筆の家王都支店と厨房亭は、本日も戦場のように大盛況だった。
焼きおにぎりに味噌玉セット、試食コーナーは朝から行列の連続。接客、会計、味噌仕込み、ルナはまさに全身全霊をかけて立ち働いていた。
「ったく……! この忙しかとに、リュウはどこにおるとね!?」
腰に手を当て、怒りの声が厨房中に響く。辺りを駆け抜ける香ばしい煙が、焦げた味噌の匂いを運んでいった。
◆◆◆
その頃。
「……あっつぅ……このお茶、もうちょい温度下げればよかったかな」
リュウが扇子で湯気をあおるのは、異世界の空の狭間、中立領域『宙庭(ちゅうてい)』大天使との対話のために描かれたこの地には、今や立派な茶室がしつらえられている。
炉縁の緋色(ひいろ)畳、掛け軸の墨絵、木製の梁(はり)まで、その細部は驚くほどリアルだ。三畳ほどの小間に腰かけるのは三人。
筆の家代表・リュウ
元魔王ダルクス改め芋王マオ(芋焼き担当)
大天使セラフィエル(光属性・偏食気味)
という、地上では説明のつかない組み合わせだった。
「セラフィエルさん、このお茶、いかがでしょう?」
リュウが薄氷色の茶碗を差し出す。
「……人族の茶か。苦味の先に旨味がにじむ。悪くはない」
セラフィエルは静かに頷いた。
「渋みがわかる天使って、いるんだな……」
「では、次は我が焼いた芋を食べてみよ」
マオが恭しく差し出したのは、ホクホクの金色に輝く焼き芋。
セラフィエルは慎重に一口かじる。
「……! これは……天界の禁断の実というわけではあるまいな?」
「いや、ただの畑の芋です!」
「ならば良し。非常に美味である」
目に薄紅色の光を宿すセラフィエル。
「では、次は筆の家定番“塩むすびと味噌汁セット”だ」
リュウは折敷(おりじき)を取り出し、炊きたてササニシキでにぎった塩むすびと、味噌玉を溶かした味噌汁を並べる。
「これは如何なる食べ物か?」
「左手でおにぎり、右手で味噌汁を交互に口へ運ぶことで、白米の甘みと味噌の旨味が融合し、神域にほとばしる至福。渾然一体の恍惚体験が約束されます」
セラフィエル、真顔で無言のまま塩むすびを頬張り、味噌汁を啜(すす)る。
そして
「……これは……! これは……!!」
「これは?」
「この“おにぎりと味噌汁”こそ、世界を安寧(あんねい)へ導く聖食(せいしょく)……!」
「はーい、出たー!! 天使が称号付け始めたぁぁぁ!」
「我も同意する! 焼き芋と合わせると完璧だ!」
マオが両手を打ち合わせて喜ぶ。
「いや本当に、戦争じゃなくて食卓で解決する世界って尊いよね……」
リュウはしみじみと頷いた。
◆◆◆
その茶室での宴は、宙庭の静謐(せいひつ)に包まれたまま、そのまま誰にも知られることなく幕を閉じた。
地上の厨房で、ルナは依然として汗を流し続けている。
「……リュウ、今日帰ったら覚えとけよ?」
地上では、もう一つの“恐怖の天使”が降臨しようとしていた——。