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第34話 ミランダの夜更け、ひと皿の記憶

 深い夜の筆の家。すべてのランプが消えた客席には、静寂だけが広がっていた。逆さに伏せられた椅子の脚が並び、調理台の鍋もやかんも、きれいにしまわれている。営業の幕が閉じられたはずの厨房に、ただひとつだけ、淡い橙色の明かりが残っていた。


「……砂糖、もう少し控えめでもよかったかしら」

ミランダは木製の調理台に向かい、小鍋をそっとかき混ぜながら、自分の作った一皿を見つめた。


 そこには、シンプルな「芋団子のミルク煮」が並んでいる。

 黄金色のじゃが芋をひと口大に丸め、薄く小麦粉をまぶして蒸し上げた団子は、外はふわり、中はもっちり。そこに牛乳と蜂蜜を加え、じんわりと煮詰めた後、火を止めてからほんのひと振りのシナモンを散らしただけ。飾り気はないが、どこか懐かしい、心がほっと安らぐ味わいだ。


「また……作ってしまったわね」

 ミランダは、自嘲するように小さく微笑み、香る湯気をそっと手の甲で押さえた。


 かつて、この味は彼女の「我が家の味」だった。

 若き日に結婚した騎士の夫が好み、息子がまだ小さかった頃、「熱々で口の中をやけどしながらも笑って食べてくれた」あの味。甘い主菜、当時の王国では珍しいレシピだが、ミランダの家族だけの特別な一皿だった。


「……夫は、少しだけ冷ましてから食べるのが好きだった。息子は熱いままかじりついて、いつも『もっと熱い方が好き!』なんてはしゃいで……」

 遠い記憶に沈む声が、鍋をかき混ぜる音にかすかに溶け込む。


 そのとき


「……おいしそうな匂いがするって思ったら、やっぱり誰かいたか」

 カウンター越しにリュウの声が響いた。手には、原稿用紙と洗い物用のふきんがしっかり握られている。


 ミランダは驚きもせず、淡く笑って答える。

「あなたに言われたくないわね。“夜な夜な筆を走らせる男”に」

 リュウはふきんをひらりと棚に掛け、原稿用紙を胸に抱えた。


「ま、それはともかく。余ってるなら……もらってもいい?」

「どうぞ。文句は言わせないわ。これは私の大切な、一族の味だから」

 ミランダは小鉢に団子をすくい入れ、そっとリュウに差し出した。


「いただきます」

 リュウはひと口大の団子をクチに入れる。ミルクの甘さと芋のほのかな香り、シナモンの温かな余韻がじんわり広がり、そのまま記憶の底へと誘われるようだった。


「……これは、なんだろうな。すごく、“誰かと一緒に食べたくなる”味だ」

 リュウの言葉に、ミランダの手が止まる。深い夜の静寂の中、彼女はそっと目を閉じた。


「……そう言ってもらえると、少し救われるわ」

 ミランダは小さく微笑み、ぽつりと呟いた。


「……ミランダさん、俺ね……筆の家をやってきて、本当によかったって思うんだ」

リュウはふいに打ち明けるように続けた。


「誰かが、ここでしか作れない一皿を出してくれるとき。

それって、物語そのものなんじゃないかなって」


 深い夜に紡がれた、一皿の記憶。


 その夜、リュウの原稿にはこう綴られた。


「夜更けの厨房。ひとつの鍋と、ひとつの皿と、そして、誰かのために残された“家族の味”があった。その温もりは、この家に集うすべての人を、静かに、優しく包み込む魔法だった。」


 遠く上の階からは、三姉妹メイドのはしゃぎ声とルナの「うるさいばい!」がかすかに響く。

 それもまた、筆の家に息づく何気ない日常。


 そしてミランダの目元には、ひとすじの涙がそっと光を映し出し、消えていった。

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