まだ空が淡い藍色に染まる早朝。王都〈ルミアステラ〉の石畳の通りには、朝靄に包まれた静寂が残っていた。そんななか、筆の家・厨房亭の入口では、ひときわ目を引く純白の布がゆっくりと掲げられようとしていた。
布地は朝露にほんのり湿り、柔らかな光を受けて透けるよう。そこには、濃墨でゆったりとした筆遣いふの文字が躍る。
【筆の家 厨房亭】
──あなたの心にも、物語を一皿──
「……よし、完成ばい!」
ルナが両手を腰に当て、誇らしげにのれんを見上げる。陽光を受けた白布が、ふわりと揺れて美しいシルエットを描いた。隣で妹のモモが、満面の笑顔で跳ね回りながら声を上げる。
「のれんちゃん、ちゃんとゆらゆらしてるー!」
ティアは冷静に布地の端をつまみ、軽く魔力結界を整える。布のインクが日に焼けず、湿気に耐えるよう魔力加工されているのを確認して、満足げに頷いた。
「見た目も完璧ですわ。筆文字の墨揮発抑制ルーンも仕込んだので、数年は色褪せません」
そこへ、厨房からミランダが静かに現れた。白いコックコートの裾を整え、深呼吸ひとつ。
「厨房は全稼働で準備完了です。朝仕込みも滞りなく終えましたわ」
リュウは最後に原稿帳をそっと閉じ、空を仰いだ。胸の奥に高まる期待と緊張を感じながら、ゆっくりと頷く。
「よし、やるか。筆の家、オープンだ」
開店一時間後。
店先の行列は角を二つ、三つと曲がり、遠くまで続いていた。心地よい秋風に混じって、人々のざわめきが秋色の香りと重なる。
「えっ、こんなに来るとは……!」
ルナが目をまん丸にして叫ぶ。
看板メニューの「ふわとろスフレ芋」は、開店15分で完売。
店内ではフィナとモモが慌ただしく立ち働き、ルナがレジの前で笑顔をふりまく。
「モモ、お冷お願い!」
「はーい! ふわふわでっす!!」
フィナは伝票を次々と回しながら、慌てつつも凛とした佇まいだ。
「ティア、魔力加熱炉の圧が上がりすぎてるぞ!」
「すでに補正中です! 芋チップが今、最もカリカリの状態にあります!」
厨房の中心でミランダは、落ち着いた声で指示を飛ばす。
「リュウ、ソースの温度をあと3度下げて! 焦げそうよ」
「了解っ! ……あ、手書きで火力下げるところだった!?」
「そこ、メニューじゃなくてレシピ帳のページよ!」
お互いに声を掛け合い、時折笑い声を漏らしながら、厨房は活気に満ちていた。
客席のあちこちからは
「おいしい!」「優しい味」「まるで物語みたい」と、驚きと称賛のささやきが零れる。
◆◆◆
正午を過ぎ、昼の営業が一段落すると、スタッフは縁側に並んで腰を下ろした。薪小屋を背景に、青空と街並みが遠景に広がる。
ルナがふと呟く。
「……なんか、思ったより悪くなかったな」
リュウはスープの香りを吸い込むように目を細め、ぽつりと言った。
「うん。俺も最初は緊張したけど、こうしてみんなで笑えたなら、本望だよ」
フィナも小さく微笑みながら頷く。
「お客さんの笑顔、ほんとに嬉しかった……」
エルドは得意げに片手でメガネを押し上げ、ひそひそ声で言う。
「“料理は科学”という論文執筆のインスピレーションも、また一歩進みましたね……!」
「それはちょっと違うと思う」
ミランダが静かに一口のお茶を飲み、柔らかな笑みを浮かべた。
「でも私もね……思い出したの。“誰かが笑うために作るごはん”って、やっぱりすごく幸せなことなんだって」
リュウは空を仰ぎ、静かに原稿帳を開いた。
「筆の家からは、今日もあたたかな湯気と、心を満たす物語の香りが立ち上る。」
その文章を書き終えると、リュウはふっと胸を解き放った。
「また、書かないとな。“今日”を残す物語をさ」
一同が顔を上げ、風に揺れるのれんを見つめる。
朝の静けさを破って始まった一日。
笑い声と鍋の音に彩られた時間は、また一ページめくられていく。