万葉歌人ギルド『月詠(つくよみ)の庵』の朝は、大抵の場合、何の前触れもなく始まる奇想天外な出来事によって幕を開ける。それは毎朝ランダムにページが開かれる、世界で一番分厚くて意味不明な絵本のようなものだった。
受付嬢・水月(みづき)は、今日も凍てつくような無表情という名の鉄壁の鎧を身にまとい、受付カウンターの指定席に鎮座していた。腰まで届く濡羽色の髪は、窓から差し込む朝日を気まぐれに反射し、まるで異次元へのポータルを開いているかのようだ。彼女の切れ長の瞳は、深海の底で千年の眠りについている古代魚のように静まり返り、そこに映るのは「面倒くさい」という感情の化石か、あるいは今朝見た夢の残滓――巨大なたい焼きが宇宙遊泳をしていた、というどうでもいい光景くらいのものだった。
最近、水月のささやかな関心事(というほどでもないが、他に考えることがないので仕方なく意識の片隅に置いている程度のもの)は、ギルドの屋根裏から夜な夜な聞こえてくる、不定期かつ微妙な物音だった。カタカタ、コトコト、時折くしゃみに似た音も混じる。
(あれは一体何の音かしら。誰かがこっそり干し芋でも作っているのかしら。それなら少し分けてほしいものだけど、作るならもっと上手に隠れて作るべきだわ。あるいは、ギルドの守り神として祀られているけど誰も存在を信じていない『幸運を呼ぶコケ玉(ただし百年に一度しか鳴かない)』が、そろそろ鳴く時期なのかしら。でも、くしゃみはしないでしょうね、コケ玉は)
そんな極めて生産性のない思考に耽りながら、水月は手元の木簡(昨日拾った流木を加工したもの。エコ精神は健在)に、さらさらと筆を走らせた。
屋根裏の 音の主(ぬし)は誰 踊る神か 干し芋(ほしいも)作る 小人なるか
「……やはり、干し芋説が有力ね。でも、もし小人だとしたら、労働条件はきちんと守られているのかしら。最低賃金とか、有給休暇とか。まさか、ギルドマスターがタダ働きさせているのでは……。あとでそれとなく釘を刺しておくべきかもしれないわね。小人の労働組合とかあったら、もっと面倒なことになるし」
彼女の脳内では、小人たちがプラカードを掲げてギルドの周りをデモ行進するファンタジーな光景が、一瞬だけ再生されては消えていった。
そんな水月の足元では、最近ギルドに住み着いた「哲学するナメクジ」のナメゾウが、今日も今日とて重々しい口調で(実際には音にならないが、水月にはなぜか聞こえる)呟いていた。
「ぬぅ……我思う、ゆえに我あり。されど、我が足跡は儚く消え、我が思索は誰の心にも届かず……これぞまさに、存在の悲哀、宇宙のコメディ……。ああ、今日の湿度、我が粘液の伸びには最適なり……」
水月はナメゾウを一瞥し、特に何も言わなかった。ナメクジの存在論まで気にしていたら、受付業務が滞ってしまう。ただでさえ、このギルドは予測不可能な出来事の連続なのだから。
そうこうするうち、ギルドの扉が、いつものように遠慮がちに、それでいて確実に厄介事を運んでくるであろう音を立てて開かれた。
現れたのは、目の下に深い隈を作り、髪はボサボサ、着ている詩人風のローブも心なしか煤けている青年だった。年の頃は二十代半ばだろうか。彼はまるで世界が終わるかのような絶望的な表情で、水月の前にふらふらと進み出た。
「あ、あの……! ここが、かの万葉歌人ギルド『月詠の庵』で……ございますでしょうか……? わ、私……助けてほしいのです……!」
声はか細く、今にも泣き出しそうだ。
水月は、手元の木簡から視線を移すこともなく、淡々と、それでいてどこか聞き覚えのあるブリザードのような声で応じた。
「左様にございます。ご依頼内容をどうぞ。ただし、失われた青春を取り戻す歌や、締め切り前の作家を励ます応援歌(ただし成功報酬は原稿料の3割)などは、最近予約が殺到しておりまして、少々お時間をいただく場合がございます。あらかじめご了承ください」
「ち、違います! もっと、もっと個人的で、切実で……そして、恐ろしい問題なのです!」
