翔太は、眠るたびに夢を見るようになった。
水の中。透明な青緑の世界で、澪が遠ざかる。まるで誰かの見えない手に引き込まれるように、ふわり、ふわりと海底へと沈んでいく。彼女の長い黒髪が水中で踊り、白いワンピースの裾が花びらのように広がっていた。
「澪!」
翔太は必死に手を伸ばす。指先が彼女の手に触れそうになる瞬間、水の流れが二人を引き離した。届かない。何度手を伸ばしても、彼女はするすると深い蒼に飲み込まれていく。
澪は振り返る。その顔は笑っているようで、泣いているようで──光の屈折で揺らめいて、いつも霞んで見えた。唇が何かを呟いている。音は聞こえない。でも、翔太には分かった。
『さようなら』
そう言っているのだ。
そして、目覚める。
「……まただ」
汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、翔太は小さく息を吐く。枕元の時計は午前三時を指していた。夢なのに、痛いほど鮮明だった。胸が締めつけられるように苦しく、喉の奥が塩辛い。まるで本当に海水を飲み込んだかのように。
ベッドから起き上がり、窓に向かう。カーテンの隙間から、街灯の冷たい光が差し込んでいた。外は静寂に包まれ、時折、遠くで車のエンジン音が聞こえるだけ。なのに、翔太の心の中は嵐のように荒れていた。まるで世界が灰色に染まっているようだった。
「澪……どこにいるんだ」
彼の声は誰にも聞こえない部屋の中で、虚しく響いた。
澪は、学校に来なくなった。
あれから既に一週間が過ぎている。教室の後方、窓際の席がぽっかりと空いていた。そこには彼女がいつも座り、頬杖をついて外の景色を眺めていたのに。
「綾瀬さん、今日も休みですか?」
担任の田中先生が出席を取りながら尋ねる。返事はない。当然だった。保健室登校もなく、教室にも姿を見せず、連絡も取れないのだから。
翔太は何度も澪の家に電話をかけた。最初の数回は呼び出し音が鳴り続けるだけだった。四回目に、ようやく誰かが出た。
「はい、綾瀬です」
それは澪の声ではなかった。年上の女性、おそらく三十代くらいの落ち着いた声。澪の母親だろうか。でも、彼女の話では両親は早くに亡くなったはずだったが。
「あの、僕、澪さんのクラスメイトの翔太です。澪さんは……」
「申し訳ございません。澪は体調を崩してしばらく休ませていただきます。ご心配をおかけして」
「でも、いつ頃……」
プツン。電話は一方的に切られた。
翔太は受話器を見つめた。何かがおかしかった。澪の話し方ではない。そもそも、彼女に身内がいるなんて聞いたことがなかった。
クラスメイトたちの囁き声が聞こえてくる。
「引っ越したらしいよ」
「もともとどこか浮いてたしね、あの子」
「やっぱり変だったもん。一人でぼーっとしてることが多かったし」
「海の方をいつも見てたよね。まるで何かを探してるみたいに」
翔太は振り返りたくなった。そんな風に澪のことを語る彼らに、何を知ってるんだと言いたくなった。でも、怒りを感じる暇もなかった。心のどこかが、ぽっかりと空洞になっていた。まるで胸に穴が開いているようで、そこから冷たい風が吹き抜けていく。
昼休み、翔太は一人で屋上に上がった。遠くに海が見える。澪がよく眺めていた景色だった。
「君は、どこに行ったんだ……」
風が頬を撫でていく。その中に、かすかに潮の香りが混じっていた気がした。
彼女が最後に見せた表情が、翔太の心から離れなかった。
あれは一週間前の夜だった。満月の夜、灯台の下で見せた、あの涙を含んだ微笑み。あんな顔をする澪を、翔太は見たことがなかった。まるで何かを覚悟した人の顔だった。諦めと、愛おしさと、そして深い悲しみが混じり合っていた。
「僕が、もっと早く気づいていれば……」
翔太は自分を責めた。澪の正体を知った時、もっと違う反応をするべきだったのではないか。人魚だと分かった時、驚きよりも先に、彼女がどんな思いでそれを隠してきたかを考えるべきだった。
「僕が、知らなきゃいけなかったんだ……彼女の痛みを、孤独を」
翔太は学校をサボった。授業中、こっそりと校舎を抜け出し、バス停に向かった。行き先は決まっている。澪がよく通った海辺の小道。二人でよく歩いた、あの場所。
