊長の兜(かぶと)に懐きまくったインコのピー助と、それをどうにかしようと奮闘する(主に空回りしている)ギルドメンバーたちのドタバタ劇を眺めていた。腰まで届く濡羽色の髪は、朝日を浴びてかすかに紫紺の光沢を放ち、彼女の深海の如き瞳は、その騒動の全てを映しながらも、まるで千年後の天気予報でも見ているかのように何の感慨も示さない。
(ピー助問題、屋根裏の謎の住人、ナマズの歌祭りへの招待、影の悪口カウンセリングのその後、哲学ナメクジの恋愛ポエム集出版計画……。今日の私のタスクリストは、相変わらずカオスの一言ね。まあ、どれもこれも、結局は厨房のあやめさんの新作スイーツの前では些末なことに過ぎないのだけれど)
そんなことを考えながら、水月は手元の木簡(ギルドの庭で拾ったセミの抜け殻を丁寧に貼り合わせたリサイクル品。蝉の声は聞こえないが、時々カサカサと音がする)に、いつものように一句さらりと書きつけた。
蝉の殻(から) 文(ふみ)を書く手の 頼りなげ 明日の騒ぎも 神のみぞ知る
「おい、水月殿! 何かいい知恵はないか! このピー助め、我が兜を産卵場所と勘違いしておるのか、一向に離れようとせんのだ! もう三日も兜を脱げずにいる! 頭が蒸れて、新しい歌のインスピレーションどころか、キノコが生えてきそうだ!」
ライオネル隊長が、ピー助を頭に乗せたまま、悲鳴に近い声で訴える。ピー助は「ピピピッ!(訳:ここは我が城!快適なり!)」とご機嫌な様子で、隊長の兜の羽飾りを毛繕いしている。
「左様でございますか。キノコが生えましたら、あやめさんに鑑定してもらうとよろしいかと。あるいは、それを主題にした悲壮感あふれる叙事詩でも詠んでみてはいかがでしょう。『兜に生えし哀れ茸(あはれだけ) 騎士の誉れ(ほまれ)も露と消え』など、なかなかに文学的な響きではございませんか」
水月のどこまでも他人事な提案に、ライオネルは「そんな歌、詠みたくないわーっ!」と絶叫した。
「ここはやはり、歌の力で!」と岩鉄が、特製『鳥よけソング・超高周波バージョン(人間には心地よいバラードに聞こえるが、鳥にとっては悪夢の騒音)』を歌い始めるも、ピー助は岩鉄のバリトンボイスにうっとりするばかりで効果なし。草太がポンキチと共に「ピー助くん、そこは君のいるべき場所じゃないよ、もっと素敵な空があるはずさ」という内容の優しい説得歌を詠むが、ピー助は「ピ?(訳:ここより素敵な場所などないわ!美味しい羽毛もあるし!)」と首を傾げるだけ。歌仙翁は「ふぉっふぉっふぉ。鳥が兜に住まうとは、これぞまさしく自然との共生じゃ。めでたいめでたい」と、論点をすり替えて茶をすすっている。
「もう埒が明きませぬわね」
水月は小さく呟き、すっと厨房へ向かった。数分後、彼女が手にしていたのは、あやめさん特製の『インコがものすごく嫌いになる香りのするビスケット(人間にとっては極上のバター風味で、一口食べると三秒だけ空も飛べる気になるマジカルクッキー)』だった。
「ライオネル隊長、こちらをどうぞ。ピー助くんの目の前で、大変美味しそうに召し上がってみてくださいまし」
半信半疑でライオネルがビスケットを口にした途端、ピー助は「ピギャーーッ!!(訳:な、なんだこの不快な香りは!こんなものを食べるヤツのそばにはいられない!)」と叫び(水月訳)、猛スピードで窓から飛び去っていった。
「……お、おお! いなくなった! さすがは水月殿! いったいどんな魔法を……!?」
ライオネルは感動で打ち震えているが、水月は涼しい顔で答える。