青年はカウンターに手をつき、懇願するように水月を見つめた。
「実は……わ、私の影が……私の影が、夜な夜な、私に対して辛辣な悪口を……それも、絶妙に五七五七七のリズムで詠んでくるのですっ!」
ほう、と水月の眉がピクリとも動かなかったのはいつものことだが、彼女の脳内奇想天レンダーは、カチリと音を立てて新たなページをめくった。『影が悪口を詠む案件』。なるほど、これはまた、非常に面倒くさ……いや、興味深い事案かもしれない。
「影が、悪口を和歌で。それはまた、風流な嫌がらせでございますね。具体的には、どのような内容を?」
「そ、それが……例えば昨夜は……『お前の書く詩は、三日前に賞味期限が切れた牛乳よりも味が薄い』とか……その前は、『その寝癖、芸術的すぎて鳥も巣作りを諦めるレベル』とか……ぐすっ……的確すぎて、反論できないのです……!」
青年はついに泣き出してしまった。どうやら、影は彼のコンプレックスを容赦なく抉ってくるタイプのようだ。
水月はようやく顔を上げ、青年に視線を向けた。その瞳は相変わらず何の感情も映していなかったが、強いて言うなら、「三日前に賞味期限が切れた牛乳の味」について、一瞬だけ思考を巡らせていたかもしれない。
「なるほど。ドッペルゲンガーの一種、あるいは自己批判精神が具現化した存在、といったところでしょうか。承知いたしました。では、まず一句」
水月は、近くにあった書き損じの短冊の裏に、さらさらと何かを書きつけた。
我が影が 悪態(あくたい)つけば 我もまた 影に向かいて 愚痴をこぼさむ
「……ということで、対応方針といたしましては、その影に対し、当ギルドの歌人が説教歌をぶつけるか、あるいは『もっと生産的な趣味、例えば影絵芝居で世界を救うヒーロー物語を創作するとか、そういうのを見つけなさい』と諭す内容の啓発歌を詠みかけることになりますが、いかがいたしましょう?」
「か、影絵……? 私の影がヒーローに……? え、ええと……それで悪口が止まるなら……お願いします!」
青年は、藁にもすがる思いで頷いた。もはや、どんな突飛な提案でも受け入れる覚悟ができているようだ。
「では、担当歌人を選定いたします」
水月がそう言うと、ギルドの奥からいつものようにけたたましい音が響いてきた。今回は、岩鉄が新しいハンマー(歌の力を込めて叩くと、衝撃波で和歌が刻まれる特殊仕様)の試作品を壁に向かって振り下ろしている音、草太がポンキチに「そこの助詞の『てにをは』が甘いわ! やり直し五百回!」と叱咤されている声、そして歌仙翁が「おお、この苔は……! この微妙な色のグラデーションは……! 一句詠まずにはおれん!」と縁側で感涙にむせんでいる声などが、絶妙な不協和音を奏でていた。
水月は軽くため息を一つ(の代わりに、絶対零度のオーラを1マイクロシーベルトほど放出した)。
「皆様、少々お耳を拝借。新たなご依頼が入りました。『依頼人の影が悪口を詠むので止めてほしい』とのことです。つきましては、誰がこの厄介……もとい、やりがいのある任務を担当するか、いつものように厳正なる審議の上、決定したいと思います」
いつものように、丸太ステージ兼会議テーブルの前に、岩鉄、草太(とポンキチ)、歌仙翁が集まった。
「影の悪口だと!? よし、俺の出番だな! 我が魂の咆哮を込めた一撃歌(いちげきか)で、影ごと本体の根性を叩き直してやるぜ!」
岩鉄は、拳を握りしめて鼻息荒く宣言する。脳筋の発想は常にストレートだ。
「い、岩鉄さん、そんなことしたら依頼人が……。影にもきっと、何か言いたいことがあるんですよ。まずは、対話で……」
草太がおずおずと提案すると、ポンキチが「きゅきゅきゅー!(訳:影は本体を映す鏡! 本体がだらしないから影も悪態つくんだ! まずは本体の生活習慣から改善させろ!)」と、相変わらず手厳しい。