バスの窓から見える景色が、次第に緑豊かになっていく。住宅地を抜け、畑が広がり、やがて海の青が見えてきた。遠くに潮の香りが漂う。それは懐かしくて、同時に胸が痛くなるような匂いだった。
バスを降りて、小道を歩く。海鳥の鳴き声が響いている。風に乗って、誰かの呼ぶ声が聞こえた気がした。
「翔太くん……」
──澪の声だ。
翔太は立ち止まる。辺りを見回すが、誰もいない。ただ、草が風に揺れているだけ。
「翔太くん、お願い……私を、忘れないで」
今度ははっきりと聞こえた。でも、それは幻聴だと分かっている。そんな幻聴すら、翔太の胸に突き刺さる。まるで本物の澪が、遠くから呼んでいるようで。
足を進める。岬の先端を目指して。そこには澪との思い出がたくさん詰まっていた。初めて彼女の正体を知った場所。最後に彼女と話した場所。
岬の先端まで辿り着いたとき、誰かがそこに立っていた。
その人物は、夜の海のような静けさを纏った青年だった。
二十代半ばくらいだろうか。身につけた黒のロングコートが潮風に舞っている。髪は澪と同じような深い黒で、肩まで伸びていた。そして何より、彼の目は澪とよく似ていた。深く、澄んでいて、どこか遠くを見つめているような。まるで海の底を覗き込んでいるような、そんな瞳。
青年は翔太に気づくと、振り返った。その動きは水のように滑らかだった。
「……君が翔太くんか?」
「……誰だよ、あんた。なんで僕の名前を」
翔太は警戒した。見知らぬ男が、こんな場所で自分の名前を知っている。それだけで十分怪しい。
青年は少しだけ笑った。それは澪の微笑みにどこか似ていた。
「私は、澪の兄……いや、"かつての同胞"とでも言えばいいか」
「同胞……?」
翔太は眉をひそめた。澪に兄弟がいるなんて聞いたことがない。それに、同胞という言葉の響きが気になった。
「彼女から君のことはよく聞いていた。『翔太くんは優しい人』『彼になら、きっと理解してもらえる』と」
青年の声は穏やかだったが、どこか悲しみを含んでいた。
「澪が……僕のことを?」
「ああ。君のことを話しているとき、彼女の目は輝いていた。長い間、一人だった彼女にとって、君は希望だったんだろう」
翔太の胸が熱くなった。同時に、罪悪感も押し寄せてくる。
「でも僕は、彼女を守れなかった。彼女がどんなに苦しんでいたか、気づけなかった」
「それは君のせいじゃない。彼女は強い子だった。自分の痛みを人に見せることを嫌った」
青年は海の方を向いた。夕日が水平線に沈もうとしている。空がオレンジ色に染まっていた。
「彼女は今、"選びの儀"に入っている」
「選びの儀……?」
「人として生きるか、人魚として還るか。我々の一族は、十八歳になると必ずこの選択を迫られる。そして、どちらを選んでも、代償が必要だ」
翔太の心臓が早鐘を打った。
「代償って、何だよ」
「人として生きることを選べば、海の記憶を全て失う。自分が人魚だったことも、海で過ごした時間も、そして……我々のことも忘れる」
「それの何が悪いんだ。人間として生きられるなら……」
「だが、人魚として還ることを選べば、陸での記憶を失う。人間として過ごした時間、出会った人々、そして……君のことも」
翔太の拳が震えた。
「そんなの、おかしいじゃないか! なんで記憶を失わなきゃいけないんだ!」
「それが掟だ。二つの世界にまたがって生きることは許されない。中途半端では、どちらの世界でも幸せになれないから」
「でも……」
翔太の声が詰まった。どちらを選んでも、澪は今の澪ではなくなってしまう。それは、澪が死んでしまうのと同じことではないのか。
「彼女は人魚だ。それが何だって言うんだ。人間だろうが人魚だろうが、そんなのどうでもいい。彼女がここに、澪として生きてくれれば……それだけでいい!」
翔太の叫びが、潮風に混じって響いた。
青年は静かに振り返った。その目に、かすかな驚きが浮かんでいた。
「だが、それは叶わない。"門"が開かれた以上、選ばなければならない。そして選んだ瞬間、片方の自分は"泡"になって消えるんだ」
「泡……」
「そう。人魚は悲しみが極まると泡になる。それは我々にとって、最も美しい死に方とされている」
青年の声は冷たくも優しかった。まるで、避けられない運命について語っているかのように。
