夢を見ている、とわかるほどに、その世界は幻想的だった。
暗く、深く、静かな海の底。どこまでも青く、どこまでも冷たい。まるで、時の流れさえ止まってしまったような世界で、僕はひとり、ただ泳いでいた。
腕は重く、脚は水に囚われて思うように動かない。それでも、心の奥底から突き動かされるような感情に従って、僕はその海の中を彷徨っていた。
何かを、探していた。
──違う。
誰かを、探していた。
そのとき、どこからか声が聞こえた。
「翔太……」
確かに澪の声だった。優しく、でもどこか悲しげな声。
振り返った先に、彼女はいた。
水の中をたゆたうように、滑るように泳ぐ澪。長く黒い髪は水に溶けるように広がり、瞳は淡い光を宿していた。
──けれど、その姿には“人”のものではないものが混じっていた。
彼女の脚はなかった。代わりに、銀色に光る美しい尾びれが、ゆらゆらと水を切っていた。
魚のようでいて、魚ではない。光を宿した鱗の一枚一枚が、夢だとは思えないほど細やかにきらめいていた。
「……澪?」
そう呼びかけたとき、彼女は何かを伝えようと口を動かした。
けれど、言葉は水に溶け、泡になり、消えてしまった。
ただ──
「──秘密に、触れないで」
その一言だけが、確かに僕の心に残された。
目を覚ましたとき、部屋は薄明かりに包まれていた。早朝五時過ぎ。カーテンの隙間から差し込む光が、まだ夢の気配を残した部屋の空気を照らしていた。
呼吸が浅く、手のひらにはじっとりと汗がにじんでいた。
夢の内容は、明瞭だった。いつものようにすぐに忘れてしまう類のものではない。むしろ、現実の記憶よりも鮮明で、温度さえ感じられるようだった。
あれは夢なんかじゃない。
そんな予感が、心に根を張った。
学校でもその余韻は消えなかった。黒板の文字を目で追いながらも、心はまるで海の底を漂っているように宙をさまよっていた。
そんな僕の様子に気づいたのか、隣の席の田島がひそひそと話しかけてきた。
「なあ、翔太。最近、朝ぼーっとしてるけど、大丈夫か?」
「え……? あ、ごめん。ちょっと寝不足で」
「夜更かしか?」
「……いや、変な夢見て」
「色っぽい夢だったら、俺にも分けてくれよ」
田島がからかうように笑ったけれど、僕はそれにうまく笑い返すことができなかった。彼が知っているような、単なる「夢」じゃない。もっと、ずっと深い何かだ。
休み時間、澪の席を見ると、彼女はノートに何かを書き込んでいた。小さな文字で、ページの端に、何かを丁寧に。
僕が近づこうとした瞬間、彼女はそれをそっと閉じた。
「澪」
「……翔太くん」
名前を呼ばれたのは久しぶりだった。
「昨日の夢、澪が出てきたんだ。……君が、尾びれのある姿で」
彼女の手が止まった。
静かな沈黙。教室のざわめきの中、そこだけが別の時間を刻んでいるようだった。
「見たんだね。夢の中の“海”を」
「やっぱり、あれは──」
「その夢はね、本来、あなたみたいな“人間”が見ることはないの。でも……心が誰かと強く繋がったときだけ、扉が開く」
「扉……?」
「“記憶の扉”よ。人と海を隔てていたはずの、境界の扉」
僕は息を呑んだ。
それはただの比喩でも、空想でもない。彼女はそれを、本気で語っていた。
僕は恐る恐る尋ねた。
「……澪は、本当は……何者なの?」
彼女は少しだけ笑った。でもその笑顔は、どこか哀しかった。
「……今はまだ、全部は言えない。でも……一つだけ教える」
そう言って、彼女は静かに言葉を置いた。
「“満月の夜”──海は記憶を喋るの。人魚も、嘘をつけなくなる」
「人魚……」
その単語に、胸の奥がざわめいた。
「次の満月、港の灯台の下に来て。もし、まだ……私のことを知りたいって思っているなら」
「……もちろん。行くよ」
その夜、僕は再び夢を見た。
海の底。今度は澪がそばにいた。尾びれの先をやさしく揺らしながら、僕の手を取ろうとする。
でも、その手は水の抵抗で思うように近づけず、指先がすれ違うたび、泡が弾ける。
「あなたが、望むなら──わたしの世界を、見せてあげる」
夢の中の彼女は、微笑んで、そう言った。
次の満月まで、あと六日。
胸の中で、鼓動が波のように高鳴っていた。