放課後の空は、まるで夏の海が空に広がったような色をしていた。
西の空がオレンジに染まり、風に運ばれてきた潮の匂いが校庭をかすめる。クラスメイトたちは週末の計画を話し合っていたが、僕の頭はずっとひとつのことでいっぱいだった。
満月の夜に、灯台の下で会おう。
澪の言葉が、胸の奥で小さく波を打ち続けていた。
家に帰ると、カバンを放り出して、そっと部屋の窓を開ける。南東の空に、すでに丸い月が顔を出していた。雲ひとつない、静かな夜の始まり。
「……行こう」
小さくつぶやいたその言葉に、鼓動が呼応する。何かが変わる。そんな予感に背中を押されるように、僕は灯台へと向かった。
灯台のある岬は、町はずれにある小さな場所だった。観光地というほどでもなく、知っている人だけが時折訪れるような、ひっそりとした場所。僕が小さい頃、祖父に連れられて星を見に来たことがある。けれど、あのときとは空の色も、波の音も、何もかもが違って感じられた。
満月の光は、まるで静かなスポットライトのように岬を照らしていた。
海は穏やかで、月明かりに照らされた波は銀色に輝いていた。灯台の白い外壁はほんのり青く染まり、まるで時間が止まったような幻想的な空間だった。
僕は灯台の根元に腰を下ろし、息を整える。空には、月と星だけ。風の音と、遠くで寄せる波音が耳に心地よかった。
──そして、彼女は現れた。
まるで海から生まれたように。
細い砂利道を歩く足音。白いワンピースが月の光をまとい、長い黒髪が夜風になびく。その姿は、この現実に存在しているのが不思議なくらいに美しかった。
「……待った?翔太くん」
静かに、彼女が言う。その声は、夢の中と同じだった。波の奥底から聞こえてくるような、やわらかく、でも確かな響き。
二人並んで、灯台の壁にもたれて座った。
彼女は少し間を置いてから、ぽつりと口を開いた。
「怖がらないで、ちゃんと聞いてね。私……普通の人間じゃないの」
「……うん。知ってる気がする。というか、わかってた」
僕がそう答えると、澪は少し目を見開いて、驚いたように笑った。
「夢を見たから?」
「うん。君が泳いでた。水の中で、尾びれが揺れてて……でも、寂しそうだった」
彼女は目を伏せ、膝を抱えた。月明かりがその頬に柔らかな影を落とす。
「私は“半人魚”なの。母が人魚で、父が人間」
「半人魚……」
「私は人間の姿で生まれたけど、心も体も、“海”に引き寄せられてしまうの。十歳のとき、初めて“海の記憶”を見た。それからはずっと、夜になると夢の中で泳いでた」
彼女の声は、波の音に似ていた。静かで、どこか切ない。
「でも、海は優しいだけじゃないの。人魚の世界には“掟”がある。人間と心を通わせすぎると、その人を海が“引き込んで”しまうの。……記憶を通して、魂ごと」
「引き込む……?」
「だから、本当は翔太くんに近づいちゃいけなかった。でも……」
彼女は唇を噛んだ。
「でも、気づいたら惹かれてた。翔太くんはいつも、“普通”でいてくれた。私が変わり者だって噂されても、そうじゃないって言ってくれた。……嬉しかった。ずっと、嬉しかった」
僕はその言葉に胸が熱くなるのを感じた。
「君は、変じゃないよ」
「……ありがとう。でも、ね──」
澪は、そっと僕の手を握った。
「この先、私が海に還る運命だったとしても、私のことを“人間だった”って思ってくれる?」
「そんなの、違う。君は“澪”だ。それだけでいい」
彼女の瞳に、月が映った。揺れる波のように、淡く光っていた。
そのあと、澪は静かに語った。
海の底には“記憶の門”があり、満月の夜にはそれが開かれること。
そのときだけ、人魚は“真実”を語ることが許される。
「でも、ね。私たち半人魚は、その記憶の門を“閉じる”方法も知ってるの」
「それって、どういうこと?」
「門を閉じれば、人魚の記憶も、力も失う。そのかわり、“ただの人間”になれるの。でも──」
「でも?」
「それは、命と引き換え。門を閉じるとき、海にある“心”の一部を……失うの」
言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
けれど、彼女の目の奥にある決意を見て、僕は悟った。
それは、彼女の“命”を削る覚悟だった。
灯台の明かりが一度だけ瞬いた。その刹那、彼女が言った。
「でも、私はまだ迷ってる。本当に、全部捨てていいのか。翔太くんといられるなら、それでもいいと思う自分と……もう一度、海に還りたいと思う自分とが、戦ってるの」
「迷って、いいよ。僕は待ってる。澪がどんな選択をしても、ちゃんと受け止めるから」
彼女はそっと目を閉じた。そして、月を見上げる。
「……ありがとう。来てくれて、話してくれて。本当に、ありがとう」
そして彼女は、防波堤を降りて海の方へ歩き出した。
潮風が白いワンピースを揺らし、彼女の髪が波のように踊る。
水際に立った澪は、振り返って、小さく微笑んだ。
「次の満月──そのときまでに、決める。私が“どちらの世界”に生きるか」
「……うん。僕は、君を信じてる」
波間に、彼女の姿が溶けていった。
灯台の光が、静かに回っていた。