深い夜の筆の家。すべてのランプが消えた客席には、静寂だけが広がっていた。逆さに伏せられた椅子の脚が並び、調理台の鍋もやかんも、きれいにしまわれている。営業の幕が閉じられたはずの厨房に、ただひとつだけ、淡い橙色の明かりが残っていた。
「……砂糖、もう少し控えめでもよかったかしら」
ミランダは木製の調理台に向かい、小鍋をそっとかき混ぜながら、自分の作った一皿を見つめた。
そこには、シンプルな「芋団子のミルク煮」が並んでいる。
黄金色のじゃが芋をひと口大に丸め、薄く小麦粉をまぶして蒸し上げた団子は、外はふわり、中はもっちり。そこに牛乳と蜂蜜を加え、じんわりと煮詰めた後、火を止めてからほんのひと振りのシナモンを散らしただけ。飾り気はないが、どこか懐かしい、心がほっと安らぐ味わいだ。
「また……作ってしまったわね」
ミランダは、自嘲するように小さく微笑み、香る湯気をそっと手の甲で押さえた。
かつて、この味は彼女の「我が家の味」だった。
若き日に結婚した騎士の夫が好み、息子がまだ小さかった頃、「熱々で口の中をやけどしながらも笑って食べてくれた」あの味。甘い主菜、当時の王国では珍しいレシピだが、ミランダの家族だけの特別な一皿だった。
「……夫は、少しだけ冷ましてから食べるのが好きだった。息子は熱いままかじりついて、いつも『もっと熱い方が好き!』なんてはしゃいで……」
遠い記憶に沈む声が、鍋をかき混ぜる音にかすかに溶け込む。
そのとき
「……おいしそうな匂いがするって思ったら、やっぱり誰かいたか」
カウンター越しにリュウの声が響いた。手には、原稿用紙と洗い物用のふきんがしっかり握られている。
ミランダは驚きもせず、淡く笑って答える。
「あなたに言われたくないわね。“夜な夜な筆を走らせる男”に」
リュウはふきんをひらりと棚に掛け、原稿用紙を胸に抱えた。
「ま、それはともかく。余ってるなら……もらってもいい?」
「どうぞ。文句は言わせないわ。これは私の大切な、一族の味だから」
ミランダは小鉢に団子をすくい入れ、そっとリュウに差し出した。
「いただきます」
リュウはひと口大の団子をクチに入れる。ミルクの甘さと芋のほのかな香り、シナモンの温かな余韻がじんわり広がり、そのまま記憶の底へと誘われるようだった。
「……これは、なんだろうな。すごく、“誰かと一緒に食べたくなる”味だ」
リュウの言葉に、ミランダの手が止まる。深い夜の静寂の中、彼女はそっと目を閉じた。
「……そう言ってもらえると、少し救われるわ」
ミランダは小さく微笑み、ぽつりと呟いた。
「……ミランダさん、俺ね……筆の家をやってきて、本当によかったって思うんだ」
リュウはふいに打ち明けるように続けた。
「誰かが、ここでしか作れない一皿を出してくれるとき。
それって、物語そのものなんじゃないかなって」
深い夜に紡がれた、一皿の記憶。
その夜、リュウの原稿にはこう綴られた。
「夜更けの厨房。ひとつの鍋と、ひとつの皿と、そして、誰かのために残された“家族の味”があった。その温もりは、この家に集うすべての人を、静かに、優しく包み込む魔法だった。」
遠く上の階からは、三姉妹メイドのはしゃぎ声とルナの「うるさいばい!」がかすかに響く。
それもまた、筆の家に息づく何気ない日常。
そしてミランダの目元には、ひとすじの涙がそっと光を映し出し、消えていった。