「それでも、君は彼女の側にいる覚悟があるのか? 彼女がどんな選択をしても、その結果を受け入れられるのか?」
翔太は青年を見つめた。その瞳の奥に、深い悲しみが見えた気がした。きっと、この青年も同じような選択をしたことがあるのだろう。
「ある。……怖いけど、あるよ」
翔太の目は真っ直ぐだった。震えていたが、迷いはなかった。
「僕は澪を愛してる。彼女がどんな選択をしても、それを尊重する。でも……」
「でも?」
「僕は、澪に忘れられたくない。澪のことも忘れたくない。だから、何か方法があるなら……」
青年は静かに頷いた。
「ならば、君には"記録"を残す権利がある」
そう言って彼は、コートの内ポケットから小さなノートを取り出した。革張りの表紙で、手のひらに収まるサイズ。中を開くと、真っ白なページが続いている。
「これは"忘却を拒む器"と呼ばれるもの。君が心を込めて綴った想いは、彼女の記憶の深層に刻まれる。例え表面的な記憶を失っても、魂の奥底では覚えているだろう」
「本当に……?」
「ただし、条件がある。君の愛が本物でなければ、この器は働かない。そして、一度書き始めたら、最後まで書き続けなければならない。途中で諦めれば、全てが水泡に帰す」
翔太はノートを受け取った。ずっしりとした重みがあった。これは単なる紙の束ではない。何か特別な力を秘めている。
「時間はあまりない。次の満月の夜、彼女は最終的な選択をする。それまでに、君の想いを全て書き留めるんだ」
青年は振り返ると、海の方へ歩いていく。
「待って! 澪は今、どこにいるんだ?」
「彼女は"間の世界"にいる。人間でも人魚でもない、狭間の場所に。君には見えないし、触れることもできない。だが……」
青年が立ち止まる。
「君の心が本当に彼女を想っているなら、きっと感じられるはずだ」
そう言い残して、青年の姿は夕闇に消えていった。まるで最初からそこにいなかったかのように。
その日から、翔太は毎晩、ノートに手紙を書いた。
部屋の机に向かい、ペンを握る。最初は何を書けばいいのか分からなかった。でも、澪のことを考えると、自然に言葉が浮かんでくる。
*澪へ。今日は風が強かったよ。君の髪がなびいていたのを思い出した。君はいつも、風に髪を遊ばせながら空を見上げていたね。あの時の君は、とても綺麗だった。*
一日目。
*澪へ。君がいなくなって、学校が静かすぎるよ。誰も君の居場所を知らない。君の席だけが、ぽっかりと空いている。まるで君の存在が夢だったみたいに、みんな普通に過ごしてる。でも僕は覚えてる。君の笑い声を、君の困った顔を、君の全部を。*
二日目。
*澪へ。今日、君がよく読んでいた本を図書館で見つけた。『人魚姫』。ページの端が少し折れていて、君が何度も読み返していたのが分かる。君はあの物語に自分を重ねていたのかな。でも君は、あの人魚姫よりもずっと強い。*
三日目。
*澪へ。君の好きだった夕焼けを見に、港に行った。空がオレンジ色に染まって、とても綺麗だった。でも、君と一緒に見た時の方が、何倍も美しかった。君がいると、世界の色が鮮やかになる。*
四日目。
文字は次第に震え、涙でにじむ日もあった。でも翔太は書き続けた。澪への想い、二人の思い出、そして彼女への願いを。
*澪へ。僕は、君がどんな選択をしても後悔しない。君が生きたいように生きてくれればいい。人間として生きたいなら、それを応援する。人魚として生きたいなら、それも受け入れる。ただ……*
*でも……僕は、まだ君を失いたくない。わがままだって分かってる。でも、君がこの世界からいなくなることだけは、耐えられない。*
五日目の夜、翔太は筆を止めた。窓の外で、月が雲間から顔を出している。もうすぐ満月だ。
そして、満月の夜がやってきた。
翔太はノートを抱えて、再び灯台の下に向かった。夜道を歩きながら、心臓の鼓動が聞こえる。不安と期待が混じり合って、胸が苦しい。
灯台の光が闇を切り裂いている。規則正しく回転する光が、海面を照らしては去っていく。波の音が、いつもより激しく聞こえた。
そして──そこには澪がいた。
光の中、まるで夢のように立っていた。白いワンピースを着て、長い髪を風になびかせている。でも、その姿はどこか透けて見えた。まるで蜃気楼のように、頼りない存在感。