歌仙翁は、「ふぉっふぉっふぉ。影が歌を詠むとは、なかなかに風流じゃのう。儂も若い頃、己の影と連歌バトルを繰り広げたものじゃ。たいがい影の辛辣なツッコミに打ちのめされて、三日ほど寝込んだがな。あれは良い修行になったわい」と、まるで他人事のように過去のトラウマを語っている。
水月は、三者三様の意見(になっていないものも含む)を聞き流しながら、冷静に分析を開始した。
(岩鉄様では、依頼人の影どころか、依頼人本人の精神まで粉砕しかねないわね。そうなったら、治療費の請求先でまた揉めることになりそうだし、面倒くさい。草太さんは……影に同情しすぎて、一緒に悪口大会を始めてしまう可能性が否定できない。ポンキチ君が加わったら、依頼人は再起不能になるわ。歌仙翁は……影と意気投合して、二人で悪口漫才コンビでも結成して、どこかへ旅立ってしまいそうね。そうなったら捜索隊を出すのがまた面倒くさい……)
結論は、一瞬で出た。
「皆様、貴重なご意見ありがとうございました。総合的に判断した結果、今回はわたくし、水月が担当させていただくことになりました。最近、少々取材スキルを磨きたいと考えておりましたので、依頼人の影に直接インタビューでもして、真相を究明してまいろうかと存じます」
その言葉に、ギルドメンバーは一様に目を丸くした。あの水月が、自ら「面倒くさそう」の代名詞のような案件に手を挙げるとは。明日は槍でも降るのではないか。いや、このギルドなら、槍どころか巨大みたらし団子が降ってきてもおかしくない。
依頼人の青年は、「え、あの、そんな、受付の方がわざわざ……?」と恐縮しきりだ。
水月は、表情一つ変えずに「これも業務の一環でございますので、お気になさらず。では早速、影の事情聴取とやらに参りましょうか」と、あっさり言い放った。
***
依頼人の青年の薄暗いアパートの一室。水月は、壁にぼんやりと映る青年の影と対峙していた。影は、確かに本人よりもどこかシニカルな雰囲気を漂わせているように見える。
「さて、影殿。単刀直入にお伺いしますが、なぜ依頼人殿に対して、毎夜辛辣な和歌を詠みかけるのでございますか? 何か、積年の恨みでも?」
水月の声はいつものように温度を感じさせないが、どこか探るような響きを含んでいた。
青年の影は、しばらく黙っていた。やがて、まるで水月の影に向かって囁くように、かすかな声で何かを告げる。すると水月の足元に伸びる彼女自身の影が、ほんの一瞬、ニヤリと口角を上げたように……水月には見えた。
(あら、私の影まで買収しようというのかしら。なかなか見どころのある影ね。しかし、私を買収するには、相当な対価が必要よ。例えば、幻の『星屑きなこ餅・宇宙の味がする』一年分とか)
そんなことを内心で思いつつ、水月は影の言葉を待った。
やがて青年の影は、ため息混じりに(影にため息がつけるのかどうかはさておき)口を開いた。その声は依頼人の声と似ているが、どこか嘲りを込めた響きだった。
「別に、恨みなんてないさ。ただ……本体があまりにも退屈な歌しか詠まないから、つい、愛のムチというか、創作意欲を刺激するスパイスというか……まあ、簡単に言えば、暇つぶしだな」
「暇つぶし、でございますか。それはまた、ずいぶんとタチの悪い暇つぶしですこと」
「ふん。本体がもっと、こう、魂を揺さぶるような、宇宙の真理に迫るような、あるいは腹筋が崩壊するほど面白い歌を詠んでくれれば、こっちだって悪口なんか言わずに済むんだ。要するに、全部本体が悪い」
影は、完全に責任転嫁する構えだ。依頼人の青年は隅の方で「うぅ……やっぱり僕の才能が……」と、さらに落ち込んでいる。
水月は、ふむ、と短く息を吐くと、再び懐から何かを取り出した。今度は、昨日厨房のあやめさんが試作していた「食べられるメモ帳・ほんのり昆布だし風味」の一片だ。そこに、すらすらと筆を走らせる。
影と影 密談交わし 何を企む 主(あるじ)知らぬ間に 世界征服か
「……ということで影殿。あなたの主張は理解いたしました。つまり、依頼人殿がもっと素晴らしい歌を詠めば、あなたは満足して悪口をやめる、ということでよろしいか?」
