澪が泡となって消えてから、どれほどの時が流れただろう。
季節は巡り、夏の終わりの風が教室に吹き込む。蝉の声も遠くなり、木々の葉は少しずつ色を変え始めていた。
澪の席は、まだそのままだった。担任教師が 「転校届が出された」とだけ伝えたのは、9月の初めだった。誰も詳しくは知らない。ただ、静かに彼女は"いなかったこと”になろうとしていた。
だが翔太は、忘れなかった。
毎晩、彼は例のノートを開いた。最後のページには、あの夜、澪が指でなぞるように書き残した一行があった。
──ありがとう、翔太くん。わたしも、君を忘れない。
秋のある日。翔太は再び、あの灯台の下に立っていた。
潮風はどこか懐かしく、目を閉じると澪の声が聞こえてくるようだった。
彼女は本当に人魚だったのか―いまだに実感はなかった。ただ、彼女のすべての言葉と表情が嘘でなかったことだけは、確信していた
そのとき、背後から声がした。
「君は、まだここに来るんだな」
振り返ると、あの黒衣の青年が立っていた。
「......君は」
「"記録の番人"だ。人と人魚、両方の世界を見届ける立場にある」
翔太は問いかけるように見つめた。
「澪は......あれからどうしてるんですか」
青年は一瞬、目を伏せた。
「泡になるというのは、"存在が消える"ことではない。"かたち"を失っても、想いが強ければ、記憶として残り続ける。澪は今、"記憶の海 "にいる。君の心が彼女を想い続ける限り、彼女はそこに存在する」
「じゃあ......もう会えないんですか」
「"想い"が重なれば、扉が開くこともある。 人魚と人間の交わりは、本来許されぬ奇跡だ。 だが、君たちはそれを起こした。次に必要なのは──"選びなおす勇気"だ」
た。 青年はそう言うと、小さな貝殻を差し出し
「これは"記憶の貝”。夢の中で彼女に会えるかもしれない。けれどそれには、君自身が"澪を信じ続ける心"を持ち続けなければならない」
翔太は貝殻を胸に抱きしめ、そっと頷いた。
その夜、翔太は静かに目を閉じた。
波の音が聞こえる。遠くから、誰かの歌声がする。やさしく、切なく、澄みきった声だった。
──澪の歌声だ。
そして、夢の中で翔太は見た。月明かりの下、水面を揺らすように現れた澪の姿を。泡ではなく、きちんと「かたち」を持った少女として。
「翔太くん......」
「澪......! 本当に......君なのか?」
澪は微笑んだ。
「私はもう、あの世界にはいない。でもね、 君が私を信じてくれたから、こうしてまた会えた」
翔太は泣きながら言った。
「僕は君を助けられなかった......何もできなかった」
「違うよ、翔太くん。君の想いが、私を"泡 "にしなかった。私はまだ、ここにいる」
そのとき、翔太の胸の中に、かすかな温もりが芽生えた。
夢が覚めても、胸の奥には確かな声が残っていた。
────私は、君を信じてる。
翔太は、新しいノートを手に取った。
今度は「想い」ではなく、「記録」として綴るつもりだった。澪の存在が確かにこの世界にあったことを、誰かに伝えるために。
タイトルは、迷わずこう書いた。
『そう、...だって私は──人魚。』
それは、彼女が"泡にならなかった"証。そし
て、未来へ繋がる始まりだった。