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第32話 静かな日常、給仕係を探しながら

 昼下がりの厨房亭は、朝の喧騒が嘘のように落ち着きを取り戻していた。窓から差し込む柔らかな陽射しに、木目の床が温かく照らされ、壁に飾られたスパイスやハーブの瓶が淡く輝いている。店内には、食後の余韻だけがそっと残り、空気はふんわりとやわらかかった。


「ふうっ……今日も無事に終わったたい」

 お盆を抱えたまま、ルナはテーブルにどかりと腰を下ろす。肩の緊張が解ける音が聞こえてきそうなほどの大きなため息だ。


「にんじんサラダが完売でした〜! ティアさんの精霊ハーブ、やっぱり効いたみたいです!」

 フィナは笑顔をはじけさせながら、満足そうに報告する。その隣でティアが帳簿を閉じ、優雅に頷いた。


「ええ。魔力浸透率を精密に計算し、最高の香りと渋みのバランスを狙った甲斐がありましたわ。モモ、今日の感想と改善点を日誌にまとめてくださる?」

「はーい、“今日もぴょんぴょん美味しかった”って書いとくね!」

 モモの朗らかな声に、ルナは思わず目を丸くして苦笑した。


「それ、感想帳じゃなくて日誌なんだけど……」


 厨房の奥からは、鍋を片付けるカチャカチャという音とともに、ミランダの澄んだ声が漏れてきた。


「リュウ、まかないできたわよ。今日はじゃが芋とセロリのスチーム煮。きみの芋、しっとり甘くて本当に美味しいわ」

「了解〜。じゃあ、みんなで囲んで食べよっか。……その前に、これ貼っておくか」


 リュウは立ち上がり、カウンター脇の空いた壁に新しい紙札をぺたりと貼った。


【給仕係、募集中】

筆の家で一緒にごはんを届けてくれる人、歓迎します


「人手不足やもんなぁ……」

 リュウがぽつりと言うと、ルナはうなずく。


「注文を通し、配膳して、会計して、笑顔を届けて……このサイクル、朝から晩まで止まらんもんな」

「リュウ、それって毎日筋トレ級だよ?」

 エルドがからかい気味に吐き捨て、ティアがクスリと微笑む。


「“給仕は一種の魔術”ですわね……」

「厨房で寝落ちしてる姿、もう何度も見たしね」

 ルナが苦笑する横で、リュウは自嘲気味に頭をかいた。


「誰か、いい人いないかなあ」

 モモが期待を胸に目を輝かせ、フィナも優しく微笑んで頷いた。


 ほどなくして、あつあつのスチーム煮とトマト&バジルのふんわりパンがテーブルに並ぶ。まかないの時間は、厨房亭の中でいちばん静かなひとときだ。


「うん……やさしい味やね。ミランダの料理って、派手じゃないけど、心にじんわり染みる」

「そうですね……ふわっと優しくて、身体の隅々まで温まる感じ」

「まるでスープが“帰っておいで”って声をかけてくれてるみたい……」


 リュウはふと、ミランダの横顔を見つめた。少し疲れたような表情に隠された優しさが、湯気の向こうに滲んで見える。


「ねえ、ミランダさんって……もし失礼だったらごめんたいけど」

 ルナが真面目な声で口を開く。


「ミランダさんって、今独り身なんやろ? こんなに料理上手で素敵なのに、どうしてかなって思って」


 空気が一瞬止まり、ティアとフィナがちらりと目を合わせる。モモはパンをもぐもぐしながら、「え? だめだった?」ときょとんとした顔をする。


 ミランダは手を止めず、ただ、やさしく笑って答えた。


「……あら、もうそんな風に見えちゃうのね。隠してたわけじゃないけれど……」


 そして、ぽつりと話し始めた。


「若いころ、騎士だった人と結婚したの。優しくて、強くて、正義感のかたまりみたいな人だったわ」

「その人との間に、息子がひとり。利発でね。魔法よりも剣が好きで、父に憧れて同じ道を選んだの」

「でも……その“同じ道”が、仇になったのよ」

「魔王軍との戦いで、夫の部隊に息子が初陣として入れられた。王国としては安心と判断したのだけれど」

「結果は、二人とも、帰ってこなかった」


 一瞬の静寂。誰もが言葉を飲み込み、手が止まる。


 ミランダは変わらずお茶を一口含んでから続けた。


「それからしばらく、私も何も食べられなかった。味は消え、心は凍りついて……、でも、厨房だけは裏切らなかった。包丁の音は、私を生かし続けてくれた」


 リュウが静かに訊ねる。


「……それでも、料理を続けたんだね」

「ええ。料理しか、私に残された道はなかったから」


 だがミランダは、少し笑みをこぼしながら言った。


「今はね……こうしてまた、誰かのためにごはんを作れる。

この家に来て、みんなと分かち合い、笑顔をもらって。まるで家族がまた増えたみたいで、すごく幸せなのよ」


 ルナはそっと涙を拭い、ぶっきらぼうに呟いた。


「やけん、ズルいって言ったと」

「ふふ……ありがとう」

 ミランダは優しく笑った。


 その夜、厨房亭の外に再び王宮の馬車が停まった。

 扉から降りてきたのは、三人のメイド服の女性たち。そして一通の手紙。


『厨房亭、賑わっているようだな。人手不足と聞き、三人ほど給仕係を手配した。働きは保証する。あとは任せたぞ』

 王国宰相 ラグレス


 リュウは小声で呟く。

「……あの人、どこまで見えてるんだろう」

 ルナは目を細め、静かに答えた。

「さすが王様の弟ばい……怖いくらい気が利くけんね」


 こうして、筆の家にはまた新たな足音が加わった。

 静かな日常は、少しずつ、しかし確実に新しい物語へと動き出していく。

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