「企業秘密でございます。ただ、隊長、副作用で今後一週間ほど、なぜかカラスに集(たか)られる体質になるかと存じますので、頭上の警戒はお忘れなく」
「えええええ!? それはそれで新たな問題では!?」
ライオネルの悲鳴も虚しく、早速窓の外から数羽のカラスが興味深げにこちらを窺っていた。水月はそれを見ながら、また一句。
鳩(はと)去りて 烏(からす)群がる 騎士の兜(かぶと) 悩みの種は尽きぬものなり
***
さて、長らくギルドの七不思議(というほどでもないが、水月が個人的に気にしていた)の一つだった屋根裏の物音の正体も、ある日あっけなく判明する。
それは、ギルドの大掃除の日のことだった。岩鉄が天井の埃を払おうと、例の強化された箒で一掃した瞬間、バラバラと何か小さなものが落ちてきたのだ。それは、大量のドングリと、使い古された小さな筆、そして書きかけの和歌がびっしりと書かれた木の葉の束だった。
「こ、これは……?」
一同が訝しんでいると、屋根裏からモモンガのような小さな生き物がひょっこり顔を出した。それは伝説の「歌詠みモモンガ」。ギルド創設時からこっそり住み着き、ギルドメンバーの詠む歌を聞いては、夜な夜な自分も創作活動に励んでいたのだという。時折聞こえたくしゃみは、ドングリの粉末アレルギーだったらしい。
「……なんと。てっきり、忘れられた古代神がタップダンスでも踊っているのかとばかり思っておりましたのに。少々期待外れではございましたが、まあ、家賃代わりにギルドの和歌アンソロジーの編纂でも手伝ってもらいましょうか」
水月は特に驚くでもなく、モモンガに仕事(もちろん無給だが、報酬はあやめさんの作る特製ドングリクッキー)を言い渡した。モモンガは喜んで(かどうかは不明だが)引き受け、以来、ギルドの書庫の片隅で、カタカタと木の葉に歌を刻む音が響くようになった。水月はそれを見て、また一句。
屋根裏の 主(ぬし)はモモンガ 歌を詠む 夢はでっかく 万葉歌仙
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数日後、ギルド一行は、万葉の湯のヌシ・ナマズ衛門からの招待を受け、『ヌメヌメ☆ソングフェスティバル』へと赴いた。会場となったのは、万葉の湯の源泉近くにある巨大な地底湖で、そこにはアストラルディア中から集まった何百匹ものナマズたちが、思い思いの「ヌメヌメソング(歌詞は全て『ぬめ』と『ヌメヌメ』のみで構成されるが、抑揚とリズムで複雑な感情を表現するらしい)」を熱唱していた。
岩鉄は得意の絶叫系力押しソング「おおナマズ! その偉大なる粘液は大地を潤す!」を披露し、ナマズたちを(物理的に)震え上がらせた。草太とポンキチは、イタチとナマズの異種間友情をテーマにした感動的なデュエットソングを歌い上げ、一部の感受性の強いナマズを号泣させた。歌仙翁は、即興で「ナマズのひげも 今日はまた一段とツヤが良いのう」という観察日記のような歌を詠み、なぜか審査員特別功労賞を受賞した。
水月は、依頼されて「絶対零度子守唄・ナマズもぐっすりバージョン」を披露。その静謐かつ冷厳な歌声は、会場中のナマズたちの脳髄を直接揺さぶり、フェスティバルは文字通り「静寂に包まれた大団円」を迎えた(全てのナマズが深い眠りに落ちたため)。
結果、水月は「ナマズ界の永遠の歌姫」の称号と共に、山のような「光る泥団子・プレミアムゴールド(食べると三秒間だけ空腹感が完全に消える効果がある。ただし、見た目はやはりただの泥団子)」と、水月が事前に要求していた「万葉の湯生涯フリーパス(ただし、月に一度ナマズ衛門に最新のスイーツ情報を報告することが条件)」をしっかりと手に入れた。
