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第7話  記憶の海

翔太は日々、ノートに言葉を綴りながら、少しずつ自分の足で日常を歩き出していた。


朝、学校へ向かう道。クラスのざわめき。すれ違う人々の中に澪の面影を探してしまう癖は、まだ抜けなかった。それでも、彼はもう俯いてはいなかった。


あの夜から、彼の夢は不思議に彩られ始めていた。澪の歌声に導かれるようにして、翔太は毎夜、深い海の底へ潜っていく。そこには現実とは異なる、青くて、静かで、時の流れが止まったような世界があった。彼の心の奥底に潜む想いが、海の水となり、波となって彼を迎えているかのようだった。




「記憶の海」と、彼は名づけた。


ある夜、翔太はいつものように夢の中で澪を見つけた。彼女は、大きな貝殻のような岩に腰掛けて、波の音に耳をすませていた。翡翠色の海水が彼女の足元をなでる。翔太の姿を見つけると、澪はゆっくりと立ち上がる。


「……来てくれたんだね」


「会いたかったよ」


澪は、何か言いかけて、でも少しうつむいた。


「この世界は、あなたの想いが呼んだ“記憶の場所”。でも、それだけじゃ……私は、戻れないの」


翔太の胸に、淡い痛みが広がった。彼女の言葉は、彼の心を引き裂く鋭い刃のようだった。


「どうしたら……君は帰ってこられるんだ?」


「“再会の扉”を開く鍵が必要なの。過去と現在の記憶を紡ぎ、“誰かの本当の願い”を捧げなければいけない」


翔太は拳を握る。心の中で決意が燃え上がった。


「だったら、僕はその鍵を探す。君を連れ戻すって決めたんだ」


澪は目を見開き、それから静かに微笑んだ。


「ありがとう。……でも、覚悟して。記憶の海は、ただ美しいだけの場所じゃない。時に、忘れたい記憶すら現れる」


翔太の内心に、一瞬の恐れがよぎった。しかし、彼は恐れを飲み込み、澪のために進む決意を固めた。


翌日から、翔太の夢は変わった。


彼は記憶の海を泳ぎ、澪の“記憶の欠片”を探す旅に出た。


──その中には、翔太が知らなかった澪の姿があった。


狭い家。閉ざされた窓。声を荒げる大人の影。涙をこらえながら本を抱きしめる澪。

「海に行きたい。自由になりたい。人じゃなくてもいい……私を見つけて」


翔太は胸を抉られる思いで、その記憶を見届けた。


「澪……君は、こんなにも……」


記憶の海の深淵にあるのは、ただの幻想ではない。本物の、誰にも言えなかった孤独と願い。翔太は澪の痛みを直に感じ、涙を流した。


そのとき、翔太の足元に、青白く輝く“鍵”が現れた。それは、翔太の中で育った覚悟が具現化したものだった。


再び澪と出会ったとき、翔太はそっとその鍵を手渡した。


「君の願いを、僕が抱える。だから、もう一度……生きてほしい」


澪の瞳から、大粒の涙がこぼれた。


「ありがとう……翔太くん。私、本当はずっと怖かった。人でいられなくなることも、誰かに忘れられることも。……でも、君だけは、ずっと手を伸ばしてくれた」


記憶の海に、かすかな風が吹いた。それは澪の心の響きを運ぶ風。翔太は、その瞬間、澪のあどけない笑顔や、不安な表情が心の中に鮮明に浮かび上がるのを感じた。彼は、その記憶が彼女にとってどれほど重たいものであるかを理解し、彼女を支える力をもっと強く持たなくてはならないと心に誓った。


「澪、君がいる限り、僕は決して諦めない。君のことを忘れないから。君の願いを叶えるために、僕はどんな困難でも受け入れるよ」


澪の目が明るく輝いた。

「翔太くん、私のためにそこまでしてくれるなんて、信じられない。でも……」


言葉を切ってひと息つき、彼女はゆっくりと視線を戻した。

「これからの道のりは、あなたにとっても過酷なものになるかもしれない。この海には、恐怖や悲しみがいっぱい詰まっている。あなたには、私が経験したことがない試練が待っていると思う。」


翔太は頷いた。

「それでも、僕は進むよ。どんな試練が待っていても、君に会いたいから。君を取り戻すためなら、どんな苦しみでも受け入れる。」


澪はほんのりと微笑んだ。

「あなたのその言葉が、私の支えになる。もっと強く、もっと優しくなれるように、私は応援するから。」


その瞬間、記憶の海が一層輝きを増した。前方に光り輝く“扉”が浮かび上がる。


「これは“再会の扉”。翔太くん、君がくれた想いが、私に帰る道を示してくれたの」


翔太は澪の側に立ち、彼女の手をそっと握った。

「一緒に行こう。ここから出て、もう一度ふたりで新しい世界を歩こう。」


「うん…」

澪が頷くと、その瞬間、二人の周囲を温かな光が包み込んだ。


翔太が目を覚ますと、朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。おぼろげな意識の中、彼の心には澪の言葉が響いていた。「私はあなたの支えになる」という、その一言が不思議な力を与えた。


そして、枕元には──現実には存在しないはずの“記憶の貝殻”が、ひっそりと置かれていた。それは、彼と澪の絆の証だった。彼はそれを優しく手に取り、光にかざす。


「これが、すべてが夢ではない証明だ」


新たな決意が彼の胸を満たす。

「もう一度、君に会える」


翔太は思いを強くし、澪との新たな未来を夢見ながら、彼女と“再び出会う世界”を探し始めた。その心の中には、澪の温かさと彼女を守りたいという強い想いが生き続けていた。彼は反響する海の音を感じ、彼女との再会を果たすための旅路を歩き続けることを決めた。どんな試練が待っていようとも、彼には希望があった。そして希望は、未来を照らす光であった。


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