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第4話  海の記憶と灯台の約束

放課後の空は、まるで夏の海が空に広がったような色をしていた。


 西の空がオレンジに染まり、風に運ばれてきた潮の匂いが校庭をかすめる。クラスメイトたちは週末の計画を話し合っていたが、僕の頭はずっとひとつのことでいっぱいだった。


 満月の夜に、灯台の下で会おう。


 澪の言葉が、胸の奥で小さく波を打ち続けていた。


 家に帰ると、カバンを放り出して、そっと部屋の窓を開ける。南東の空に、すでに丸い月が顔を出していた。雲ひとつない、静かな夜の始まり。


 「……行こう」


 小さくつぶやいたその言葉に、鼓動が呼応する。何かが変わる。そんな予感に背中を押されるように、僕は灯台へと向かった。




 灯台のある岬は、町はずれにある小さな場所だった。観光地というほどでもなく、知っている人だけが時折訪れるような、ひっそりとした場所。僕が小さい頃、祖父に連れられて星を見に来たことがある。けれど、あのときとは空の色も、波の音も、何もかもが違って感じられた。


 満月の光は、まるで静かなスポットライトのように岬を照らしていた。


 海は穏やかで、月明かりに照らされた波は銀色に輝いていた。灯台の白い外壁はほんのり青く染まり、まるで時間が止まったような幻想的な空間だった。


 僕は灯台の根元に腰を下ろし、息を整える。空には、月と星だけ。風の音と、遠くで寄せる波音が耳に心地よかった。


 ──そして、彼女は現れた。


 まるで海から生まれたように。


 細い砂利道を歩く足音。白いワンピースが月の光をまとい、長い黒髪が夜風になびく。その姿は、この現実に存在しているのが不思議なくらいに美しかった。


「……待った?翔太くん」


 静かに、彼女が言う。その声は、夢の中と同じだった。波の奥底から聞こえてくるような、やわらかく、でも確かな響き。







 二人並んで、灯台の壁にもたれて座った。


 彼女は少し間を置いてから、ぽつりと口を開いた。


 「怖がらないで、ちゃんと聞いてね。私……普通の人間じゃないの」


「……うん。知ってる気がする。というか、わかってた」


 僕がそう答えると、澪は少し目を見開いて、驚いたように笑った。


「夢を見たから?」


「うん。君が泳いでた。水の中で、尾びれが揺れてて……でも、寂しそうだった」


 彼女は目を伏せ、膝を抱えた。月明かりがその頬に柔らかな影を落とす。


「私は“半人魚”なの。母が人魚で、父が人間」


「半人魚……」


「私は人間の姿で生まれたけど、心も体も、“海”に引き寄せられてしまうの。十歳のとき、初めて“海の記憶”を見た。それからはずっと、夜になると夢の中で泳いでた」


 彼女の声は、波の音に似ていた。静かで、どこか切ない。


「でも、海は優しいだけじゃないの。人魚の世界には“掟”がある。人間と心を通わせすぎると、その人を海が“引き込んで”しまうの。……記憶を通して、魂ごと」


「引き込む……?」


「だから、本当は翔太くんに近づいちゃいけなかった。でも……」


 彼女は唇を噛んだ。


「でも、気づいたら惹かれてた。翔太くんはいつも、“普通”でいてくれた。私が変わり者だって噂されても、そうじゃないって言ってくれた。……嬉しかった。ずっと、嬉しかった」


 僕はその言葉に胸が熱くなるのを感じた。


「君は、変じゃないよ」


「……ありがとう。でも、ね──」


 澪は、そっと僕の手を握った。


「この先、私が海に還る運命だったとしても、私のことを“人間だった”って思ってくれる?」


「そんなの、違う。君は“澪”だ。それだけでいい」


 彼女の瞳に、月が映った。揺れる波のように、淡く光っていた。




 そのあと、澪は静かに語った。


 海の底には“記憶の門”があり、満月の夜にはそれが開かれること。


 そのときだけ、人魚は“真実”を語ることが許される。


「でも、ね。私たち半人魚は、その記憶の門を“閉じる”方法も知ってるの」


「それって、どういうこと?」


「門を閉じれば、人魚の記憶も、力も失う。そのかわり、“ただの人間”になれるの。でも──」


「でも?」


「それは、命と引き換え。門を閉じるとき、海にある“心”の一部を……失うの」


 言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


 けれど、彼女の目の奥にある決意を見て、僕は悟った。


 それは、彼女の“命”を削る覚悟だった。





 灯台の明かりが一度だけ瞬いた。その刹那、彼女が言った。


「でも、私はまだ迷ってる。本当に、全部捨てていいのか。翔太くんといられるなら、それでもいいと思う自分と……もう一度、海に還りたいと思う自分とが、戦ってるの」


「迷って、いいよ。僕は待ってる。澪がどんな選択をしても、ちゃんと受け止めるから」


 彼女はそっと目を閉じた。そして、月を見上げる。


「……ありがとう。来てくれて、話してくれて。本当に、ありがとう」




 そして彼女は、防波堤を降りて海の方へ歩き出した。


 潮風が白いワンピースを揺らし、彼女の髪が波のように踊る。


 水際に立った澪は、振り返って、小さく微笑んだ。


「次の満月──そのときまでに、決める。私が“どちらの世界”に生きるか」


「……うん。僕は、君を信じてる」


 波間に、彼女の姿が溶けていった。


 灯台の光が、静かに回っていた。


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