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第31話 開店、筆の家・厨房亭!

 まだ空が淡い藍色に染まる早朝。王都〈ルミアステラ〉の石畳の通りには、朝靄に包まれた静寂が残っていた。そんななか、筆の家・厨房亭の入口では、ひときわ目を引く純白の布がゆっくりと掲げられようとしていた。


 布地は朝露にほんのり湿り、柔らかな光を受けて透けるよう。そこには、濃墨でゆったりとした筆遣いふの文字が躍る。


【筆の家 厨房亭】

──あなたの心にも、物語を一皿──


「……よし、完成ばい!」

 ルナが両手を腰に当て、誇らしげにのれんを見上げる。陽光を受けた白布が、ふわりと揺れて美しいシルエットを描いた。隣で妹のモモが、満面の笑顔で跳ね回りながら声を上げる。


「のれんちゃん、ちゃんとゆらゆらしてるー!」


 ティアは冷静に布地の端をつまみ、軽く魔力結界を整える。布のインクが日に焼けず、湿気に耐えるよう魔力加工されているのを確認して、満足げに頷いた。


「見た目も完璧ですわ。筆文字の墨揮発抑制ルーンも仕込んだので、数年は色褪せません」


 そこへ、厨房からミランダが静かに現れた。白いコックコートの裾を整え、深呼吸ひとつ。


「厨房は全稼働で準備完了です。朝仕込みも滞りなく終えましたわ」


 リュウは最後に原稿帳をそっと閉じ、空を仰いだ。胸の奥に高まる期待と緊張を感じながら、ゆっくりと頷く。


「よし、やるか。筆の家、オープンだ」


 開店一時間後。


 店先の行列は角を二つ、三つと曲がり、遠くまで続いていた。心地よい秋風に混じって、人々のざわめきが秋色の香りと重なる。


「えっ、こんなに来るとは……!」

 ルナが目をまん丸にして叫ぶ。


 看板メニューの「ふわとろスフレ芋」は、開店15分で完売。


 店内ではフィナとモモが慌ただしく立ち働き、ルナがレジの前で笑顔をふりまく。


「モモ、お冷お願い!」

「はーい! ふわふわでっす!!」


 フィナは伝票を次々と回しながら、慌てつつも凛とした佇まいだ。


「ティア、魔力加熱炉の圧が上がりすぎてるぞ!」

「すでに補正中です! 芋チップが今、最もカリカリの状態にあります!」


 厨房の中心でミランダは、落ち着いた声で指示を飛ばす。


「リュウ、ソースの温度をあと3度下げて! 焦げそうよ」

「了解っ! ……あ、手書きで火力下げるところだった!?」

「そこ、メニューじゃなくてレシピ帳のページよ!」


 お互いに声を掛け合い、時折笑い声を漏らしながら、厨房は活気に満ちていた。


 客席のあちこちからは

「おいしい!」「優しい味」「まるで物語みたい」と、驚きと称賛のささやきが零れる。


 ◆◆◆


 正午を過ぎ、昼の営業が一段落すると、スタッフは縁側に並んで腰を下ろした。薪小屋を背景に、青空と街並みが遠景に広がる。


ルナがふと呟く。

「……なんか、思ったより悪くなかったな」


リュウはスープの香りを吸い込むように目を細め、ぽつりと言った。

「うん。俺も最初は緊張したけど、こうしてみんなで笑えたなら、本望だよ」


 フィナも小さく微笑みながら頷く。

「お客さんの笑顔、ほんとに嬉しかった……」


 エルドは得意げに片手でメガネを押し上げ、ひそひそ声で言う。

「“料理は科学”という論文執筆のインスピレーションも、また一歩進みましたね……!」

「それはちょっと違うと思う」

 ミランダが静かに一口のお茶を飲み、柔らかな笑みを浮かべた。


「でも私もね……思い出したの。“誰かが笑うために作るごはん”って、やっぱりすごく幸せなことなんだって」


 リュウは空を仰ぎ、静かに原稿帳を開いた。


「筆の家からは、今日もあたたかな湯気と、心を満たす物語の香りが立ち上る。」


 その文章を書き終えると、リュウはふっと胸を解き放った。


「また、書かないとな。“今日”を残す物語をさ」


 一同が顔を上げ、風に揺れるのれんを見つめる。



 朝の静けさを破って始まった一日。

 笑い声と鍋の音に彩られた時間は、また一ページめくられていく。

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