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第2話  沈黙とさざなみ

六月が終わり、七月の風が制服の袖をかすめる。気づけばセミの声もちらほらと聞こえ始め、校舎の中には期末テストを前にした空気が漂い始めていた。みんな少しずつ気忙しくなっていく中で、僕だけがどこか取り残されているような感覚があった。


 学校に慣れてきたはずなのに、心のどこかが空っぽだった。いや、正確には空っぽになりかけていたその場所を、澪という存在がそっと埋めていた。


 だからこそ、その変化に、僕はすぐに気づいた。




「これ、借りてた本。返すね」


 放課後の図書室で、澪が差し出したのは、表紙に潮の跡のような模様が描かれた民話集だった。『海と人の物語』と、控えめな文字が表紙に刻まれている。古びたハードカバーで、図書室でもあまり借りられていない本だった。


「もう読んだの? けっこう分厚かったよね」


「うん、二回目」


 彼女は静かに言った。


 僕は少し驚いたけれど、それよりも、その本に挟まれた何枚かの付箋が目に入った。


「……気になるところに印、つけてるんだね」


 「うん。忘れないように」


 澪は本のページをぱらぱらとめくり、ある一節をそっと指でなぞった。


 “人間の恋は泡のよう。形を持って現れ、波にのまれて消える。”


 声に出さず、ただ目で読むその姿が、ひどく切なく見えた。


「……なんか、悲しいな」


 思わずこぼした僕の言葉に、澪は微かに笑った。


「うん。でも、美しいと思う」


 彼女の目は、遠くを見ていた。今この場所にいながら、まるで波の下、もっと深い記憶の底を覗いているようだった。


 その眼差しが、なぜだか僕の胸に、重たくのしかかった。



 その日、僕たちは図書室のあとに海辺に向かった。人気の少ない防波堤に並んで腰掛け、ぼんやりと夕日を眺めた。潮の香りと波音だけが、二人の間に満ちていた。


「ねえ、翔太くん」


「ん?」


「もし……人じゃないものが、この町にいたらどう思う?」


 唐突な問いに、僕は少しだけ眉をひそめた。


「人じゃない……って?」


「例えばね……海に生まれた、言葉を話す生き物。人に化けることができて、でも、本当の姿を隠している。そんな存在がいたとしたら、怖いって思う?」


 真剣な瞳。冗談や想像話ではない、何か切実な響きを帯びた声。


 「……それでも、僕は仲良くしたいな。たとえ見た目が違っても、話ができて、心が通じ合うなら」


 それを聞いた澪の目が、ほんの少し揺れた。風が吹き、彼女の髪が頬をかすめる。


「それは、優しさだよ。でも、優しさって……時に、凶器になることもあるんだよ」


 「え……?」


 「心を通わせたら、帰れなくなる。帰れなかったら、“消える”しかない。そんな掟があるなら……どうする?」


 その言葉は、ただの空想話ではないと僕の心に警鐘を鳴らした。


 でも、彼女はそれ以上は何も言わず、立ち上がった。


「ごめん、今日はもう帰るね。また……明日」


 夕陽に染まる背中が、遠く感じた。僕が言葉を返す前に、彼女の姿は防波堤の坂を下りていった。


 それから数日、澪は明らかに僕を避けるようになった。


 教室では目が合えば軽く会釈はするけれど、それ以上は話さない。昼休みも、以前はたまに図書室で顔を合わせていたのに、姿を見せなくなった。


 その代わりに、僕の夢が濃く、深くなっていった。


 また、あの海の中。重く冷たい水の中で、僕は何かを探すように彷徨っている。遠くから歌声が聞こえる。潮の満ち引きに重なるように、誰かが歌っている。優しく、悲しく、どこか懐かしい旋律。


 その中に、彼女の姿がある。


 長い黒髪と、銀色の尾ひれ。


 呼びかけようとしても、声は届かない。息が苦しくなって、手を伸ばしても届かない。


 ──「秘密に触れてはいけない」


 その声だけが、はっきりと僕の耳に残った。




 日曜日、僕はひとりで海に向かった。理由なんてなかった。ただ、身体が自然とそっちへ向かっていた。風が強く、空には灰色の雲が広がっていた。波は荒れ気味で、打ち寄せるたびに白く泡を巻いていた。


 その防波堤の先端に、ひとりの少女が座っていた。


 澪だった。


 彼女は、何かを待つように、ただじっと海を見つめていた。水面を探すようなその目に、僕は言葉を選ばずにはいられなかった。


 「……どうして、避けるの?」


 それは、思わず口からこぼれた本音だった。


 澪はゆっくりとこちらを見た。風に髪が踊る。まるで、それも一つの海流のようだった。


 「翔太くんが……優しいから、怖くなったの」


 「優しいだけで、怖くなる?」


 「……だって、優しさに触れると……人は簡単に、壊れるから」


 彼女は言葉を選ぶようにゆっくりと話す。けれどその言葉の裏に、どうしようもない覚悟のようなものが見え隠れしていた。


 「ねえ、翔太くん。もし、わたしが突然、いなくなったら──どうする?」


 「そんなの……嫌だよ」


 心の奥から、素直に出た言葉だった。


 そのとき、彼女の目が大きく揺れた。涙のように見えたけれど、それが雨粒か、潮風のせいか、僕にはもう分からなかった。


 彼女は、ただ静かに立ち上がって、海の方へ一歩踏み出した。


 「……この海の底にはね、秘密があるの」


 「秘密?」


 「それを話したら、わたしはもう──戻れなくなるの」


 そう言って、澪は僕の方を見て微笑んだ。


 その微笑みは、どこまでも透明で、哀しかった。

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