ギルドに戻った水月は、早速フリーパスを眺めながら一句。
泥団子より 湯の権利(しるし)手に笑(ゑ)む我は 今日も明日も風呂三昧(ざんまい)
(これで、仕事で溜まったストレスも、温泉で綺麗さっぱり洗い流せるわね。ついでに、あやめさんの新作実験スイーツの解毒にも使えるかもしれない。ナマズ衛門様には、その都度報告する内容を考えねばならないのが少々面倒だけど、まあ、どうにかなるでしょう)
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さて、他の「伏線のようなもの」も、それぞれゆるやかに着地(あるいは迷走)していた。
例の、影が悪口を詠んでくるカゲロウ青年。彼は結局、影を唸らせるような傑作を詠むことはできず、影は「こんなつまらん本体とはもうやってられん! もっと刺激的な人生を送っているヤツの影になる!」と書き置き(煤で壁に書かれていた)を残して家出してしまった。しかし、影がいなくなった途 secretárioカゲロウは何のプレッシャーも感じなくなり、かえってスランプを脱出。「どうせ誰にも評価されないなら、自分の好きなように詠もう」と開き直り、「朝起きたら鼻毛が一本伸びていた、ああ無常」「昨日買ったプリン、楽しみにしていたのに弟に食われた、絶望」など、日常の些細な嘆きを赤裸々に詠んだ『虚無と怠惰の日常和歌集』を発表。これが意外にも「わかりみが深すぎる」「現代人の心の叫びだ」と一部で熱狂的な支持を受け、カルト的な人気歌人「ミスター・ナッシング」としてデビューすることになった。
水月はその知らせを聞き、「人生とは皮肉なものね。まあ、彼が幸せならそれでいいのだけれど」と、無表情でコメントしつつ一句。
影去りて 光り輝く 才能も ありてふものは 不思議なるかな
哲学ナメクジのナメゾウは、その後も精力的に恋愛ポエムを創作し続け、ついに粘液で書き綴った歌集『我が恋はナメクジロード~涙と粘液の五七五七七~』をギルドの書庫に奉納。時折、ギルドの縁側で朗読会(通訳:水月、時々ポンキチ)を開き、そのあまりにも純粋で切ない恋の歌は、聞く者の涙を誘う……ことはあまりなく、だいたい岩鉄あたりが「ナメクジのくせに生意気な!」とちゃちゃを入れて台無しになるのがお約束だった。
カザミ青年は、万葉の湯の一件以来、すっかりナマズの魅力に取り憑かれ、古代魔法言語学の研究そっちのけで「古代ナマズ歌謡が地脈エネルギーに与える影響とその応用に関する一考察~ヌメヌメは地球を救うか?~」という論文を執筆。学会からは完全に異端扱いされたものの、一部の好事家やナマズ愛好家からは熱烈な支持を受け、万葉の湯の公式ナマズ研究家として雇われることになった。たまにギルドに顔を出し、水月に大量 みたらし団子と大福(もちろん請求書付き)を届けに来ては、ナマズの生態について熱く語って帰るのだった。
そして、水月の影。彼女(?)は、水月が万葉の湯のフリーパスを手に入れたと知るや否や、夜な夜な勝手に抜け出しては温泉三昧を楽しんでいるらしかった。ある朝、水月の机の上には、影文字で「水月様、昨日の露天風呂は月が綺麗でしたよ。あと、カエル型の湯の花、とっときました」というメモと、小さなカエル型の湯の花(本物)が置かれていた。水月はそれを見て、ほんの少し、本当にアメーバの偽足の先ほどだけ、口元を緩ませた。
厨房のあやめさんは、ついに究極の逸品『満漢全席風お好み焼き・時空の歪みを添えて(食べるとランダムで過去や未来、あるいは並行世界のアストラルディアへ一日旅行できるが、帰ってくると三日間は好物が食べられなくなる呪い付き)』を完成させた。ギルドメンバーは、好奇心と恐怖心でそれを遠巻きに眺めている。最初に挑戦するのは誰になるのか、それはまだ誰も知らない。
