王都・王宮、謁見の間。重厚な石壁に囲まれ、天井からは月の光を模した魔導ランプが静かに灯っている。緊張に包まれた空気の中、玉座に座すルミアステラ国王は、薄紫の外套を肩に優雅にたたえていた。脇には威厳ある内大臣、その隣には鎧をまとった近衛騎士団長。そして異色の来賓、筆の家代表のリュウ、ルナ、ティア、ミランダに加え、かつての魔王ダルクス、今はマオと名乗る一行が整然と並ぶ。
突如、重々しい沈黙を破ったのはマオだった。小柄な少年の姿とは裏腹に、その声は曾(かつ)て魔界を掌握した威厳を保っている。
「陛下。我、かつての魔王ダルクス。今はマオと申す。あの大天使の脅威を止めるため、魔族軍を再結集しております」
国王は鋭い眼差しでマオを見据え、静かに頷いた。
「芋王城の主ことマオ殿か。息子のレオネルと親交があると聞く。奇妙な縁よのう」
議場にはどよめきと緊張が渦巻く。近衛騎士団長が険しい顔で口を開く。
「魔族と手を組むとは……王都の者として到底承服できぬ。そもそも天使相手に、対話など通じるのか?」
「手を組むも何も、魔族とは同盟関係にあるはずだ」
「歴史を辿ると天使が現れた時は、大陸が焦土とかするとある」
ミランダが踵(かかと)で床を軽く叩き、低い声で発言した。
「現状、“外部干渉無効”の大天使には剣も魔法も効きません。戦っても無駄死にするだけ、ならば、他の道を模索すべきです」
そこでリュウが一歩前に進み、静かに口を開いた。
「我々に提案があります」
ざわりと、議場の空気が揺れた。国王も内大臣も眉を寄せる。
「筆の家の主人が、何か妙案でも?」
「はい。私は、戦う場ではなく“語る場”を創りたいのです」
戸惑いの声が各所から上がる中、リュウは続ける。
「私のチート能力『書いたことが現実化』は、大天使には無効。しかし、書けないなら“書くための舞台”を生み出せばいいと思いまして」
ティアが目を輝かせる。
「神域の模写、いわゆる『神の系譜』に干渉する書き方ですね……その発想、まさに原初の魔法記述!」
エルドは小声で呟いた。
「……下手すると世界がバグりそうだけど、ワクワクするね」
「そのバグ、今回は起こしてほしいばい」
リュウは筆を構え、嬌(たわ)む雲間に心を集中させた。
《この世界の空と大地の狭間に『宙庭(ちゅうてい)』と呼ぶ“対話の聖域”を出現させる。そこは天使も魔族も、剣も魔法も封じられ、言葉だけが通じる“筆の家製・中立交渉場”である。戦いを望む者には開かれず、対話を願う者の前にのみ扉が現れる──》
カリッ。
その一筆が刻まれた瞬間、天井の魔導ランプが一斉に青白く揺らめき、謁見の間の奥、雲を貫く天窓の向こうに、淡い光輪が静かに浮かび上がった。
神々の居ぬ天界と大地の隙間に、“交渉の舞台”が誕生したのだ。
◆◆◆
その夜。筆の家ログハウス前。
ハンモックに揺られながら、リュウは呟く。
「……俺、なんでこんなことしてるんだっけ?」
ルナが枝豆を一本差し出し、囁いた。
「スローライフしたかっちゃろ?」
「……うん、そうだった。のに、なんで天空に会議場を召喚してんの?」
「世界を救う準備ばい」
リュウは目を閉じ、大きく息を吐いた。
「もうスローライフじゃないこれぇぇぇ……!」
木漏れ日の下、マオが芋を焼きながら言った。
「リュウ、次は“大天使におにぎりを握らせる”ってのはどうだ?」
「そんな展開、聞いたことねぇよ――!」
だが、この世界なら、きっと何でも起きる。
◆◆◆
その日、空に扉が現れた。
筆の家ログハウス前の大地から、一歩、宙へと踏み出す「天の階段」。その先に広がるのは、誰のものでもない無垢(むく)の空間。リュウが筆で描き出した、対話専用領域『宙庭(ちゅうてい)』だった。
「……本当に、来るんだな……天使」
リュウは小さく息を吐く。周囲にはルナ、ティア、ミランダ、マオ、そして内大臣付きの使者が並ぶ。
「天使側も、力を振るえぬ場にわざわざ来るということは……交渉の意思あり、だろう」
ルナが静かに言い、皆もうなずいた。
「俺のチートは効かない。でも、“舞台を制する”力なら、まだある」
宙庭は果てない水鏡のように静かで、足跡ひとつ残らない。言葉を紡げば、微かなさざ波が光を弾く。
そのとき。
六枚の白銀の翼を携え、白金の鎧をまとった一柱(いっちゅう)の存在が、天階を降り立った。顔は無表情、目は虚無を湛(たた)え、声もなくただ名を告げる。
「大天使セラフィエル、我、此処(ここ)に在り」
沈黙が宙庭を包む中、リュウは一歩前へ出て、ゆっくりと言った。
「ようこそ、でいいのか分かりませんが。筆の家のリュウです」
深く息を吸い、言葉を続ける。
「まず伝えたいのは、“誰も、あなたと戦いたくない”ということ」
セラフィエルは無言でうなずく。次いで、厳かな調子で返した。
「貴殿、人ではない。“具現の筆”……か」
リュウは苦笑しながら言い返す。
「まぁ、そう呼ばれています。でも俺は、ただのスローライフ志望者です」
「争いを望まぬ者が、なぜ宙庭を描く?」
セラフィエルの問いに、リュウは瞳を輝かせた。
「俺も自分でも分からない。でも、描かずにはいられなかった。“これ以上、誰も消えないように”って思いで」
宙庭に風のようなさざめきが広がり、セラフィエルは静かに頷いた。
「貴殿の願い、理解した」
そして、問いを放つ。
「ならば問おう。理(ことわり)を乱す魔族との共存を、貴殿は肯(うべな)うのか?」
リュウは迷わず答えた。
「肯(うべな)います。だって、マオは芋焼き職人として有能だし」
「理由、浅きこと甚だしい(はなはだしい)」
「でも平和にはちょうどいいと思うんですよ?」
ルナがそっと囁く。
「リュウ、ちゃんと話できてるばい」
「……マジ? 天使と会話できてる俺って、すごくない!?」
「今だけは調子に乗らんでよし!」
ルナが小突(こつ)く。
リュウは再びセラフィエルへ向き直り、誠実に続けた。
「俺が生きている限り、地上の平和は任せてほしい。スローライフを願う者として、秩序を乱すことはしません」
沈黙が宙庭を満たした。やがて
交渉、成立。
条件付きではあるが、大天使セラフィエルは「筆の家のリュウ」を中立管理者として認め、人族と魔族の今後の協議における立会人となることを約束した。
力で制するのではなく、言葉と想いで紡ぐ未来。
それは、一筆から生まれた新たな「筆の家連合」の始まりである。
「よしっ! やった! 戦争回避! 筆の勝利っ!」
リュウは帰還したログハウスで絶叫し、全力でハンモックへ飛び込んだ。
「ねえルナ、これでさ、今度こそ……」
「“スローライフに戻れる”って言いたかと?」
「うん……」
ルナは優しく首を振った。
「残念。あの天使、筆の家に“おにぎりの献上”を依頼しとったばい」
「も、もう嫌だあああああ!!」
「冗談たい」
空は高く、風は涼しく。今日もどこかで、味噌と米の香りが静かに広がっている。
リュウのスローライフは、まだまだ始まらない。