昼下がりの厨房亭は、朝の喧騒が嘘のように落ち着きを取り戻していた。窓から差し込む柔らかな陽射しに、木目の床が温かく照らされ、壁に飾られたスパイスやハーブの瓶が淡く輝いている。店内には、食後の余韻だけがそっと残り、空気はふんわりとやわらかかった。
「ふうっ……今日も無事に終わったたい」
お盆を抱えたまま、ルナはテーブルにどかりと腰を下ろす。肩の緊張が解ける音が聞こえてきそうなほどの大きなため息だ。
「にんじんサラダが完売でした〜! ティアさんの精霊ハーブ、やっぱり効いたみたいです!」
フィナは笑顔をはじけさせながら、満足そうに報告する。その隣でティアが帳簿を閉じ、優雅に頷いた。
「ええ。魔力浸透率を精密に計算し、最高の香りと渋みのバランスを狙った甲斐がありましたわ。モモ、今日の感想と改善点を日誌にまとめてくださる?」
「はーい、“今日もぴょんぴょん美味しかった”って書いとくね!」
モモの朗らかな声に、ルナは思わず目を丸くして苦笑した。
「それ、感想帳じゃなくて日誌なんだけど……」
厨房の奥からは、鍋を片付けるカチャカチャという音とともに、ミランダの澄んだ声が漏れてきた。
「リュウ、まかないできたわよ。今日はじゃが芋とセロリのスチーム煮。きみの芋、しっとり甘くて本当に美味しいわ」
「了解〜。じゃあ、みんなで囲んで食べよっか。……その前に、これ貼っておくか」
リュウは立ち上がり、カウンター脇の空いた壁に新しい紙札をぺたりと貼った。
【給仕係、募集中】
筆の家で一緒にごはんを届けてくれる人、歓迎します
「人手不足やもんなぁ……」
リュウがぽつりと言うと、ルナはうなずく。
「注文を通し、配膳して、会計して、笑顔を届けて……このサイクル、朝から晩まで止まらんもんな」
「リュウ、それって毎日筋トレ級だよ?」
エルドがからかい気味に吐き捨て、ティアがクスリと微笑む。
「“給仕は一種の魔術”ですわね……」
「厨房で寝落ちしてる姿、もう何度も見たしね」
ルナが苦笑する横で、リュウは自嘲気味に頭をかいた。
「誰か、いい人いないかなあ」
モモが期待を胸に目を輝かせ、フィナも優しく微笑んで頷いた。
ほどなくして、あつあつのスチーム煮とトマト&バジルのふんわりパンがテーブルに並ぶ。まかないの時間は、厨房亭の中でいちばん静かなひとときだ。
「うん……やさしい味やね。ミランダの料理って、派手じゃないけど、心にじんわり染みる」
「そうですね……ふわっと優しくて、身体の隅々まで温まる感じ」
「まるでスープが“帰っておいで”って声をかけてくれてるみたい……」
リュウはふと、ミランダの横顔を見つめた。少し疲れたような表情に隠された優しさが、湯気の向こうに滲んで見える。
「ねえ、ミランダさんって……もし失礼だったらごめんたいけど」
ルナが真面目な声で口を開く。
「ミランダさんって、今独り身なんやろ? こんなに料理上手で素敵なのに、どうしてかなって思って」
空気が一瞬止まり、ティアとフィナがちらりと目を合わせる。モモはパンをもぐもぐしながら、「え? だめだった?」ときょとんとした顔をする。
ミランダは手を止めず、ただ、やさしく笑って答えた。
「……あら、もうそんな風に見えちゃうのね。隠してたわけじゃないけれど……」
そして、ぽつりと話し始めた。
「若いころ、騎士だった人と結婚したの。優しくて、強くて、正義感のかたまりみたいな人だったわ」
「その人との間に、息子がひとり。利発でね。魔法よりも剣が好きで、父に憧れて同じ道を選んだの」
「でも……その“同じ道”が、仇になったのよ」
「魔王軍との戦いで、夫の部隊に息子が初陣として入れられた。王国としては安心と判断したのだけれど」
「結果は、二人とも、帰ってこなかった」
一瞬の静寂。誰もが言葉を飲み込み、手が止まる。
ミランダは変わらずお茶を一口含んでから続けた。
「それからしばらく、私も何も食べられなかった。味は消え、心は凍りついて……、でも、厨房だけは裏切らなかった。包丁の音は、私を生かし続けてくれた」
リュウが静かに訊ねる。
「……それでも、料理を続けたんだね」
「ええ。料理しか、私に残された道はなかったから」
だがミランダは、少し笑みをこぼしながら言った。
「今はね……こうしてまた、誰かのためにごはんを作れる。
この家に来て、みんなと分かち合い、笑顔をもらって。まるで家族がまた増えたみたいで、すごく幸せなのよ」
ルナはそっと涙を拭い、ぶっきらぼうに呟いた。
「やけん、ズルいって言ったと」
「ふふ……ありがとう」
ミランダは優しく笑った。
その夜、厨房亭の外に再び王宮の馬車が停まった。
扉から降りてきたのは、三人のメイド服の女性たち。そして一通の手紙。
『厨房亭、賑わっているようだな。人手不足と聞き、三人ほど給仕係を手配した。働きは保証する。あとは任せたぞ』
王国宰相 ラグレス
リュウは小声で呟く。
「……あの人、どこまで見えてるんだろう」
ルナは目を細め、静かに答えた。
「さすが王様の弟ばい……怖いくらい気が利くけんね」
こうして、筆の家にはまた新たな足音が加わった。
静かな日常は、少しずつ、しかし確実に新しい物語へと動き出していく。