「まあ、そういうことだな。だが、期待はしていないがね。あの才能では、月が西から昇る方が早いだろう」
影の言葉はどこまでも辛辣だ。
水月は依頼人の青年に向き直った。
「カゲロウ様(水月が勝手につけた仮名)、そういうわけでございます。解決策はただ一つ。あなたの歌の才能を磨き、影殿を唸らせるような傑作を生み出すこと。これ以外に道はなさそうですわね」
「そ、そんな……無茶な……」
カゲロウは顔面蒼白だ。
「ご安心ください。当ギルドには、岩鉄様のような豪放磊落な歌風から、草太様のような繊細優美な歌風、果ては歌仙翁のような超現実的自由奔放歌風まで、様々なスタイルの歌人がおります。ご希望であれば、短期集中型の『スパルタ和歌ブートキャンプ・ポンキチ教官の地獄巡り付き』もご用意できますが、いかがなさいますか?」
「ひぃっ! それだけは勘弁してください!」
カゲロウは全力で首を横に振った。ポンキチ教官の噂は、界隈では恐怖の対象として知れ渡っているのだ。
結局カゲロウは「と、とりあえず、自分で頑張ってみます……」と弱々しく宣言し、水月は「では、健闘を祈ります。影殿も、あまり本体をいじめすぎないように。度が過ぎると、こちらとしても物理的な介入……例えば、『影を洗濯して縮ませる歌』とかを詠むことも検討せねばなりませんので」と、物騒な釘を刺してアパートを後にした。
ギルドに戻る道すがら、水月は(それにしても、私の影は一体何を囁かれてニヤリとしたのかしら。まさか『あんたの本体、実は無類の甘党で、新作スイーツのためなら絶対零度フィールドも解除するらしいぜ』とか、そんなしょうもない秘密を暴露されたのではあるまいな……)と、少しだけ自分の影の動向が気になった。
***
その日の午後、万葉歌人ギルドの厨房は、いつにも増してカオスな様相を呈していた。厨房の主(ぬし)、あやめさんが、またしても常人の理解を超えた新作スイーツの開発に没頭していたからだ。今日のテーマは「感情」らしい。
カウンターには、七色の怪しげなゼリーが並べられていた。
「水月さーん! 岩鉄さーん! 草太くーん! 新作『喜怒哀楽レインボーゼリー・感情直撃フレーバー』ができましたよー! 食べると、そのゼリーの色に対応した感情が、こう、ダイレクトに心の奥底からドーン! と湧き上がってくるんです! さあさあ、お試しあれ!」
あやめさんの目は、マッドサイエンティストのようにキラキラと輝いている。
最初に犠牲……いや、被験者となったのは、いつものように食いしん坊の岩鉄だった。彼は迷わず「怒り」を象徴する真っ赤なゼリーを一口で平らげた。
途端に岩鉄の顔がみるみる赤くなり、頭から湯気が出そうな勢いで叫び始めた。
「ウオオオオオッ! 燃える! 全てが燃えて見える! 許さん! この世の理不尽、不条理、そして中途半端な甘さの団子! 全てを我が怒りの炎で焼き尽くしてくれるわ! 今なら、火山の大噴火をテーマにした叙事詩が、最低でも百五十首は詠めるぞーっ!」
岩鉄は、近くにあった箒を振り回し、あやめさんの作った繊細な飴細工(妖精の昼寝を表現したもの)を粉砕しそうになる。水月が素早く「岩鉄様、その怒りは創作活動へ。ただし、ギルド内の器物破損は弁償となりますのでご注意を」と冷静に釘を刺し、事なきを得た。
次に繊細な草太が、「悲しみ」の青いゼリーを恐る恐る口にした。
すると草太の大きな瞳から、みるみると涙が溢れ出した。
「うっ……うっ……うわあああああん! 世界の……世界のあらゆる悲しみが……この胸に……! ああ、道端に咲く名もなき花も、いつかは枯れる運命……ポンキチ……お前だって、いつかは私より先に虹の橋を……うっ……考えただけで……胸が張り裂けそうだ……! ぽんきちいいぃぃ!」
草太はポンキチに抱きついて号泣し始めた。ポンキチは「きゅ、きゅるぅ?(訳:ちょ、旦那、重いんですけど!? まだまだピンピンしてますけど!?)」と、若干引き気味で困惑している。