「……翔太くん」
その声は、少しだけ震えていた。懐かしい声。愛しい声。
翔太はゆっくりと彼女に歩み寄った。足音が砂を踏む音だけが響く。
「澪……本当に君なのか?」
「ええ。でも、これが最後かもしれない」
澪の目に涙が滲んでいた。それは月光の下で、ダイヤモンドのように輝いて見えた。
「最後だなんて言うな。君はここにいる。僕の目の前にいるじゃないか」
翔太はノートを差し出した。手が震えている。
「君に、渡したいものがある」
澪はそっとそれを受け取った。表紙を撫でてから、ゆっくりとページをめくる。一行一行、丁寧に読んでいく。
「……こんなに、私のことを……」
「忘れないって、約束したから」
澪の頬を涙が伝った。それは海水のように塩辛そうで、でも真珠のように美しかった。
「翔太くん、ありがとう。私、決めたの」
「決めたって……何を?」
そのとき──海が、光り始めた。
澪の背後で、青白い渦が浮かび上がる。それは巨大な螺旋を描きながら、ゆっくりと回転している。"海の門"。翔太は直感的にそう理解した。
澪の足元が、少しずつ泡に溶けていく。まるで塩が水にとけるように、静かに、静かに。
「私が"選ぶ"ときが来た」
「澪……」
翔太は、彼女の手を強く握った。その手は氷のように冷たかった。でも、確実にそこにあった。
「何を選んでも、君は君だ。……でも、行かないで。君がここにいない世界なんて、僕には意味がない」
「翔太くん……」
澪は泣いていた。けれど、その目はまっすぐ翔太を見ていた。愛おしそうに、そして決意を込めて。
「ありがとう、翔太くん。あなたに出会えて、本当によかった。あなたがいてくれたから、私は人間でいられた。愛することを知れた」
「澪……」
「私は……」
次の瞬間、澪の体が光に包まれた。それは優しく、暖かい光だった。月光よりも柔らかく、星の光よりも美しい。
その中で、彼女は微笑んでいた。今まで見たことがないほど、穏やかな笑顔で。
「私は、人魚として還ります。でも、あなたとの思い出は、魂の奥に刻んでおく。それが私の……」
「澪!」
光が弾けた。澪の姿は無数の泡となって、空に舞い上がっていく。泡は月光を受けて虹色に輝きながら、風に運ばれて海へと帰っていく。
翔太は手を伸ばした。でも、掴めるのは空気だけ。
「澪……澪!」
彼の叫びが夜空に響いた。でも、答えるものはいない。ただ、波の音だけが、静かに響いているだけだった。
翌朝。海辺に残されたノートは、風にページをめくっていた。
翔太は砂浜に座り込み、膝を抱えている。一晩中そこにいた。澪を待って。でも、彼女が戻ってくることはないと分かっている。
潮が引いた砂浜には、小さな貝殻がいくつも打ち上げられていた。その中に、一つだけ特別に美しい貝殻があった。螺旋を描いた巻き貝で、内側が真珠のように光っている。
翔太はそれを拾い上げた。耳に当ててみる。
すると──微かに、歌声が聞こえた気がした。澪の歌声。遠く、海の向こうから響いてくるような。
『忘れないで、翔太くん。私は海にいる。いつも、あなたを見ている』
それは幻聴かもしれない。でも、翔太の心には確実に届いていた。
「忘れない。絶対に忘れない」
翔太は貝殻を握りしめた。そして、ノートを拾い上げる。ページをめくると、自分が書いた文字の下に、新しい文字が書かれていた。美しい、流れるような文字で。
翔太くんへ。ありがとう。あなたの愛は、私の魂に永遠に刻まれています。海から、いつもあなたを見守っています。─澪
翔太の目から涙がこぼれた。でも、それは悲しみの涙だけではなかった。喜びと、感謝と、そして愛に満ちた涙だった。
誰もいない砂浜に、静かに響く波の音。その音の中に、澪の笑い声が混じっているような気がした。
翔太は立ち上がった。ノートと貝殻を胸に抱いて、来た道を戻っていく。振り返ると、海が朝日を受けて金色に輝いていた。その輝きの中に、一瞬、澪の姿が見えたような気がした。
彼女は手を振っている。『元気でね』と言っているようだった。
翔太も手を振り返した。そして、小さく呟く。
「また会おう、澪。きっと」
海風が頬を撫でていく。それは、澪からの最後の贈り物のように感じられた。