***
かくして、万葉歌人ギルド『月詠の庵』の日常は、何かが解決したようで何も解決せず、新たな謎や騒動が生まれつつも、相変わらずのゆるふわペースで続いていく。
ギルドの扉がギギ、と音を立てて開いた。現れたのは、見慣れない旅人風の男だった。
「た、頼もう! こちらで、どんな悩みも歌で解決してくださると伺ったのだが……実は、我が愛するロバが、最近、詩の朗読をしないとエサを食べなくなってしまって……それも、妙に高尚な叙事詩じゃないとダメなんだ! 誰か、ロバの気に入るような叙事詩を代筆してくれんか!?」
水月は、いつものように手元の木簡(今回はナマズ衛門からもらった光る泥団子を薄く延ばして乾燥させたもの。暗闇でぼんやり光るので夜間の筆記に便利だが、たまにナマズの匂いがする)から顔も上げずに応じた。
「ロバ様への叙事詩代筆、承りました。ただいま、岩鉄様が新作の『鋼鉄叙事詩・唸れハンマー、輝け鉄魂!全三千八百首』を執筆中でございますので、少々お時間をいただくかもしれません。あるいは、当ギルド専属の哲学ナメクジ・ナメゾウが、最近ロバの孤独をテーマにした一編を詠み上げておりますが、そちらでいかがでしょうか。タイトルは『嘶(いなな)きもまた宇宙の歌、されど我は草を食む』でございます」
旅人は、ポカンとした顔で水月と、カウンターの隅で厳かに粘液を光らせているナメゾウを交互に見比べた。
やれやれ、と水月は内心で(絶対に表には出さないが、心の声は常に雄弁だ)ため息をつきながら、窓の外に広がる、どこまでも平和で、どこまでも退屈で、そしてどこまでも奇想天外なアストラルディアの空を見上げた。
彼女の脳内奇想天レンダーが、またカチリと新しいページをめくる。そこには、次に起こるであろう出来事の、断片的なイメージが万華鏡のようにきらめいていた。例えば、言葉を話す大根がギルドに弟子入りしに来たり、空から巨大なプリンが降ってきてギルドの屋根を突き破ったり、ギルドマスターが実は異世界から転生してきたただの猫だったことが判明したり……。
まあ、どれが起こっても、あるいは全部まとめて起こっても、このギルドなら大して驚きもしないだろう。そして、結局は誰かが意味のない歌を詠み、あやめさんがとんでもない料理を作り、ゆるふわな時間が流れていくだけだ。
水月は、静かに目を閉じ、心の中で今日最後の一句を詠んだ。それは、この『月詠の庵』という奇妙で愛すべき場所と、そこで繰り広げられる果てしない日常への、彼女なりのささやかな祝福のような歌だった。
万(よろづ)の葉(は) ゆるりゆるりと 散り敷(し)けど また新(あら)たなる 風も吹くらむ
(……さて、今日の厨房のメニューは、例の『満漢全席風お好み焼き』かしら。もしそうなら、今日は早めに仕事を切り上げて、万葉の湯にでも避難しておきましょうか。ナマズ衛門様への手土産に、光る泥団子で作ったナマズ型クッキーでも焼いてもらおうかしら。ああ、でも、影に先を越されて温泉を占領されているかもしれないわね。それもまた、一興か)
彼女の唇の端が、ほんの僅かに、マリアナ海溝の深海魚のヒレの先が微かに揺れるように、動いたように見えたかもしれない。それは、アストラルディアの最も深遠な謎の一つとして、永遠に語り継がれる……こともなく、次の瞬間には忘れ去られる、いつもの光景であった。
何しろ、次の展開なんて、誰も気にしていないのだから。