歌仙翁は「楽しみ」の黄色いゼリーを味わい、「ほっほっほ、これは愉快じゃ! 何もかもが面白おかしく見えてくるわい! 見よ、そこの柱の木目までが、何やら滑稽な踊りを踊っておるように見えるぞ! あはははは! これは傑作の予感がするのう!」と、一人で大爆笑している。どうやらツボが浅くなったらしい。
水月は最後に残った「無」を象徴するという透明なゼリーを、無表情のまま口に運んだ。一同が固唾を飲んで見守る中、水月はしばらく黙っていたが、やがて静かに首を傾げた。
「……特に、何も。効果がないようですね。まあ元々、感情の起伏はマリアナ海溝の深海魚レベルと自負しておりますので、この程度の刺激では揺るがないのかもしれません」
しかし、水月は手元のメモ帳(今度は「食べられる習字半紙・墨汁の香りがする」)に、さらりと一句書きつけた。
七色の ゼリー食らへば 感情の ジェットコースター 発車オーライだ
(……それにしても、この感情ゼリー、使い方によっては非常に危険な代物ね。もし悪用されたら、世界征服だって可能かもしれないわ。例えば、敵国の王様に「悲しみ」のゼリーを大量に食べさせて戦意を喪失させるとか……いや、待てよ、もっと平和的な利用法は……そうだわ、『面倒くさい』という感情を消し去るゼリーがあれば、私はもっと効率的に仕事ができるのに。あやめさんに開発を依頼してみようかしら。副作用で語尾が『だっちゃ』になっても我慢するわ)
水月の脳内では、新たな発明のアイデアが次々と湧き上がっては消えていく。
そんな騒ぎの最中、ギルドに一通の奇妙な手紙が届けられた。差出人は「万葉の湯のヌシ・ナマズ衛門」とあり、手紙自体が巨大な乾燥昆布(ほんのり磯の香りがする)でできていて、文字はヌメヌメとした粘液のようなもので書かれていた。普通の人間には到底読めそうにない。
それでも水月はそれを手に取り、しばらく眉間に皺を寄せた(ように見えたが、実際には眉一つ動いていない)ものの、やおら口を開いた。
「これは……古代ナマズ語ですね。先日、ギルドの地下書庫で偶然見つけた『万葉ナマズ語会話入門・ヌメヌメ編』という奇書を読んだのが役に立ちましたわ」
そして、流暢な(と誰も判断できないが、水月が言うのだからそうなのだろう)口調で、昆布の手紙を読み上げ始めた。
「『拝啓 月詠の庵のクールビューティーな受付嬢様、及び愉快な歌人の皆様。先日は世話になったヌメ。おかげで源泉の寝息詰まりも解消し、万葉の湯は今日も元気に湧き出しているヌメ。つきましては近々、ナマズ界の歌の祭典『ヌメヌメ☆ソングフェスティバル』を開催する運びとなったヌメ。ぜひとも、月詠の庵の皆様をスペシャルゲストとしてお招きしたいヌメ。特に、水月殿のあの絶対零度な歌声は、我々ナマズ族の琴線にビンビン響くヌメ。お越しいただけた暁には、謝礼として我が秘蔵の『光る泥団子・プレミアムゴールド』を山ほど進呈するヌメ。敬具 ナマズ衛門』……とのことですわ」
ギルド内は、一瞬静まり返った。
岩鉄が最初に「おお! ナマズの歌祭りだと!? 面白そうだ! 光る泥団子も気になる!」と乗り気になり、草太は「ナマズさんにも歌が……文化があるんですね……なんだか感動します」としみじみ。歌仙翁は「ほう、ナマズの歌とは興味深い。儂の猫語の歌とコラボレーションしたら、新たな芸術が生まれるかもしれんのう」と、早速妄想を膨らませている。
水月は返信用に新しい木簡(今度は白樺の皮)を用意しながら、内心で呟いた。
(光る泥団子・プレミアムゴールド……ね。普通の泥団子と何が違うのかしら。食べられるのかしら。それとも、磨けば本当に金になるとか? でも、それより興味があるのは、万葉の湯の年間フリーパスの方なのだけど。ナマズ衛門様は、そこらへんの交渉に応じてくださるかしら……)
そして返信用の歌をさらりと詠んだ。もちろん、口に出さず、心の中でだけ。
ナマズ殿 お誘い嬉し 泥団子 それより欲しいは 温泉(ゆ)のパス一年
***
その日の夕暮れ時、ギルドの受付カウンターの隅で、哲学するナメクジ「ナメゾウ」に、驚くべき変化が訪れた。
いつもは「ぬぅ……」「むぅ……」と低く呻くような声(水月以外には聞こえない)を発していたナメゾウが、突如、朗々とした、それでいてどこか物悲しい響きを持つ声で(これも水月以外にはほぼ聞こえないが、いつもよりクリアに聞こえた)、こう歌い上げたのだ。
「あな、おもしろ。世界は歌にこそ満ち満ちてありけるものを。このはかなき身なれども、思いの丈、一首詠み奉らん」
ナメゾウは、ゆっくりと、しかし確かに、言葉を紡いだ。
ぬめぬめと 這(は)ひ行く我の 道すがら 見上げる空は あまりに青し
その歌を聞いた瞬間、ギルドにいた岩鉄、草太、歌仙翁は、文字通り飛び上がらんばかりに驚いた。
「「「ナ、ナメクジが喋ったあああああーーーーっ!!!」」」
三人の絶叫が、ギルドの天井を揺るがす。ポンキチも「きゅきゅきゅーっ!?(訳:マジかよ!? このナメクジ、ただのナメクジじゃなかったのか!?)」と目を白黒させている。
依頼人のカゲロウ(まだギルドにいた)は、影の悪口より衝撃的な出来事に遭遇し、完全に魂が抜けたような顔で固まっていた。
ただ一人、水月だけがいつものように冷静だった。
「あら、ナメゾウ。ついに悟りの境地に至りましたか。なかなか風流な歌でございますこと。次はぜひ、情熱的な恋の歌でも詠んでみてはいかがでしょう? あなたの粘液のように、とろけるような甘美な一首を期待しておりますわ」
その言葉に、ナメゾウは(水月にしか見えないが)わずかに頬を染めたように見えた。そして、また一句。
ナメクジの 恋歌(こひうた)聞かば 岩が根も 心動きて 涙するらむ
「……お見事。ナメクジの恋が岩をも動かすとは、なかなか壮大なスケールですわね。もしかしたら、あなたの歌がいつかアストラルディアの歴史を変える日が来るかもしれませんわね。例えば、ナメクジの権利向上運動のテーマソングになるとか」
水月は、真顔でそんなことを言いながら、ナメゾウの詠んだ歌を丁寧に記録していた。
やがてギルドの扉が、本日何度目かの音を立てて開いた。現れたのはライオネル隊長だった。しかし、その顔はなぜか疲労困憊しており、自慢の兜の羽飾りは、無残にもインコのフンらしきもので汚れていた。
「た、頼む! 水月殿! またしても厄介事が……! 我が兜の羽飾りが、今度は部下のホソイが最近飼い始めたインコの『ピー助』にそっくりだと言い出してな……! そしたら、そのピー助が我が兜に懐いてしまって、頭から全く離れんのだ! おかげで執務もままならず……! 歌の力で、どうかピー助を説得してくれんか!?」
ライオネル隊長の悲痛な叫びに、水月は本日何度目かの、そして最も深いため息を(の代わりに、絶対零度フィールドの出力をわずかに上げた)ついた。
(ああ、また兜案件……。このギルドは、一体いつになったら平和な一日を迎えられるのかしら。まあ、平和になったらなったで、退屈で死んでしまうかもしれないけれど)
そんなことを思いながら、水月は今日の出来事を振り返り、いつものように、心の中で静かに一句詠んだ。それは今夜の厨房のメニュー――あやめさん特製『満漢全席風お好み焼き・時空の歪みを添えて』――への、ささやかな期待を込めた歌だった。
秋茄子の 煮浸し想へば 戦ひも 恋の悩みも どうでもよしと
結局この日もまた、万葉歌人ギルド『月詠の庵』では、何一つ具体的な問題は解決せず、ただ意味のない歌が生まれ、ゆるふわな時間と、奇想天外な出来事が積み重なっていくだけだった。
ピー助を兜から引き離す歌合戦が始まるのか、ナマズの歌祭りにギルド総出で参加するのか、それとも屋根裏の住人の正体が明かされる日は来るのか――その答えは、明日の風と、水月の脳内奇想天レンダーだけが知っているのかもしれない。そして、たぶん、誰もそこまで気にしていない。
それが、ここ『月詠の庵』の日常なのだから。